一章:秤−2

何事に置いても癒しの時間は貴重である。


 羽音が間近に聞こえる。怖い、怖い、怖い。
「助けて、助けて。助けて!」
 気が付けば、私は叫びながら教会の中に転がり込んでいた。急いで扉を閉める。
 ごつ、ごつ、と鈍い音が聞こえる。奴らは教会の中には入れないらしい。
 安堵の余り足の力が抜けてへたり込み、ぶわっと涙が溢れた。
「どうかしましたか」
「し、神父様。助けて。お願い助けて殺されるの。黒いのに殺されるの!!
 悪魔≠ェ私を狙ってるの!」
 尋常でない私の様子に、教会の牧師様か神父様かは分からなかったが手を差し伸べてきて。
 悪魔の言葉で手を止めた。
「狙われているのですか」 
 小さな教会を収める神父様は、二十代後半位の青年だった。
 穏やかな顔が曇り、訝しげな表情になる。
 この人は優しそうだ。だけど。だけど。
 ああ、やっぱり神父様でも信じて貰えないんだ。
「多分生まれた時から居るの。それでどんどん大きくなっていって、昨日までただ笑って飛び回るだけだったのに。
 しゃべり出して……追いかけてきた。ニエよ、恐怖して死ねって」
 走りながらでも聞こえていたおどろおどろしい声を思い出して肩を抱く。
 この人に外へ出されたら、殺されてしまう。このままではいつものように勘違いで済まされる。
 木製の扉が開いた時、あの黒い鎌のような腕が振り下ろされるんだろう。
「贄?」
「にえって言ってました。あ、嘘じゃないです本当なんです。
 黒くて羽が付いて目が黄色っぽい、私より大きい人型で大きな爪を持ってるんです」
 尋ねられて、聞かれていない事まで口走った。悪あがきでも時間を稼ぎたかった。
 見捨てられたくない。万が一、信じてくれるのなら……ここなら助かる道があるかも知れないから。
「石も当たらないし、みんなに見えないし。もうここしか頼れないです」
 インプに何度か石をぶつけてみた事もある。半ば予想はしていた事だったが、石は黒い身体を突き抜けて地面に落ちた。
 普通の攻撃では効き目がない。分かっていた事だが落胆した。
 ふわりと、暖かい何かが頭上に被せられた。軽くパニックに陥っていた思考が落ち着いていく。
 人の掌だと気が付くのにしばらく掛かった。視線だけ動かして相手の顔を見る。
 神父様は優しく微笑んでいた。
「それは怖かったでしょう」
 思いがけない台詞に張りつめていた緊張の糸が切れた。涙腺が狂ったようにボタボタと涙が溢れて止まらなくなる。
「怖い、です。外にも一杯で、何時も寝る前にも周りにいて。いつ」
 いつ、殺されるのか、考えてしまう夜中は一番嫌いな時間だった。
「少し落ち着いたほうが良いですね。飲みものでも入れましょうか」
「い、良いんですか」
「ええ。場所柄、余り人がいらっしゃらないのです。紅茶は好きですか?」
「はい」
 コーヒーはまだ飲まされた事はないけれど、紅茶は大好きだった。甘くしてもそのままでも香りが良くて美味しい。
 何より緊張がほぐれる。毎日緊張と隣り合わせの私は、休憩の意味もかねてお茶の時間は必ず入れていた。
「それはよかった。カモミールのブレンドティ、自信作なんですよ」
 そう告げてくる神父様の笑顔は子供のようで、まるで自分と同じ年齢みたいだと心の中で思ってしまった。


 教会の礼拝堂で私は声を潜める事を忘れて顔を上げた。
「美味しい!」
 渡された小さなカップには何の変哲もない紅茶だった。ゆらゆら揺らして火傷しないように口に入れた時感じたのが。
 先程の台詞である。礼拝堂の長椅子で紅茶を飲んでいるという違和感も瞬時に消してしまう程に紅茶は美味しかった。
「そうですか? それは良かったです。カモミールには精神を落ち着かせる作用がありますから」
 成る程ー、と感心してからもう一口。口の中で柔らかなハーブの香りと紅茶の苦みや芳醇な香りが絶妙に合わさって、溜息が出る。
 ぐんにゃりと身体を弛緩させる。神父様のもくろみ通り完全に体の緊張は取れてしまった。
 だけど、会話は続かない。
 ちびちびと舐めるようにしていた紅茶も、残り少なくなっていた。
 ここで落ち着いたのなら帰りましょうとか言われたらどうしよう。これが最後の晩餐ならぬ最後の紅茶になる。
 落ち着きのない視線に気が付いたのか、こちらを安心させるように彼が笑って見せた。
「心配でしょう。お祈りでもしていきます」
「おいのり」
 問われて渋面になるのが自分でもよく分かった。お祈りは何となく理解できるけれど、難しそうなイメージがある。
 多くの日本人と同じく、私の家は仏教だ。私自身は仏教でもキリスト教でもない自由の身だと勝手に思っている。
「大丈夫です。怖い悪魔を忘れ、聖書を少しだけ読んで。私の言葉を復唱して、そして強く祈れば良いんですよ」
「祈る?」
「怖いものに自分が負けないよう。お願いと言うよりも誓いですね」
 その時の神父様の言葉は脅える子供に対しての方便だったのかも知れない。だけど、その時の私はまた泣きたくなる程嬉しかった。
 何気ない一言は私の心の奥を突いていた。強くなりたかった。あんな不気味な生き物に惑わされない心が欲しかった。
「お祈りします!」
 だから、私は大きく頷いた。
 神父様が言ったように、お祈り自体はそれ程難しくはなかった。
 なにしろ先生が良かった。間違えても怒る事はせずにゆっくり分かりやすく教えてくれる。
 何度か舌をもつれさせ、噛みかけながらも私は無事にお祈りを終えた。
 必死に祈る私を見て少しだけ神父様は考え込んでいたようだった。
 そろそろ帰る事を伝えると、小さな小瓶を私に差し出してきた。
「はい。これを」
「何ですか、これ」
 掌に収まるガラスの小瓶。中には水のようなもので満たされている。
「聖水です。何かのお役に立つでしょう」
 あっさり告げられた言葉に掌のものを落としかけた。
「良いんですか!?」
 幾ら宗教ごとに疎くても、聖水なんて軽く人に渡すものでは無い事位は知っている。
「ええ、また困った事があれば来て下さい。ああ、帰る前に側にある聖水で身体を清めてから行きなさい」
 微笑まれ、頷く。聖水なら武器になりえる。
 けど、身体を清めるってどうするんだろうか。貝を模したお皿の中にある水で手を洗うんだろうか。
 それにしては少なすぎるし。
 まごまごしている私を見て気が付いた神父様が、指先に水を付け十字を切る。見よう見まねで私も同じ事をした。
「それは聖水なんです。出入りする時はそうしてから来て下さい」
「清められるからですか」
「ここは教会ですから。神様に対する最低限の礼儀と言うところですよ」
 尋ねると、困ったように彼が笑った。詳しくは言えないと言うよりも、もはや日常化しているらしい事を聞かれたのが意外だったらしい。
 追われ、急ぐ余り土足で上がり込むような失礼な真似をしていたらしい。あの状態ではまともな判断力もなかったのだけど。
 次来る時はちゃんと守ろうと心に誓う。
「ありがとうございます。あの、明日また来ます」
「その綺麗な声が聞けるのなら何時でもどうぞ」
 教会に来て初めて笑った私に神父様は笑って返してくれた。

 意を決してノブを掴み扉から出る。奴らが居た。
 ゆっくりと羽を動かし、こっちを見ている。
 見ているだけで気持ちが悪くなる。その上、数が――増えていた。
 ずっと私が出てくるのを待っていたんだと考えて、貰った聖水を握りしめた。
 緊張した空気に背筋に汗が流れるのを感じた。悪魔達は一斉に羽を広げ。一羽、一羽と飛び立っていく。
 まるでカラスが獲物を諦めて飛び立つように。驚きのあまり空を見上げた。
《イマイマシイ》
 怨嗟の声が聞こえて、私の悪あがきが無駄ではなかった事を悟った。
 
 次の日お礼と共に現れると酷く驚いた神父様に出迎えられ。やはり信じて貰えてなかったのかと心の底から落ち込んだのは良い思い出である。 

 

 

 

 

 

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