一章:秤−3

究極の選択なんて大嫌いだ。


 悪魔に物心つく前から狙われ、付きまとわれ続けた。繰り返される逃亡劇に、限界の文字が近頃は揺らめいていた。
 あの神父様には懇意にして貰い、何かとお世話になった。
 私の状態を知っていろんな手を尽くしてくれた。誰にも信じて貰えなかった私がどれだけ歓喜したか。
 だけど状況は改善されることなく悪化していく一方だった。
 ここ数年で、奴らは確実に力を付けていった。昔は小学生五年生だった私より少し大きな程度だった身体が、成人男性を越える程に変化していた。
 しかも武器まで使い始めたので洒落にならない。教会、神社、果ては専門家の所まで行き、対処法を頼み込んで教えて貰った。
 専門家――悪魔祓い(エクソシスト)と呼ばれる人物に青ざめた顔をされた時は「ああやはり」と思うと同時に自分の先が見えた。
 文字を書き込んだ札に聖なる言葉、聖水の生成法も独自に考え編み出してもそれはただの時間稼ぎでない事も分かっていたのだ。
 どんなに身を守る壁を創り出しても、抵抗が激しすぎて抑えきれなくなっている。すぐにでも壁が溶けかけたバターのように切り裂かれてもおかしくない危うい状況。
 そんな時、空気が軋み、奴らの視線が消えた違和感と共にあの台詞を呟かれて動揺しなかったのは当然と言えば当然だったのかもしれない。

『君は一時間後に死ぬよ』

 響いた宣告を否定するでもなく。酷く、すとんと飲み込んでしまえた。
 そうか、と。
 大体、これだけ悪魔にまとわりつかれ敵意をぶつけられて今まで生きていたのが不思議なくらいだったのだから。
 私はその台詞に疑問を覚える事はなかった。普通の生活を送っていたならまだしも、発狂しないのが不自然な程の異常な日々を過ごしていた私にとっては相手が死神でも驚くには値しない。
「……あなたは悪魔? 死神?」
 問いかける。
 自分の命よりも目の前に何時からか佇んでいた、異様な空気を纏う目の前の青年が単純に気になった。
 瞳は深い蒼、濡れたような短髪は先端が一握り程の長さの瑠璃色をしている。まるで海のような自然なグラデーション。
 明らかにこの世界とは異質。居てはならない存在だと思った。
 相手は笑い、どちらでもないと空中から一冊の本を取り出した。
 人間ではない――いや、恐らくこの世界中探してもこんな人は居ないだろう。
 悪魔か。
 そうなのだろうか、私の人生は疑心暗鬼の固まりでもう素直に相手を信頼する事なんて出来そうにない。
 悪魔なら死を告げて一時間後の恐怖を味わわせる。死神なら宣告して私を狩る。
 どちらにしろ死ぬのは確実だ。ならせめて、私は相手が死神である事を祈った。
 別段死にたくはない。けど、もう悪魔に振り回されるのはウンザリだ。
 死神なら、せめてもの仕返しに、私の魂をこの人に渡せばいい。
「お願いがあるの」
 感情が溢れているように見えるのに、肝心の根っこは見せない瞳で青年が見返してきた。
 端整な顔立ちだが、見惚れる程の余裕はない。
「あなたが死神なら、私の魂をここで握りつぶして」
 彼の瞳が初めて感情を表した。驚いた、と言う顔だ。
 かく言う自分も馬鹿な事を言っていると思う。まるで自殺志願者だ。
 でも、あの黒い化け物達に渡すくらいなら今ここで魂を粉々にされた方が良い。
「面白い事を言うね。輪廻の輪から君は消えるよ。絶対に生まれ変わる事は出来なくなる」
 輪廻の輪があるかはどうか知らないが、別にそんなのどうでも良かった。
「生贄にされて喰らわれるくらいなら、輪からはじき飛ばされた方がマシ」
 ふぅん、と彼は呟いて。私を値踏みするように見つめる。
 よく見るとやはりこの人は人間離れしている。不思議な色彩の蒼い髪、見かけは二十歳程なのに何十年も生きているような緩やかな仕草。
 服も、格式の高そうな……純白の服は司祭が着ているような立派な品だ。それをラフに着ているので偉そうには到底見えない。これだけの服を着てて偉そうにも見えず、服に負けていないのはそれはそれで凄い。
「君は、この世界が好き?」
「嫌いではないと思う。ここで生まれたから」
 悪魔の群れには心底ウンザリしているが、それさえなければ好きだと言い切れた。
 学生の学校帰りの他愛ない話、町の喧噪。全てが羨ましい。
 まあ、私には全く違う世界の話だったけれど。
 小学五年生を境に悪魔が活発化した。襲われる事が多くなったという事だ。
 聖水を使いあの手この手で悪魔をかわし、中学に入る頃には完全に孤立無援の存在だった。
 そりゃあそうだろう。何しろ悪魔はみんなに視えない、空中に聖水を投げ札を押し付けていた私は立派に不審人物として名を轟かせていた。
 恋とか友情とかは全てあの悪魔達が吸い上げてくれたのだ。魂砕いてでも報復したくなるのは積年の恨みとしか言いようがない。
「悪魔が強くなっているだろう」
「何でそんな事まで知っているんですか!?」
 視えるのはそこまで不思議には思わなかったが、あの進化を知っているのには驚いて尋ねると、相手は口元に手を当ててクスリと笑った。
「それは置いておいて、奴らの強さの原因知りたいだろう」
「ええ」
 置いておくんだ。まあいいけれど。異常な進化の理由は常々知りたい事だった。
「君だよ」
「私ですか」
 迷いもなく断言され眉を寄せてしまう。だけど、薄々そうではないかなあとも思っていたのは事実。
「そう。アイツらは恐怖に憎しみ悲しみを糧として肥大していく。君は感じて居るんだろう恐怖を」
「感じない方がおかしいと思うのですが」
 あんな不気味なものに詰め寄られて、鎌まで出されて平静でいるには神経を抜くしかない。
 徐々に進化するから良かった物の、昔の私が今の悪魔を見れば失神ものだ。グロテスクすぎる。
「君には力がある。この世では全く開花できない力。それを狙って悪魔が寄り集まった」
「力?」
 透き通るような声に告げられて、眉間に更に力がこもった。
 無いから苦労してると思う。一発で良いから殴りたいと何度思ったか。
「そう。まあ、使えないから意味はない。だけど、奴らにとっては君は格好の餌食。
 力がある君を恐怖させ、負の感情をまき散らせてそれを喰らい。満足したら上位の悪魔に献上する。
 それが最初の計画だった」
 最初の……計画? 
「だけど君は死すべき日に抗い、生き残った。恐怖は身体に溜め込まれて熟成される。
 充分に負の感情を持ったただの餌は逃げまどって王に捧げる程の最上級の贄になった。
 もう先は分かるだろう」
 青年の台詞を心の中で反すうする。私は生まれた時から食べられる未来が決まっていて、あの教会に逃げ込んだ日に死ぬはずだった、と。
 後、負の感情。恐怖とか絶望だろうそれはワインのように熟成される、と。そして逃げ回った私は、更に目を付けられる程に美味しい存在になってしまった。
 纏めるとこんな感じだろうか。
 最悪だ。どう考えても最低最悪としか言いようのない状態に陥っている。
「どちらにしろ殺されるという事と、殺されたらとても嫌な奴の身体に収まるという事くらいは」
 悪魔に崇められるくらいだ。まともな奴を期待するだけ無駄。青年は私の言葉を聞いてゆっくり頷いて、微笑んだ。
「君に選択肢をあげよう。この世界で悪魔に狩り殺されるか、別の世界で生き残るか。当然その世界にも奴らはいる」
 別の世界、そう言えば彼はこの世界では力は使えないと言っていた。異世界があるのなら、私は悪魔を敵に回しても生きていけるんだろうか。
 悪魔に引き裂かれて生まれた場所で死ぬか、対抗手段があるかもしれない全く知らない場所に連れて行かれて生き延びるか。
 まさしく究極の選択肢だ。
「狩られた場合は、悪魔の贄?」
 彼の蒼い瞳を見つめて確認を取る。そうであるなら、一択しかない事になる。何しろ私は輪廻の輪には入れなくても良い程にそれだけは避けたいのだから。
「それは阻止しろとのお達しだからこの世界を望むなら、今ここで魂を切り取っておく」
 誰にとは問わずに口を噤む。結局どちらに転んでも悪魔達の思い通りにはならない。
「…………」
 更に深く考える。深い海に潜るようなイメージ。思考の海に沈む、イメージ。
 どうせ思い通りにさせないのなら、徹底的に。
 冷静に今まで積み上げた情報を合わせて形にし、そう決意する。
「そして後者を選ぶのなら、君という存在にはこの世界から消えて貰う。家族友人知り合いの記憶も全てが無になる。だから安心して良い。
 軽い生まれ変わりだと思ってくれれば差し支えないだろう」
 のちの憂いは取り除いてくれるらしい。多少寂しいけれど、確かにそれは助かる。誰も心配させずに心おきなく消えられる。
 捜索願いも出されない。何より、私の状態を知っている神父様にショックを与えなくて済む。
「前者は死、後者は世界を捨て生を受ける」
 理解された事を確かめるように私を見てから、彼は広げた本を片手にまるで聖書を読んでいるかのように朗々と告げてきた。
 私は昔神父様に言われた言葉で印象に残っているものがある。諦めなければ望みは叶う、強く願いなさいと。
 どうも全部は叶いそうにない、だから、私は半分だけ諦めた。そして望む。
「なら、世界を捨てる」
 はっきりと答えた。迷いはない。
 
 ――世界を捨てて生きる。
 
 そう私は選択した。 

 

 

 

 

 

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