やわらかな暖かさを抱いた風が頬と、なんとなく腰まで伸ばした髪を撫でる。
私は静かな教室を背景にして、開いた窓から紅色のグラウンドをただ見つめていた。
誰の気配もしない。耳奥に自分の鼓動の音と呼吸音が心地よく響く。
寂しくないかと親友に問われることもあるけれど。
移り変わる景色、人。空気。それらを感じられるこの場所が好きだった。
眼下に広がる赤茶けた土の上を、白いボールが駆けていく。
大体この時間帯になるとそれぞれのクラブの活動時間。目玉であるサッカーは優遇傾向が強く、グラウンドを広範囲で使わせてもらえる事も多い。
グルグルと回り続けていた群衆がまばらに広がり、ボールの取り合いに変わる。グラウンドの周回運動から試合練習に変わったらしい。
流石にみんな早いなあ。私なんて五十メートル走でへばっちゃうのに、彼らは動きが鈍る様子もない。
その中で一際群を抜く選手が居た。
追っ手を振りきりジグザグ走行を続け周りを攪乱する。小柄で元気の良い姿も相まって、草地ではね回る子犬のようなはしゃぎっぷりだ。
が。がくんと身体が傾き、その勢いのまま前転みたいな綺麗なフォームで前方に突き進んでいく。靴底の土の塊が前方に跳ね飛んだ。
――あ、転んだ。
と、思うも顔面から衝突なんて間抜けなことはない。器用に空中で体勢を変えて転ぶ寸前で立ち上がり、試合続行。凄いバイタリティ。
ひーいふうみい。眺めているだけでももう五回は転んでいる。それでも彼は跳ね起き、果敢にボールへ突き進んでいく。なんだか微笑ましい。
青春だなぁ、と思うのと同時、帰宅部である我が身が少し虚しくなっていく。はあっと大きな溜息。無意識に零れた音に自分で驚く。
「よっ。かーりんちゃん」
一人気まずい気持ちを抱える前に、大きな声と轟音が私の心臓と空気を震わせた。
丁度顔の部分の枠に収まった扉の磨りガラスが震える。横開きのドアを跳ねるみたいな勢いで開いたから、天井の塗料が埃と共に舞い落ちた。
どきどきどき。神経が余り太く無い私の心臓はドリブルみたいに鼓動をきざむ。
びっくりしたあ。
首をすくめるくらいにはこだました扉の音を気にする様子もみせず、マナがにまっと笑みを浮かべ。とんとんと肩を分厚いファイルの端で叩きほぐす。短めに整えた髪は空に向かって首を伸ばすヒマワリみたいで、彼女の性格を代弁している。
窮屈なのは嫌いなのよ、との公言を裏切らず、襟元をくつろげて、朱色の胸元のリボンも崩してある。
しかたないなあ。
「あ、マナ」
すこしだけ笑って見せてから襟元に手を伸ばす。と、オレンジの背表紙がブロッキング。
わざと睨んでみせると、すまし顔で指を振る。まだまだ甘い、とでも言いたげに。
次こそは。と意気込むものの、優しく背を掌で叩かれると思わず相好が緩んでしまう。
不良少女の空気全開だけど、彼女は私の唯一無二の親友、日畑真波。マナにはやっぱり敵わない。
全然性格が違う、どころじゃなく全く違う私達だけど中学入学以来妙に気があってしまって今では大親友と言い切れるほどベッタリ。彼女が片時も手放さない噂ファイル、とかマナにまつわる様々な武勇伝とかが気にならないわけでもないけど。それでも大親友。
こっちの力が緩んだ隙に野生の兎を思わせる俊敏さでぴょん、と隣に近寄ると、近場の机に腰を掛ける。マナ、机は座るものじゃないよ。
「やっぱ居た居た。この場所はカリンのお気にだもんね」
両腕を合わせ、伸びをする友人にちょっと注意しようかと口を開いて。
ざあ。空気がゆったりと震えて頬をくすぐる。
「うん。風、気持ちいいから」
耳元を掠めた葉擦れの音と、心地よい風に微笑んで同意してしまう。
うん、きもちいいなあ。
隣にいるマナも『確かにねぇ』と薄く目を細めた、胸元のリボンが揺れる。ぼんやりと首を揃えてなんとなくグラウンドを眺めていると、不意にマナが首を傾けた。首筋がちょっとチクチクする。
「おや」
何度かその目線が往復し、驚いたように零す。目元が切れかけた月みたいになって、口元まで一緒になって持ち上がっていく。嫌な予感。
「え」
「おやおやおやぁ?」
薄く疑問の声を上げても、わざとらしく掌をかざし、眺めるような体勢を取って肩でつついてくる。ちょっと痛い。
予感はますます傾く。無論悪い方向に。
「な、なに」
「あそこにおわすわ、現学園のヒーロー。いや、新人アイドル期待の星ッ!!
もしや、もしやもしや果林ちゃん。やっと来ました? 甘酸っぱい恋とやらが!?」
恋。しかも甘酸っぱい!? 脳みそに一気にガツーんと衝撃。というより期待の星だったんだ知らなかった。混乱しそうになる私を友人はチラ、と見てから。
マナは性格の悪い猫でもなかなかしないような悪戯っぽい笑みを口元にたたえ、けらけらと笑う。
何か言わなくちゃいけないのに。
口が上手く動かせなくて奥歯が不自然にカチカチと噛み合わされる。
どんなに絞ろうとしても声は出ない。
私ってどうしていつもこうなんだろう。必要なときに口が開かない。必要な言葉が紡げない。無理して出した言葉だって変な呻きにしかならないんだ。
不器用すぎる。
このままで良いわけもない。誤解を解くべく頭を目一杯左右に振る。
先頭切って走っている彼には失礼だけど、千切れんばかりの否定と言う奴だ。
「ちぇー。違うのかー。つまんなーい」
拗ねたように言うけれど口元はまだ楽しげに笑っている。
「ま、良いんだけどね。『親友のカリンちゃんVSマナちゃん!!』なんていう展開になったら困るし」
マナはけらけら声を上げ、テレビの合間のコマーシャルみたいにばばーんと口で効果音を付け、手を広げる。
「…………また?」
親友の恋愛発言に、思わず渋面になってしまった。反射的に曇ってしまった空気を払拭するように、マナがどんと掌で肩に強い一撃を見舞った。
景気づけのつもりなんだろうけどもの凄く痛い。肩がじんじんと震えている。
「そうなの。またなのよ!! 燃えるような恋、あたしは恋に生きる女っ。
新人だけど素敵だよね響君。一個下だけどそれがまた良いッ」
瞳を輝かせの熱っぽい演説を聞きながらひぃ、ふうと数え指を慎重に折る。小指が一つ残ってるから、計四本。数え終わると溜息が漏れた。
「今月に入って、えっと。四回目の心変わりじゃ」
尋ねるとマナはばっと大げさに両腕を広げ、
「真面目なカリンちゃんには分からない。まさしくそれが青春!! テストとか勉強よりも価値のある行為じゃないの。ところでカリンちゃんに相談なんだけど。新人響君の写真要る?」
くる、とこっちを向いて真顔で懐から数枚の写真を取りだし営業用の顔を作った。
何かをたくらんでいる瞳が恐ろしい。
「撮ったの?」
「うん。御免ねぇ。諸事情で真正面顔ってのは無いんだけど、多分プレミア付くから。
今がお買い得よ奥様」
恐る恐る友人に目を向ける。
ケケケケ。と扇のように写真を口元に当て、にいと笑う姿はコウモリのようだった。
もしくは蛇か。
「売るんだ。やっぱり」
予想はしていた答えに隠しきれない溜息がもう一つ漏れた。
「うん。売るの。愛も恋も大切だけど、お金も大切よネ」
マナのことは大親友だと思っているけど。思ってはいるんだけど、こういう部分はやっぱり理解不能。
もしも手近に大好きな人の写真があったら、私だったら手放さない。売るなんてそれこそとんでもない。相手が大スターだろうがサッカーのエースだろうが大事に大事に封をしてアルバムに飾っておく。
手品師がカードを並べるときのようななめらかな手つきで並べられていく写真達。非常に慣れた手並みに余罪がうかがい知れるがそれを無視して折角なので写真を眺める。
色鮮やかな背景に多少ズレがあるものの、一人の少年が収まっている。
柔らかそうな髪を短く切りそろえた活動的な姿。写真の中からでも人なつっこそうな雰囲気が見て取れる。
記憶の端に僅かなおうとつ。……この人どこかで見た気もする、なあ。ううん。
どこだったっけ。
缶ジュースに口を付ける光景に、体操服でのリレー、ボールを操る姿まで。様々な角度で映してある。けれどもマナの言うように正面顔はない。と言うよりも視点がこちら側。つまり、カメラの方を一切向いてない。
「その、やっぱり……」
予想していた事がほぼ当たって眉根が思わず寄る。
「うーん。盗撮。ていうか盗写?」
本人は至ってお気楽で、写真の一枚をぴら、と見せた。試合が終わった後なのかシャツ一枚で顎の汗を拭っている姿。反射的に鞄で防いで見ないようにする。
仮にもお年頃の女の子なんだからそういうのを易々と向けないで欲しいと切に願う。
「マナ。それが原因で振られたの五くらい無かったっけ」
赤くなった頬を押さえたかったが親友の持つ写真を見ないようにするのが精一杯。
ちょっとしたマナの悪事だが、告発する気にはなれない。彼女が親友とかそう言う事ではなく、自分がもし写真に撮られ、見せびらかされていたことを教えられたら立ちくらみや頭痛を起こしたあげく卒倒するだろうし、それが売られていたとすればちょっと世をはかなんでしまう。そう思うだけで絶対に、口が裂けても、ターゲットには黙秘なのだ。
教えてはならない! という妙な使命感と正義感もあったりする。
「六つよ。ま、この二年で二十件の大台を突破しそうなマナちゃんとしては少ないくらいね〜」
間近で重罪を起こし続けている悪魔が笑う。楽しそうだ。欠片も気に病んだ様子がない。
「…………」
でも。
「あれ。カリン怒った? 真面目だもんね、御免御免」
俯いて机の上に並べられた写真目を落とす私が心配になったのか、マナが上目遣いで見つめてくる。片手を左右に振ってから。
「そうじゃなくて。その、いいな、って」
隠しきれなかった溜息と共に言葉を紡ぐ。どことなく不安そうだったマナは一転してにまっと笑みを浮かべると、
「おぉぉぉ。やっぱり響君素敵だしね!
お買いあげね!? 親友サービスで一枚多めセットにしてあげるわ」
妙な雄叫びを上げてよく分からないサービス特典を付けてくる。なんて商魂たくましい。
じゃなくて!
いろいろと売りつけられる前に両手と首を左右に振りたくる。
「そ、そうじゃなくてマナが」
私の一言で。マナは大げさに手に持った写真をばたばた落とし、何故か目まで潤ませる。
なんで?
こちらの混乱を余所に後ろから音楽でも流れそうなほどの熱のこもった視線を向けて。うっ、と口元に手を当てると。
「たっ、たしかにカリンのことは好きよ。でも、あたしはやっぱり同性愛には走れないの!!
だから、だから貴女の愛には―――」
「違う!」
とんでもない勘違いをしている友人に反射的に突っ込みを入れる。ここ二年で覚えたマナとのコミニケーションだ。
ちょっと毒されつつある、のかも。
構われるのが楽しいのか、マナは無駄に盛り上がる。
「カリンナイス突っ込み」
やはり今日も拍手をして喜ぶ親友。うう、逆効果だったかも。
むう、思わず頬が膨れる。チラとふて腐れ気味に睨んだ後、咳払いを一つ。
「その、マナ。勇気あって凄いな、って」
人差し指を合わせ、今度はこっちが上目遣いになった。マナは一瞬ぱち、と瞬きをした後、指先で私の胸元をピン、と弾いた。軽い衝撃にリボンが揺れる。
「カリン。言葉の使い方間違ってるよー。あたしのは勇気じゃなくて青春!!
こう、情熱に任せた若さ故の無茶って奴? カリンはあたしの真似しちゃ駄目駄目よ」
力説しながら左手を挙げ、人差し指を左右に振る。
「でも……」
「デモもかしこもなぁーい。カリンはカリンのやり方で恋やんなさい」
びし。デコピンが降ってくる。
「マナ」
すごく痛い。そして、掛けられた台詞にも衝撃を受けて視界がぼやける。なんて、なんて心のこもった言葉なんだろう。焦げ茶色のマナの瞳をじっと見る。見つめ合いは数瞬で途切れた。
「というマナちゃんのためになってありがたぁーい説教をタダで聞けると思う?」
ぱっと両手を広げ、首を傾ける。マナは話や空気の切り替えもはやい。
今までで一番深い笑み。得体の知れない笑顔が少し不気味だ。
『うぅ』思わず我ながら情けない呻きを漏らす。
「ブ、ブロマイド。買わなきゃ……ダメ、かな」
裕福な家庭ならいざ知らず、お小遣い……厳しいよ。
幾ら残ってたっけ?
先ほどとは違った意味で泣きそうになる。その様子がおかしかったのか、口元を押さえマナがケタケタ笑う。
「違う違う。カリン探してたのはダベるためだけじゃないのよ。
お願いしようかなーって」
落とした写真を拾い上げ、商売にならないと分かったのか懐にしまい直しながら口を開く。
「お願い?」
お金問題ではないので少しホッとし、おずおずと聞く。マナのお願いは幅広く、油断して請け負うと手痛い目に遭う。そんな気持ちを知ってか知らずか、
「うんうん。借りてた本期限切れそうなのよね。
でね、親友のあたしとしては代返というか。早い話ちょっくら返してきて欲しいワケよ」
片手を軽くぷらぷらさせると小さなウインク。
そ、そっか。そんなくらいなら幾らでも! と言おうとして疑問が浮かんだ。
「で、でも。又貸しじゃなくて、返すのって」
「又貸しじゃなきゃオッケー。返却ボックスにポーイ。あ、でも調べられたら不味いから迅速かつ隠密な感じで宜しく」
質問を素早くくみ取って、気楽に心配を一蹴する。
あれ? でもマナって確か。
「マ、マナ。あの……マナは文芸部だし、いつでも図書室には」
不似合いだと言われるけど文芸部所属だったはず。疑問の言葉に返ってきたのはマナの嫌な嫌な微笑み。怖いほど優しげで一層凶悪なモノだった。
「どぉせ行くんでしょ。今の時間だったら居るかもよ。カリンちゃんの愛しのあの人ー」
愛しのあの……ひ。ええ!? 何も飲んでいないのに噎せかけた。頭の奥がガンガンと鳴ってクラクラ目眩がする。
「あはははははは。カリン真っ赤っかー。
そーよねーカリンは二年想いに想い続けたダーリンが居るんだもんねぇ。
イケメンだろうがアイドルだろうが眼中無いのはあたりまえだし。そ・れ・は、ねぇ?」
周りにある机を避け、ステップなどを踏みつつ手を叩く。
うえ。ええぇええ。なんでなんの話。分かるけど、どうしていつから!?
「マッ、マママママ、マナーーーー!! い、何時から!?」
ブンブンと大きく腕を振り回し、泣きそうな気分で意地の悪い親友を追いかけ回す。
「きゃー。カリンちゃん怒らないでぇ。
噂リサーチの鬼、マナ様に見抜けぬ事無し。カリンの様子が分かりやすかったのも原因だけどね。ああでも泣かせるじゃない入学前からの恋。
奇跡的に巡り会えた幸運。そして未だに影から思い続ける少女っ」
頭を抱えて大げさに悲鳴を上げ、私がが嫌がるのを見越したように、多分見越してるんだろうけど。無駄に大きな声で感情たっぷりに語ってくる。うわあ誰か居たらどうしてくれるの!?
「いわないでーーーーそれ以上言わないでーーー」
これ以上からかわれると本当に倒れそうだ。運動不足の上に興奮しているので何時鬼ごっこをリタイアしても可笑しくない。
「告っちゃいなよ。相手とはいちおー顔見知りなんでしょ。名前聞けてないのは痛いけど」
パニクるこっちが倒れる前にマナは足を止め、近くの机に腰掛ける。
一方帰宅部である私は力尽きたように窓際に掌を乗せ、ずるずると座り込む。
ぜえはあと息が荒くなり、苦しくて涙が出てくる。
静かな教室には茜色の光。そして乱れた呼吸音が響いた。
「だ、だめだよ。わ、わたしは……私は普通だから」
息を整え俯いて自分の胸を押さえる。大分呼吸も落ち着いたのか随分話しやすい。
「またそれかぁ」
今度はマナが困ったような顔になった。
「運動も出来ないし。成績も中位だし。平々凡々だもの」
平々凡々。言っている間に自分で落ち込んできて声もしぼむ。
「うーむ。確かに地味でフツーなのよね。で、でも……頑、張れば」
腕を組み、マナがこめかみを押さえる。私……音梨果林という少女は至って普通で平凡な女の子だと自覚している。運動神経も極端な音痴とは言わないが、あんまり良くない。
成績。微妙。悪くはないが目立つ場所には居ない。
容姿。これまた微妙。派手な格好が嫌いだからシンプルな格好ばかりしている。自信をプラスしても取り立てて美人では、無いと思う。
性格。もう言うまでもなく普通としか。特筆するなら真面目な所位。
あとは、大人しい、かな。人見知りが多め。長所と言うよりも短所かも。
残りは趣味しかないが、最後の砦は読書。……憧れのあの人に釣り合うものでもない。
所詮高嶺の花だとふ、と吐息が漏れる。
「あ、図書室閉まっちゃう」
時計の針を見て声を上げると、マナが『また誤魔化して』と眉を跳ね上げた。
うう、今日は誤魔化してるワケじゃないんだけど。僅かに軌道をずらしたのは否定できない。
「おお、たしかにそんな時間。コレとコレと。あ、と、これもヨロシクぅ!!」
小さく息を吐き出して、仕切り直しというようにマナがにこっと笑った。素早く自分の席まで走り寄り。顎を「ん」と突き出す。
慌てて両手を広げるとどさどさどさ、と尋常でない重さの固まりが落ちてきた。
「え、あ。はい」
三冊程しかないけれど、辞書なのかスゴイ分厚さでおもい。けど、落とさないようになんとか両足を踏ん張った。
「んじゃ。ちょいサボっちゃったから部長にどやされに行ってくるわー」
サボったんだ。
「う、うん」
頷くとマナはちゃ、と片手を額に当て、片目を瞑り、
「その人の名前聞けたら教えてね。親友サービスで無料リサーチしてくるよん」
横開きの扉を開きざまに付け足した。
「マナ!!」
思いの外大きくなった声と同時に扉が閉まる。
『はははは。カリン怒っちゃヤダー』
明るい笑い声が扉の向こうで響き、走っていったのか、言葉はもの凄い早さで遠ざかっていった。
「もう、先生に怒られても知らないんだから」
私は小さく頬を膨らませ、曲がったリボンを直して熱くなった身体をさますように深い息を吐き出した。
「ふう」
(マナはああいってたけど)
「無理だよ。私は、ふつう……だから」
(普通なんだから)
冷たく固い廊下に視線を落とし、心の中で反芻する。
普通って何。と聞かれるととても困るのだが、普通と答えるしかない。
たとえにもならないかもしれないが、平凡でありふれた人の中の一人。
群衆の中の一人。考えると少し気持ちが傾いてくる。
「よし、気持ちを切り替えて隠密で返却しなきゃ」
小さく吐息を吐き、図書室へと向かう。廊下では誰ともすれ違わなかった。
何の問題もなく目的地に到着。右を見る。左を見る。辺りはシンと静まりかえっている。
ついでに上を見て場所を確認。間違えてない。
横開きの扉に手を掛ける。冷たい金属の質感。何時もこの瞬間は宝くじを引いている気分だ。当たれば良し、当たらなければ運がなかったそれだけ。そう納得させている。
そうしなくちゃ、落ち込んじゃうから。眺めるだけで幸せになれるから、きっとそれで良いんだ。
居るかな、居ないかな。居ると、良いな。でも、居ない方が良いのかも。
手渡された本を見つめ、何度か取っ手を眺めた後、えい、と扉を引く。
先ほどと同じ動作をもう一度。
「誰もいない。うん、誰もいない」
目的のヒトは居なかった。少しがっかりしたが今日に限って言えば好都合。
私は忍者、私は忍者。そう心の中で反芻しながら返却ボックスの中にそっと本を落とす。
がたん。返却用の扉が思ったよりも大きな音を立てた。反射的に辺りを見回す。
誰もいない。
任務完了! です。
心の中で上司マナに敬礼。
「私も何か借りようかな……」
辺りにある本棚を見回す。図書館には劣るが蔵書の数は多い方だ。
灰色の金属棚に収められた本の背表紙を眺め、指先を上下させる。
ファンタジー。ここ一年ちょっとで大方読み尽くしてしまった。
歴史。基本は全部押さえているし、今は興味がない。
恋愛。見ているだけで寂しくなってくるので止めておく。
ラブロマンス。同上。
「むー……ぅぅ」
軽く腕組み一人唸る。気が付くと本棚周りを二、三周してしまった。
ここ一年ほどでほぼ興味のある分は読み尽くしてしまった。読みたい本が見つからない。
「よし、もう一周。えーと」
指先を彷徨わせる。ファンタジー、ラブロマンス、歴史、科学、童話、地理、推理。
――ホラー。
う、ううん。
今まで興味はあれども怖くて手を伸ばせなかった分野。
食わず嫌いかもしれない。一度は雑食になってしまうのも良いかも、心が囁く。
で、でも。ね、眠れなくなったら困るし
推理小説での血みどろシーンだってあんまり耐性のある方ではない。
まかりまちがってグロテスク系のホラーだったらどんなことになるか。
じ、じゃあ日本の。和系のホラーで!!
そこまで考えて日本のホラーを思い出す。振り乱した髪を一房唇にくわえ、白い着物を着た濡れた女…………背筋が冷えた。恐ろしい事を想像する想像力逞しい自分。
だ、だめだめ。えーとじゃあじゃあ。
ぶる、とちょっと身震いしてから指先を彷徨わせる。題名すら見るのが怖い。
目を瞑って指を動かした。気分はロシアンルーレットだ。
緊張した肩がポン、と叩かれる。
「っ!」
息が止まった。
「す、すすすすす済みませんゴメンナサイ。本当はホラーなんて全然興味ないんです。ちょっとした怖いモノ見たさ、好奇心なんです!! 怖くて絶対見られないのは分かってたんですけど好奇心が抑えられなくてっ。ごめんなさいごめんなさいすみませんすみませんすみません。もうしません。ほんの出来心なんですッ」
だれにかは良く分からないが一気に言葉がわき出た。なんだか知らないがちょっと半泣きになって必死で謝る。
肩に置かれた手が浮き、押し殺したような呻き。笑っている。
笑われている。
「あう」
振り向いて続けようとした言葉が吹き飛んで、血の気が引く。
「く……くくく。あ、あははは」
私の丁度真後ろにはあの人が立っていた。口元を掌で覆い、必死に笑い声をかみ殺す。余程可笑しかったのか瞳に涙が溜まっている。
「と、届かなくて困ってるのかと思っ、手伝おうと思っ、て」
彼は言葉すらままならない。受けている。大受けだ。
他の男子にならともかく、この人には見られたくなかった。
ああああああ、見られた。寄りによって寄りによって……こんなトコを。
馬鹿。私の馬鹿。前後不注意はなはだしいとかそれ以前だよ。
憧れの人を前に、私は真っ赤になって居るだろう顔を伏せ、おずおずと口を開く。
「スイマセン」
その返答すらも受けたらしく、彼はしばらくお腹を押さえたままだった。
(改訂前verに行く。人称が変わっただけ)
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