七章/いつもの違う日常

 

 

 




 教室の中で教科書を眺め、ずっと解読の事を考えていた。
 慣れって言うのはやっぱり怖い。詰め込み解読が連日続いたおかげで本を何冊か同時に読まないと落ち着かない体質になってしまっている。
 机一杯に本を開いて読んでいるのに考え事が出来る余裕がある。
 時間のすすみがないとはいえ一月以上授業を受けていない。その分抜け落ちてしまった基礎学力をHR中に補充。
 前ならのんびり流れていた時間が今では激流の様。周りから視線を感じる気もするけれど気のせいだろう。
 歴史に国語に数学と英語に地理の頁に視線を走らせる。半分ほど見た後、幾分欠けていた学力も回復した気がして少し満足する。 
 それにしても翻訳している言語の一つの引っかかりがまだ解けない事が気になる。一つ一つを当てはめてもまだ一つの意味をなさない。
 小さく息をつく。
「音梨」
 やっぱりはじまりの言葉と終わりの言葉を繋げれば、ううんまったく意味をなさない言葉になる。
「音梨」
 オト? 音のない言葉という意味の別の文字を入れても。
「音梨!」
「は、はい!?」
 怒声が鼓膜を貫いて、ようやく自分の名が呼ばれたんだと気が付いた。HRはとっくに終わって今は既に授業中らしい。
 私の目の前に不機嫌そうな先生が佇んで、他の生徒皆様方が哀れみと好機と愉悦を交えた視線を向けてきていた。
 黒板には虫の食われた公式が幾つか。数字に公式、と今は数学の時間らしい。
 様々な恐怖を受けたあおりか、妙に冷静になってしまった頭はそう判断を下した。手元には数学の教科書も開いてある。
「何かご用ですか」
「私の話を聞いていたのか」
 不機嫌の理由はそれらしい。確かに教科書を熱心に眺めていて先生の話は一片も耳に入らなかった。
「いえ全く」
 思わず馬鹿正直に答えると、先生の眉が跳ねた。
「前に出なさい」
「はい」
「この式を全部解きなさい」
「全部」
「全部だ」
 全部。引っかかりを覚える。
 全て。
「……ちょっと待って下さい。全部」 
 一片ずつの繋がりではなく全てを組み替えて。あ、いけるかも。
 ぽろぽろと欠けたピースが手元に転がる。
 こんがらがった糸は全て断ち切られて一つ意味のある言葉が完成した。
 なだれ込む情報に僅かに目眩を覚えるが、嬉しい悲鳴が頭で響く。
「出来ないか」
 とんでもない。一文字分かれば理解は進む。リンゴだって「り」も分からなければ困るもの。
「助かりました。ありがとうございます」
「は? 出来ないんだな。出来ないな、まだ教えられていない所が大半で」
「あ、はい。コレ全部ですね。もう本当助かりました。ちょっと待って下さいねすぐ終わらせますから」
 一歩前進。大きな一歩。鼻歌交じりにチョークを動かす私を見る先生が引いているのは何でだろう。
「出来ました。えっと、これが全部ですよね」
「……正解だ」
「はい、それじゃあ本当にどうもありがとうございます」
 見も知らない魔法を幾つも幾つも解き進めていくよりも楽な公式をさっさと埋めて、席に着く。
 そして何で教室のみんなの目が私を向いて居るんだろう。
 四冊は少し多いよね。シャイスさんの言葉を思い出し、開いた教科書を二冊閉じ解読の続きを取りかかった。


 さっきから知らない人に声をかけられる。「凄いね」とか「どうしたの」だの「別人?」とか。
 手元の辞書を眺め首を傾ける。私は何かを失念している気がした。何だったかな。
「カリンちゃん。どうしたのよーーー何でアタシより先に遠い人になっちゃってる訳!?」
「どうしたのマナ」
「だってだってカリンさ、ずううううっと先の公式出されて嬉しそうにお礼言って全問正解したってウワサになってるわよ」
「ずうっと先?」
 何の事。
「数学の川淵でしょ。アレ性格悪いよね」
「カワブチ?」
 誰。
「もうっ、とぼけちゃって。知らない? 数学のセンセ。気に入らない生徒にわざとすっごい先の問題とか出してくるやなヤツ」
「…………出されたんだ。気の毒だね」
「そうなのよ、もう気の毒で気の毒で。いやあんたの話よカリン」
「私? 出されたっけそんなの」
「らしいと思うけど。なんでカリンちゃんは何冊も本を開いたあげく辞書を眺めてるのよ」
「落ち着くから」
「そ、そう。ていうかなんで教科書後半開いてるのよ」
「何となく読んだから」
「…………カリンちゃん。まだあたし達、教えられてるのは前半なんだけど」
「――――あ」
 気が付いた。何かが決定的に噛み合っていない気がしていた。
 それが根本的に恐ろしいほどにずれているとは薄々分かっていたけれども、こんな単純な事だったなんて。
 普通は一日で数冊の本を読み解き、あげく辞書を眺めて他の本の解読に思いを馳せるなんてしない事に今気が付いた。
 どうしよう。でも読んでかみ砕いて私の中では吸収されてしまった。他の全ての魔術の基礎と同じように。
 ここ一月程周りが天才ばっかりだったから違和感なくそうしてたけれど。一日に数十冊読む彼ら彼女達はとても異常だったんだった。
 近頃やっと一日十冊読める様になった私は、自分の能力の低さを嘆いていたのに、こっちでは異端になってしまう。
「ねえカリンちゃん」
「マナ。私達、今全部の教科どの辺りまでやってたっけ」
「はあ?」
「どこまでやってたのか忘れちゃってついつい変なところまで読んじゃった」
「そ、そうなんだ。じゃ運良かったのねーカリンちゃんったら忘れっぽいんだから」
 取り敢えず一月前やっていた頁を全て教えて貰って、授業は事なきを得た。
 ウワサは流石に消えそうにない。


 

 

 

 

 

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