バレンタインの恋人


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来たる2月21日







「レイちゃん苦手な物はあるかしら」
 既にちゃん付けで呼び始めているお母さん。
「いえ。特にないですよ」
 全然気にせず受け答えするレイ。
「まあ、そうなの? 朔夜も好き嫌い無く食べてくれれば嬉しいのに」
 私達姉弟の心配も余所にどんどん親密具合が高まっていくリビング。
 ――まだ数時間も経ってないのに。
 晩ご飯をごちそうするのは良いんだけど。
 良いんだけれど。良いんだよ? 
 でも鍋って。いきなり鍋パーティって。
 煮えたぎる琥珀色のスープに視線を注ぎ。右横に座る彼を見る。
 にこにこととても幸せそうに微笑んでいて何か言えそうな雰囲気ではない。
 左隣で黙々と薬味を器に転がしている弟を見る。何かを諦めた目が寂しい。
「いいじゃん。和やかで」
 言い切る朔夜の姿が何処か疲れた風に映る。
 それも気になるけれど。それよりも。
「…………朔夜」
 絶え間なく箸を動かす弟を眺め、溜息が漏れる。
「なんだよ」
 ぴた、と朔夜が動きを止め、鋭い瞳をこちらに向けた。今度ばかりは私も怯まない。
『にんじんをより分けるの止めようよ』
 耳元で指摘すると、不服そうに唇を尖らせた。自分の近場にある鍋からにんじんをせっせと遠くに敷き直している姿は可愛い事は可愛いけど、一応お客様の前なんだし出来るなら止めて欲しい。
「ヤダ」
 自称精神年齢高校生以上の弟は、朱色の野菜を自分から遠ざけて横を向いた。
「他のお肉も買ってくれば良かったわね」
「この料理お鍋ですよね。見るのも初めてなのでオレ嬉しいですよ」
 そ、そうなんだ。横で朔夜が仏頂面になって『リョウリ?』と呻いているが聞き流す。
 お湯の中で泳ぐ昆布。ざく切りにした野菜とお肉が適当に放り込まれている。立派な料理だよ。たぶん。
 サンマを炭にしたお母さんが作った料理にしてはまともな方だと思う。
 朔夜が口を微かに開き、息を吐き出す。何かいろいろと言いたそうな表情だが、諦められたらしい。
 きっと〈リョウリだと思ったとか言わないよな〉それか〈認識の違いは海より深い〉といった所だろう。
 絶対きっと確実にどちらかだ。そこまで分かってしまうのが悲しい。
 ぱたぱた、と音を立てお母さんが戻ってくる。嬉しそうな顔でちょこんと座り込み、うふふと声を漏らした。
「もうそろそろ煮えてるんじゃないかしら」
 戻ってきた?
 胸元に何かを抱え、ご満悦の表情。
「あのぉ、お母さん」
「ねえレイちゃん。ほらっ、アルバムも残ってるのよ。思い出すわ、あのころのレイちゃんとても可愛かった」
 胸の内を覆う暗い予感に疑問を漏らす暇も与えず、お母さんは両手を振り回しそうな勢いで口を開く。
 そうなんだ。写真残ってたんだ。アルバム……アルバム!? 変な所とか撮られてないよね。
「有り難うございます」
 不安に怯える私とは違い、彼はにこ、と微笑んで両手で支えていた緑茶の入った湯呑みを置く。
 なんだかお母さんとレイが恋人同士に見えてくる。なんとなくジェラシー。
「ねぇちゃんはこれか。ふぅん。ほぉ」
 含んだ口調でちらちらコチラ眺め、はぁぁと溜息。半眼で微かに呟いた、『薔薇とたんぽぽ』なる言葉を私は聞き逃さなかった。
 ひ、ひどい。酷すぎるよ朔夜。たんぽぽは。たんぽぽは。カワイイけれど。
「このころからとっても可愛かったから格好良くなると思ってたのよ」
「あなたも昔と変わらず綺麗ですよ」
 笑顔を保ったままレイが続けた台詞に全員が硬直した。お父さんの手元の新聞が雑音を漏らす。
「あら、やだぁ。もう、お上手ね」
 真っ向から向けられた言葉にちょっと照れたのか、お母さんは相好を崩し、手を振る。
 奥ゆかしい日本男児のお父さんは違った意味で固まっている。
 口説き文句ではなく日常に織り込まれる褒め言葉。怒声を上げる程のものでもない。
「……あ、お肉煮えてる」
「うん。きのこも煮えてるぞ」
 ただ、独特の気まずさは打ち消せず姉弟揃って口数が少なくなる。
 場違いに微笑んでいるレイを羨ましいと思う私の神経は華奢すぎるのか。
「ありがと」
 程よく煮えたきのこが器に落とされる。弟は器用に箸を翻し、私の器に鶏肉、ネギ、白菜、こんにゃく――
 そろそろ溢れそうだよ朔夜。
 どうも鍋の中身を選別することに熱中して取り皿の容量まで考えきれていないらしい。現実逃避にも一役買っているらしく、淡々と具材をより分けている。
 思う間にも純白の豆腐が乗せられ、決壊(けっかい)を起こし掛けた堤防(ていぼう)のごとくぶるりと数度揺れた。
「さ、朔夜。朔夜」
「ん」
「もういい。もういいよ。ありがとうもういいです充分だから」
「まだまだあるから遠慮せず食え。ほれ」
 豆腐の上に白滝が被さる。柔らかな四角が欠け、崩れた一角は器へ何とか収まる。
 中を。鍋じゃなく私の取り皿の中を見て!
 悲鳴に変わりそうな目線を向けるが、朔夜はこっちを見ない。箸を泳がせ、掴みだそうとした白菜が滑り落ち鍋に戻る。
 ――たっ、助かった?
 朔夜の顔をそろりと眺め。ひっ、と上げ掛けた声を喉奥に押し込める。
 元々穏やかな目つきではない我が弟。一度見たらもう充分な程に恐ろしい眼をしていた。 
 自分の取り皿に暗い視線を落とし、小さく口を動かし怨嗟らしき言葉を漏らす。
 こ、こわい。物騒なオーラが出てるよ朔夜!?
 冷えた指先を暖めようと抱えたがかちかちと湯飲みが鈍く震える。
「どうぞ」
 柔らかな台詞と、弟の手元の受け皿にのせられたものを知覚して状況が理解できた。
 白い受け皿に赤が映える。箸を止めたまま朔夜が強張った笑顔を向けている。
 ぽつんと寂しげに横たわる一欠片の野菜。朔夜の幼少時代からの天敵〈にんじん〉。
 地獄の門前並に凍える空気に気が付かず、人当たりの良い笑みを返すレイ。
 私がもし、仮に「はいどうぞ」なんてやってしまったとすれば『ざけんな嫌がらせか!』とちゃぶ台返しならぬ鍋返しを受ける無謀な行為。
「欲しかったんだよね」
 悪気のないひと言に弟の口元が一瞬引きつる。ひいぃ。
「ありがとう」
 理性を総動員したのか、朔夜はさらりと返して微笑んだ。レイが少しだけぎこちなく箸を動かし鍋をつつく。
「もっと取ってあげるね」
 止めて。止めて下さい。
「もう、サービス多いな〜。ありがとうございます。嬉しい俺。泣いちゃいそう」
 平常を保っている弟の表情が酷く強張り始めて箸を持った指先が白くなっている。どれだけの力で握っているか怖くて考えられない。
 私もレイの天然武装に屈しそうになる事数度。違った意味で泣きたい心内が分かる。
 もう見ていられない。
「あっ。そっち温かそう。朔夜私のと交換してッ」
 うつむきがちだった顔を上げ、箸をばん、と机に置き自分の取り皿を朔夜の方に滑らせ、交換する。有無は言わせない。言わせませんとも。
 なみなみと注がれた具が僅かにはみ出て机を濡らすけどそんなの知った事ではない。
 私の勢いに押されたのか、朔夜が体を引く。
「う。おう。うわ溢れそうじゃん」
 驚きの呻きを上げる朔夜。やっぱり私の器の状態に全く気が付いていなかったか。
「あすかにんじん好き?」
「え、えっと。うん。普通くらいに好きだよ」
 弟の窮地(きゅうち)は救ったものの、なんだかナチュラルに勘違いをされる。いきなり弟の器を奪えば当然だけど。
「じゃあもっと」
 身を乗り出して箸を広げる彼に微笑み、
「い、いいよ。ほら、食べて食べて」
 制す。断固として。
 このままではウサギさんすらにんじん嫌いになるほど赤い野菜を器に盛りつけられかねない。
 レイは青い瞳でしばらく私の顔をじっと見て。
「ん。頂きます」
 ふわりと笑って頷いた。よ、よかった。納得してもらえた。硝子みたいな彼の瞳にへたり込んで安堵した少女の姿が映る。
 ……なんだか無性に恥ずかしい。
「レイ兄ちゃんさ。一つ聞いて良いかな、あ。俺は朔夜で良いよ」
 食事の間の小休止。一拍ほど間が落ちたのを見計らったかのように弟が口を開く。
「何かな、サクヤ」
 箸を置いて、彼が首を傾ける。
「クォーターなんだよな」
「うん」
「日系強めなんだな」
「うん? そうだね」
 何が聞きたいんだろう。朔夜の意図は分からないけど、首筋がざわつく。
 こういうのを嫌な予感というのかな。
「じゃあ純日本人と結婚したら、子どもはほぼ日本人より?」
 吹き出しそうになったにんじんを飲み込む。な、なんてこと聞くかな朔夜!?
 じゃ、なく。深い事は含んでないよね。うん、落ち着こう落ち着くんだよ私。
 運が良いのか悪いのか、お母さんとお父さんは夫婦で仲良くお茶の色合いのお話をしていたりする。
「どうかな」
 素直に考えるレイ。彼はちょっと真面目な分、性質が悪い。
「実際にそうならないと分からないよ。ごめんね。出来たら教えるよ」
 予想を裏切らずにっこり爆弾投下。で、できたらって。
 取り方によれば大胆な発言に、余り動じる事のない朔夜も硬直する。
 沈黙が痛い。痛すぎる。素直な笑顔で何て事を言ってくれるんですか。
 くわえた箸と空気が鉛のように感じる。
「どうかした。サクヤ」 
 尋ねられ、弾かれたように朔夜は顔を上げ、
「いっ。あ、うん。そうだな。あは、はは。良いよ気にしなくて」
 手近にある湯飲みを引ったくるように鷲掴んで口元に運ぶ。
「そう?」
 不思議そうに瞳を瞬くレイにこくこく頭を縦に振る。
 弟が微かに漏らした、『やりにくぅ』という渋い呻きに掛ける言葉も思いつかなかった。
 鍋の前にいるせいか顔が熱い。かみ砕いたにんじんは、唾液と同じ味がした。


              +−−−−−−+



 鍋パーティはつつがなく終了して、今はお父さんを抜かした全員が玄関に集合している。
 尋ねて来たときと違って軽くなった体を折り曲げ、レイが丁寧にお辞儀をする。
「今日はありがとうございます」
「うん。またな。レイ兄ちゃん」
 妙に親しげな挨拶を交わす弟。なんだかんだいいながらもしっかり順応しているのが我が血筋。
 順応にいまいちついて行けていない自分が恨めしい。 
 心配は杞憂に終わってあっと言う間にレイは家族の輪っかにとけ込んでしまった。
「また来てねレイちゃん。次は違う品をごちそうするから」
「ハイ。じゃあ遠慮無く伺います」
 既に次回来訪決定。本当に私のフォローは一切必要なかったようだ。
「お休みなさい。良い夢を」
 年相応に片手を振る朔夜に彼は手を振り替えし、玄関の扉に向かう。
「あっ。私送るよ!?」
 名残惜しさも手伝って思わず呼び止めてしまった。
「ううん。大丈夫。男だから」
 同性でも見ほれそうな容貌であっさり答える。彼はどうも自分の容姿についていまいち自覚がないらしく、こんな時間でもたまに一人で歩いている。
 いつ事件の一つや二つに巻き込まれてもおかしくないのに。ああでもこれだけ整ってると逆に目立って敬遠?
「ねぇちゃんが送ったらまた送り返して貰わないと駄目だろ」
 グルグル考え込む私へ朔夜が冷静な指摘をくれる。
 そうなんだけど、このままお別れって納得いかない。なんだか、寂しい。
 弟は憂鬱な私を覗き込んで、何が楽しいのかにま、と嫌な笑みを浮かべた。
 な、なによう。お姉ちゃんの心は曇りなんだから。
 小さく朔夜を睨み、
「じ、じゃあ玄関の外まで送る。それなら良いよね。送るから!」
 断言。見送るくらいなら良いよね。うん。
「うん」
 レイがにっこり微笑んで朔夜がニヤニヤ笑いを深めた。まさに対照的な笑顔。
 弟に全て見透かされてる気がして私は慌てて彼の背を押し家を出た。




 手ぶらなレイの隣に立って、出来るだけゆっくり進む。
 それでもさよならは来てしまう。日が暮れて影が差すのと同じ理屈なんだって分かってるのに、溜息が漏れる。
「あ。そうだあすか」
「うん」
 元気に返したい心とは裏腹に、しおれた声が唇から漏れた。ふっ、とレイがおかしそうに口元に手を当てる。
 笑うなんて酷いよ。私は真面目にちょっと落ち込んでるのに。
 頬を膨らませて睨もうとしたら、彼が耳元に顔を近づけて来た。
 な、なに。あの。近い、ですよ。
 バレンタインデーの出会いを彷彿とさせる体勢。あの頃と違うのは幾分私も耐性が付いた事。
 熱くなった全身を否が応でも自覚させられる。跳ね上がる胸を押さえ、後ろに後ずさりそうになる身体を必死に押さえ込む。
 ふ、と。頬に暖かな吐息が掛かった。
「大好き。また明日」
 いつもの笑顔と、僅か数文字の一言が私の思考を止めてしまう。彼のひと言で沈んだ気持ちは粉々に砕け散り、ふて腐れた表情もほどけてしまう。
 耳朶(じだ)を打った呼吸がむず痒い。緩慢に回る言葉の毒は甘美で、麻薬のような中毒性を秘めている。
 何とか顔を上げて。「私も」ともつれた舌で声を返すだけで力尽きそう。
 ちょっとだけレイは照れたようにはにかんで、「うん」と頷き私を何度か見た後、背を向けた。
 ふわふわ浮ついた思考のまま玄関の扉を開き、家に入る。
『げっ。これ全部高級和菓子じゃん。うお、これもあれも。そっちも!?』
 ――確かに、直に聞いた方が、いい。
 耳奥に残る甘い違和感。弟の声を遠くに感じながら知らぬ間に熱くなった息を吐く。
 唇から白い吐息が漏れる。背中に当たった冷たい扉の感触が心地よかった。


〈End〉

 

 


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