七章/いつもの違う日常

 

 

 





 地道な努力というモノは馬鹿にしてはいけないと思う。

 暗い部屋の中で布団を被ったまま前方でけたたましい鳴き声を上げる目覚ましの頭部にチョップを入れる。
「ううー」
 二番目の目覚ましが甲高い小鳥の声を響かせる。どこに隠したっけ、目覚まし。
 記憶の引き出しを漁る間もなく今度は携帯がお気に入りの曲を奏で始めた。
 居心地の良い布団から這い出して、ベッドの下に隠していた目覚ましの頭を叩き、大人しくさせる。
 携帯の目覚まし機能を止めた時点で眠気は既に飛んでいた。
「朝……四時半」
 ここまでしないと起きられない自分が悲しい。
 落ち込み悲しむ事で色々と忘れていたけれど、あちらの世界に行けば私はしごきしごかれのスパルタフルコース。
 ここ数日全く運動という運動もして無くて、少し身体が鈍ってしまっている。アニスさんやマインに追いつくのは無理だろうけど、足腰の強さくらい維持しないと死活問題。
 手早く寝間着を着替え、腰まで届く髪を根元で二つに縛る。
「よしっ」
 知り合いに会わない事を祈りながら今日も私は朝の鍛錬に励む。何時来るとも知れぬ召還に脅えるんじゃなくて、備える為に。
「昨日は公園に着いたのが五時だったから、ちょっと進歩」 
 次は平衡感覚の訓練。
 鉄棒の上に飛び乗り、着地する。勿論両手は一切使わない。初めて挑戦したときは足を滑らせて顔面から落ちるわ爪先だけ鉄棒に引っかけたまま一回転するわと散々だったが今ではなんとか飛び乗れる程度には進歩している。
 地獄のスパルタを思い起こせば顔面強打も後頭部からの転倒も笑って済ませられた。
「こ、ここから歩いて、歩ける様になれば」
 フラフラ揺れる身体を水平に保ち、心で念じる。ここで歩ける様になればどんなに細い塀の上でも走れる気がする。ロープの上だってへっちゃらだ。サーカス団も吃驚な綱無しライオンとの逃亡劇だって出来るはず。
 現代日本では全く無用かつ無縁なスキルだと思ったら少し泣けた。
 雑念が入って身体が僅かに傾く。
 無心無心無心。
 コレが出来ればコレが出来れば普通の人から遠ざかるけれど、明日の朝日が拝める回数が増えるんだから。
 三往復したところでとん、と軽く地面に降り立ち息をつく。階段ダッシュに一ヶ月ちょっと前の記録を大幅に抜いたフルマラソン。
 鉄棒乗りにフェンスよじ登り。
「うん、私。着実に女の子を捨てていってる」
 様々な意味で凹みそうになりつつ、公園のフェンスに指を絡める。つつがなくのぼり始めた太陽が一日の初めの合図を告げていた。




『うーあでぃるく……Dock』
 黄ばんだ紙に指を載せ、難解な文字を読み解いていく。
 勉強不足で完全に読めない為、読める文字だけ拾っていくというのが正しい。
 自分の唇から出ているとは思えないおどろおどろしい発音と、意味不明な言語。
 どんなに難しい問題でも切っ掛けさえあれば何時かは解ける。
「うーうーうー」
 その切っ掛けが私の一生以内に見つかるかどうかは不明だけど。
 呻いても呻き続けても魔物の言語翻訳が簡単にいくわけもない。
 あちらの本をこっそり数冊鞄に忍ばせていれば良かった。
 こんな結果になるなんて予想もしていなかったけど、心の何処かで不安はあったのかも知れない。
 本当に確実に還されると思っていたのなら、魔物の翻訳本を気にする理由もない。
 何もしないよりは何かを一つ。何かが意味不明な言語翻訳で辞書もない難関だとしても私は諦めない。
 諦めるモノか。
 朝の訓練から帰ってきてから登校間際の時間まで。私は異国の言語に悩まされ続けた。 




 

 

 

 

 

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