恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
頭の中で踊るのはその言葉達。目の前が真っ白で耳鳴りが酷い。
霧や霞となって消え去ることが出来るのならば今すぐに実行したい。
音梨果林、一生の不覚。
憧れの先輩を前に、私は何をしてしまったんだろう。
私はホラーが嫌いで今ロシアンルーレットっぽいものをしていたと言うことを暴露してしまった。いや、そう言うことはどうでも良い!
多分数秒。でも私にしてみれば永遠に近い時。初恋の人を目の前に、待ちに待った言葉を交わす瞬間。この日をとてもとても心待ちにしていたはずなのに、なんだか思っていたのとは違う方向に事態は流れている。ムードとかそう言うモノを期待したワケじゃないけれど、幾ら何でもコレはない。これじゃタダの変な人。
変な子だと思われちゃう。何とかフォローをしなければ! とも思うのだけど、生来の引っ込み思案が事態の悪化を更に招いていく。
「あ、その……じゃなくて……グロテスクなのが駄目なんです!!」
ああもう、訳が分からない。何言ってるんだろう。
「…………」
少し上の辺りにある焦げ茶色の瞳がきょとんと瞬く。しばしの沈黙の後、収まっていた笑いの波がまた訪れたらしい。彼が肩を震わせる。
身体は熱いし恥ずかしいし頭の中身はグタグタだしでちょっと涙がにじんでくる。
駄目だよ。駄目だよ、マナ。希望どころか闇しか残ってないよこの初恋。
ホラーを上映する映画館も引くほどに私は暗い顔をしていたらしい。
「あ、ご、ごめん。あんな反応する人初めてで……怖いの駄目なんだ」
気遣うように先輩。心の中で先輩と呼んで居るんだけど、名前も知らないその人は尋ねてきた。反射的にブンブンと首を縦に振ってしまう。気の利いた言葉も出てこない。
ドコまで駄目なんだろう、私は。前にいる、という事実だけで肺から空気がせき止められ、喋ることも出来なくて。気をしっかり持たなければ本当に倒れてしまいそうだ。
マナもお膳立てしてくれたもの。友人の激励の言葉もある。こんな所で倒れるわけにはいかない。そう、頑張らなくちゃ。今まですれ違うだけでも運が良かった。話しかけて貰えて、誰もいない図書室に二人っきり今日はとっても幸運だもの。
二人っきり。
……と言うことはつまり私と彼しか居なくて。
誰もいなくて。ふた、りっ……き、り。
更に血液温度上昇。余計な事を考えたせいで沸点に達しそう。
身体全体が緊張して指先も動かせない。かちんこちんだ。
「あ、いきなり笑うなんて失礼、だよね」
ぶん、ぶん、ぶん。口が動かないので首を横に振る。
自分だってこんな場面見てしまったら笑い声の一つも漏らしてしまう。それに、いたわりの言葉だけで私は嬉しい。
笑われたけど。恥ずかしいけど。微笑みかけられるだけで嬉しい。彼の小さな気遣いで幸せになれる。
私、やっぱり変な子だ。
変な子。変な子でもこの際良い。名前、聞かなきゃ。
「あっ、あの……その……なっ」
ずっとずっと足踏みしていた。見かけても声が掛けられなかった。
このチャンス逃しちゃ駄目だよ。平凡な私に巡ってきた千載一遇の大チャンスなんだから。
「…………」
ありったけの勇気を振り絞って頑張ろうと意気込んだその瞬間。相手は威力抜群の視線を送ってきた。
目と目が合う。
「なぅ…………」
見つめられるだけで力が抜ける。ああ、もう。駄目な私。
他の人はどうかは知らないけれど私にとっては破壊力のある一撃だった。
たまたま視線があっただけだと思った。
だけど……
『…………』
何で。何で何で何で見つめてくるんだろう。ま、まさか埃とかが身体に付いてるのかな。
控えめな動きで髪や服を確認してみる。異常なし。
じ、じゃあリボンが曲がってるとか。けどけど来る前にちゃんと確認をした。
それとも顔? 顔に何か付いてる!?
「本。好きなんだね」
「えっ。あ、は、はい。大、好きです」
にこにこと尋ねられ、変な風に声が裏返った。
「僕も本好きなんだ。あ、知ってるかな。良くすれ違ってたから」
「……は、はい」
その言葉に身体が軽くなる。少しだけ笑顔で小さく頷けた。
覚えてた。覚えて貰えてた。すれ違ってしか居ないのに。声も掛けられなかったのに。
それなのにこの人はちゃんと私を記憶の隅にでも住まわせてくれていた。
私は、今世界一の幸せ者だ。
胸がいっぱいになる。私、どんな顔してるんだろう。あんまり赤くなっていないと良いんだけど。幸せそうに微笑んでいたのなら、平凡な私も少しは素敵に見えるかな。
「本。探してたんだよね。二、三周ほどしてたけど良いの見つかったかな」
「……はぃ!?」
幸せ気分は一気に吹き飛んだ。
「あ、ああああ……の。い、何時から見てたんですか!?」
「うん? 『誰もいない。うん、誰もいない』って言っていた辺り位かな」
唇に拳を当て、考える素振りを見せる。そういう仕草も格好良い。
「で、でもでもでも。さ、さっき誰も……」
「タイミングが悪かったんだね。扉が閉まったとき丁度表にいたから。
何か借りようかな、と思ったら声が聞こえちゃって」
聞こえちゃって? 聞こえちゃった後はどうしたの。
「て……見まし……」
ゆっくりと見上げる。
「見ちゃった」
お茶目な笑顔。こんな顔もする人なんだ、という新発見を喜ぶ間もない。
全身の血液が引いていく。満潮があるのなら引き潮がある。
満開の桜も何時かは枯れ落ち、土に戻る。それと同じで終わりだ。絶対終わった。
私の初恋と、色々。
「い、いやーーーそ、それだけは」
「え? 言わないよ。一応規約違反じゃないよね」
意外な一言。
「え。言わないで居てくれるんですか!?」
「う、うん」
「ありがとうございます。ありがとうございます!!」
感謝する。みのがしてくれる彼の心の広さに。
ああー。でも私のイメージ最悪だろうな。はあー。
心の中で深い、深い溜息をつく。
何かに気が付いたように彼は本棚を振り向き、裏側にある棚の方に歩いていく。
あっ。行っちゃう、そうか、本借りるって言ってたもの。私みたいな変な子に構うわけ無いよね。さっきまでの軽さはドコへやら、今の私の身体と心はまるで濃い墨汁を吸ったコットンみたいに真っ黒で重い。クマになれるのなら一年位冬眠して逃避していたい気分。
そんな気分に浸っていたせいだろうか。後ろから近づいてきた足音に気が付かなかった。
「はい。コレ」
視界に映る冷たい床が本の表紙に変わった。ゆっくりと顔を上げる。
彼が優しく笑っていた。いつもは遠慮なんてしない本の装丁。
その時は薄いガラス細工みたいに見えて触れるのが躊躇われ、ちょんと表紙をつついてみる。何も言われない。
恐る恐る見上げて、目で伺ってみる。
い、良いのかな。持っても良いのかな。ちらちらと視線を辺りに配るけど、やっぱりここは誰もいなくて。二人きりで。
彼が頷くのを切っ掛けに、私は重たい百科事典を受け取るような気分で気合いを入れてそれを持った。少しだけ薄汚れた白い装丁。両手に収まるほどのサイズでコンパクトだった。電車でも読めるような文庫本サイズ。
見たことのない題名。
「読んだこと、ある?」
「ない、です」
ほぼ読み尽くしたと思っていたこの場所で、初めて目にする本。
「じゃあ、こっちも」
更に二冊。やっぱり知らない。
次々出される知らない本達、今の彼が私の目にはマジシャンに映る。
「これ、どこに」
思わず尋ねた私に、先輩は本棚の上の方を指さした。
「あ、あんな所にも本。あったんだ」
ポツリと言葉が漏れる。私じゃ背伸びしても跳んでも絶対に届きそうにない位置に、本が陳列してある。届かないばかりか本棚が重なる部分で、私の背丈だと死角になるところにそれはあった。そう、言われるまで気が付かない所に。
「あったよ。やっぱり届かない?」
「届きません」
他はともかくコレは断言できた。背丈が異常に伸びない限り無理な位置。
力強く肯定の頷き。
また、彼が笑った。何か私はまた変なこと、言ったかな。
「こんどから、届かなかったら取ってあげる」
「え」
寝耳に水。泣きっ面に蜂……じゃなくてケーキの台詞。
「で、ででも。ご、ゴメイワクになっ、たり」
引っ込み思案特有、無駄な気遣い精神がフルパワーで発揮される。こんな所で引くな。引いちゃ駄目だよ私のばかー。
本音がポカポカと建前や照れを叩き潰そうとするがその壁はかなり分厚い。
「いいよ迷惑じゃないから。ついでに僕も何か借りるしね」
「あう……の。その……」
言う。言うの。ありがとうございます、所でお名前は!! とか、言うのっ。
蝶が華麗に脱皮するように、殻を破れ。破っちゃうの。頑張れ!
「あっ、ありがと、う……ございます」
言った。言った! 言って頑張ったけど肝心の後半部分が言えてないーー。
中途半端に殻が割れた。蝶は脱皮できずに藻掻いている。
お名前は、と何度も聞こうとするのだけど何かに主導権が握られているがごとく私の唇は動かない。動いたとしても何語何だか分からない。
気が付いたらもうすぐ図書室が閉まる時間だった。
「あ、貸し出しカードに書かないと」
「は、はい。えっと……」
カードを取り出し名前を書こうとしたところで待ったが掛かる。
「僕がしてあげるよ」
にこやかな申し出。嬉しいけど幾ら何でもそこまでお手数かけるわけにはいかない。
「で、でも」
「いいからいいから」
断ろうとする私に、彼は見た目の穏やかさとは違い意外と強引に主導権を握る。
やっぱり惚れた弱みかな、白旗をすぐに揚げてバタバタ振り回しちゃう私。
本とカードを取り上げられ、すっかり傍観者。
字も綺麗。慣れた手つきでカードに名前と日付を。……あれ?
違和感。凄く奇妙な感覚。
「あの」
「はい。終わり」
違和感の理由を尋ねようとしたけど、輝く笑顔にそれは打ち砕かれる。
笑顔に弱いんだ。私。
「は、はい……」
嬉しいのと疑問と困惑が混じり合った感情。それはひとまず保留にした。
彼が渡してくれた三冊の本をギュッと胸元に握りしめ、精一杯。緊張したけれど私なりの精一杯の笑みを彼に向けた。
穏やかに笑い返してくれる。ずっとずっと間近で見たかった顔。
折り目一つ無い紺色のブレザー。胸元のネクタイは男子と女子共通のワインレッド。
私の髪と違って漆黒ではなく、ちょっとだけ、日に透かしてみないと分からないほど少しだけ赤毛が混じっている。短髪の印象としては茶褐色……ダークブラウン。
芸能人とは比べたことはないけれど。私にとっては一番だ。
ぴしぴしっと規則通りのその格好は優等生、の言葉が当てはまる。読書家みたいだし、女の子にも優しいし。二人きりで話している、という時点で私は雲を掴んでいる。
奇跡だ。紛れもない奇跡。
「じゃあ、僕はこれで。帰り道、気をつけて」
「はう。は、はい!」
かけられた声に別世界に行きかけた魂を引っ張り込む。彼が扉の取っ手に手を掛けた。少し五月蠅い横開きの扉は、二人きりの時間にタイムリミットを知らせる。
彼の身体が扉を出て。半分、ドアが閉められた。
まだ、名前も。聞けてない。
「あ…………う」
こんなに、優しくして貰えたのに。
お願い。意気地無しの私の唇。数秒でも言いなりになって下さい。
ねえ、お願いを聞いて。一言、一言だけでも私の意思を伝わらせて。
視界がぼやける。彼の背中が歪む。このままだとグスグス泣き出す困った女の子になってしまう。瞬間。
「あ。名前、教えてなかった。僕の名前は、賀上 椎名。かがみしいなです。
よかったら、覚えていて、下さい」
彼は振り向きもせずにそう告げてきた。今までと違ってちょっとかしこまった変な言い方だ。
「かが、み しいな……」
「正解」
あっ、と思う前に扉が閉じられる。
「まっ、まって。私、私の名前!!」
慌てて扉に駆け寄る。
『大丈夫。大丈夫だから』
磨りガラス越しに、彼がこっちを向いたのが見えた。
――大丈夫。
何が? 分からない。
「だいじょう……ぶ。何……待って……言ってないのに」
響くのも構わず扉を開く。廊下には、もう人影がない。
「嘘。何で」
何度か左右を見た後、階段へ目を向ける。ポスターに貼ってある『廊下走るな』が何。もうそんなことはどうでも良い。もやもや気持ちの悪い違和感が臆病な私の背を押した。
居た。その人は階段の踊り場の、一階に下りる段の手前にいた。
もしかして。私、待ってた? まさか。
「楽しかったから。また明日、ね」
また、彼が笑った。私の知らない、少しだけ照れたような顔だった。
頭の中が熱くなる。全身がぴりぴりして麻痺してしまう。
明日。明日会える。また、明日って言われた。
運試しみたいに確率で会うのではなく。確実に会えるようになった。
名前も、聞きたかった名前も教えて貰えて。
気が付いたら私は階段の前で座り込んでいた。彼はもう居ない。足音も、聞こえない。
「あ、はは。腰、ぬけちゃっ……た」
膝に置いた手の甲に熱い感触。濡れている。
なんとなく頬を触る。水滴が幾筋も伝い、私の手を暖かく濡らした。
ない、てる。わたし、ない、てる?
自覚したらもう、止まらなかった。止めなかった。
ぽたぽたぽたぽた。どこから出てくるのか、自分でも呆れるほど落ちてくる。
涙が収まるまで、私はずっとその場に座ったまま嬉しい涙をこぼし続けて。
嬉しくて泣いたのは、初めてだったから。ちょっとだけその気持ちに浸っていた。
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