人が聞けば無情な宣告だったかもしれない。それか相手の精神状態を疑っただろう。
「君は一時間後に死ぬよ」
時の止まった中で、青年が静かに口を開いた。
「……あなたは悪魔? 死神?」
少女は別段疑うこともなく、制服姿で鞄を握ったまま、静かに尋ねた。地面に伸びていた影はなく、周囲の人間、時計、全ての動くモノは停止している。
相手は笑い、どちらでもないと空中から一冊の本を取り出した。そう分厚くもない本が開かれると、彼の頬に掛かった青とも緑ともつかない髪が乱れ、柔らかな光を放つ。
後から思うならば、それは一つの契約の始まりだった。
私は異端の存在である。その位の自覚はあった。
奴らが視えるのだ。幽霊や妖怪なら日本という土地柄違和感はないだろう。
しかし、私が視えてしまうのは西洋系のいわゆる悪魔という輩だった。
視えるだけなら特別問題はなかった。悪質な事にそいつらは知能を持ち、私に毎日のようにちょっかいを掛けてくる。
《苦しみ、藻掻け。そして苦悩の中息絶えろ》
昼夜問わずそう頭に囁きかけ、狂ったように笑う。呪いと言って差し支えない。
最近ではうっすらとしか目に見えない鎌を振り回して襲ってくる。他人の目には全く視えない上にこの過干渉。
何度命の危機を感じた事か。闇を吸い込んだかのような漆黒の羽に濁った瞳。それだけで十分怖いというのに鎌まで持ち出して一介の女子高生を襲ってくる。
もういい加減にしてくれと頼んでもテーブルで殴っても聞いてくれない。ちなみにテーブルは素通りして傷もつけられなかった。
半ば諦めてはいるのだ。私は完全に狙われている。
王の復活は近い。恐怖しろ恐怖しろと何度も言われたら状況ぐらい何となく分かっている。
私は悪魔の王さまの生贄に選ばれたのだ。しかもたっぷり恐怖を含ませたほうが効果的らしい。
正直何年経っても怖い。死にたくだってないし、悪魔の王なんて復活させたくもない。奴らの親玉だ。恐らく母国どころか世界規模で被害が出る。
ただ――もう限界かとも思っている。
正確なところ、私は随分前に死んでいてもおかしくない状態だった。死ぬ、というか殺されていたというか。
あの日逃げ込む場所が悪ければ、巡り会う人が居なければ。
とうの昔に生贄は捧げられていた。
自分が他人と違う事に気が付いたのは、五歳を過ぎた頃だった。
小さい頃から慣れ親しんでいた黒い埃のような無数の固まりが、五歳の誕生日を迎えた辺りから変わっていた。
ふわふわと浮かぶだけだった無害そうな物体が、いきなり小さな黒い人形の(しかもリアル)ようなものに変質したのだ。
流石に驚いたし、怖い上に気持ち悪く、近寄って欲しくない。だから尋ねた。
『黒いもやもや人形になったよ』
と。周りの反応は今から思えばいたって常識的だった。
友達からも大人からも、気のせいという事にされたのだ。それでも納得がいかず食い下がった。
自分の言った事がみんなに信じられなかったのがショックでもあり、他人に見えずに自分だけが確認できるそれらが気になった。
そして、日に日に羽を伸ばし、瞳を付け進化していく黒い人形が怖くてたまらなかった。毎日がただ、恐怖だった。
おとぎ話に出てくる魔物を見ている気がして、必死に親にも訴えた。
危うく精神科に連れて行かれそうになるところで、絶望と共に理解した。これは、他の人には見えないものだと。
小学生に上がり、中等部に入る頃にはよく分からない生物は笑い声を発し、飛び回る非常に気味の悪い生き物になっていた。
それがインプと呼ばれる悪魔の類であると知ったのは、何気なく手にしたファンタジー小説の一文からだった。
完全に一致はしていなくても、容姿の表現が似ている。急いで図書室を探し、あちこちの本屋を巡り。やっと手にした悪魔辞典を見た時確信した。
自分の周りにいるのは、悪魔に分類されるモノだと。
正体がある程度把握できたところで、私は今まで目を背けていた考えを頭に浮かべていた。
――今は大丈夫だけど。いつか、殺されてしまうかも知れない。
まだ下級程度で笑いながら飛ぶだけで済んでいるが、進化は着実に続いていた。
このまま行けば奴らはもっと恐ろしくなる。
私の読みは当たっていた。
小学五年生のある日。ソレは襲ってきた。
鼻歌を歌いながら歩いていると影が差し、奴らがにやりと笑った。口端から牙が覗いている。
《贄よ、恐怖しろ。ワレワレの為に》
そして喋り掛けてきた。
下校中の軽い気分は呆気なく霧散する。言われるまでもなく恐怖が体中を駆けめぐる。
もう悪戯妖精とはほど遠い形になった悪魔達を見た時点で駆けだしていた。
大きな漆黒の羽、瞳は濁ったように気味が悪い癖に黄ばみがかって妙にぎらついている。
昨晩までインプだったのに、一目で悪魔と判断できる程に変わってしまった。
見上げたのは少しだけだったが、見てしまった。鎌のようなかぎ爪を。
殺される。本能的にそう感じて荷物にしかならないランドセルを道端に捨て、更に走る速度を上げた。
誰かに助けを求めようとは思っていた。そこで壁が出来て思考が阻まれる。
私は誰に相談すればいい、助けを求めればいい。
……みえないのに。
家に帰って鍵を閉めるか、一か八か人に縋るか。
唇を噛み締めて走り続ける。所詮小学生の体力。長く保つはずがない。
もう近くに助けを求めるしかなかった。失敗すれば、きっと殺される。
希望があるとすれば一つだけ。一つだけある。
ほんの僅かな可能性に賭けて私はその場所に迷うことなく走り込んだ。
町の片隅にある、小さな教会へと。
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