七章/いつもの違う日常

 

 

 



 こわい。怖い。恐い。コワイ。
 あなたは誰。人ではないのか、それとも生物ですらないのか。
 掴まれた足が腕が酷く冷たい。まるで氷水に浸されたように感覚が麻痺していく。
「やめ、て」
 このままだと体の体温が全て失われて鼓動まで止まってしまうような気がして、私は声を振り絞った。唇から漏れだした空気がごぼりと音を立てて闇を蠢かせる。喉に入り込む黒。肺を満たす、生暖かく、冷たい違和感。固体でも液体でもない、分からない何かは吐き出そうとしても逆流してくる。
 強引に進入してきた闇に対する拒絶反応なのか、嗚咽が漏れそうになった。
 足や腕だけでは物足りないとでもいいたげに、黒い何かは私の首を絡め取ろうとする。
 背筋が震える。息が詰まる。
 ――くるしい。揺らめく闇が身体にまとわりつく、息苦しさは激しくなっていく。
 息が、出来なくなる。触ら、ないで。いつの間にか出ていた涙は、闇にとけ込んでしまう。闇を飲み込むことも構わずに、大きくあえぎながら口を動かした。何かしていないと気が狂いそうだ。拒否を。否定を、その意思を、声に出さなきゃ、だめ。
「触らないで!!」
「は、はい!? いえあの済みません」
引きつり気味の返答が返ってきて、ぽた、ぽた。と地面に落ちる水音が鼓膜を打つ。滲む視界に見慣れた顔が映った。あの息苦しさは嘘みたいに消え去って、身体を蝕みつつあった闇もない。私の真向かいに立った彼は、ぱくぱくと二、三度口を動かして、
「え。あああ、あの。別に変なコトしようとしたワケじゃ。お面外してましたけど染料とか変な場所についてました!? そ、それでしたら気が利いて無くて済みません」
 両腕をばたつかせた。威厳のある純白の法衣の袖が揺れる。灰の瞳が困惑と動揺でせわしなくうろうろと動く。シャイスさんは、相変わらず、か。
「お帰りなさい。カリン様。お待ちしておりましたよ」
相棒の慌てぶりとは反対に、落ち着いたおっとりとした声が響く。既に外していた趣味の悪い髑髏の仮面を片手に携え、黒い重そうな法衣に身を包んだフレイさんは笑った。
 こちらは、やっぱり真意が読めない笑い方をする人だ。
「カリン様、あ、あのぉ。な、何故泣いていらっしゃるんでしょうか。その。私何かやりました?」
「……なにかって」
 控えめに尋ねられて、いつもなら笑って気にしない振りをする私のこめかみが僅かに引きつるのが自覚できた。声は思ったより平坦になった気がする。
「は、はい」
「何ですかアレは初め来たときにも思いましたけど趣味が悪いにも程がありませんか!?
 あなた私の寿命幾つ縮めれば気が済むんですか。このままだと確実に二十も満たず私死にますよ。引きずり込むような召還なんてあんまりですッ」
「え、えと。ええ? 何のことですか」
 後退る白い法衣。構わずじりじり距離を詰める。
「とぼけないで下さい。趣味の悪い演出仕込んでますよね」
「あのー。全く記憶にないですが、来るときはどんな事になるんですか」
 牙を剥く私に涙目のシャイスさんが脅えた声を出した。
「どんなって」
 思い出したくもないけれど、少しずつ記憶をたぐり寄せる。本来なら削って何処かに捨ててしまいたい記憶が蘇る。
「初めは辺りの景色が凍ったみたいになって。人の姿が見えなくなって、音も全て消えて」
 全てが消え、色彩が失われる。召喚前に感じるのは刻の止まった孤独な世界。
 助けを呼んでも静止したまま動かない人影。また、思い出してきた。時を刻まない時計の針。止まってしまった車達。
 ぜんぶがストップする。そうだ、召喚前は私の世界は全てが止まる。人も時間も影さえも。
「それから……爪先から何かに飲まれるみたいに沈んでいくんです。そして足首を捉えられて、腕を影みたいな黒い闇に絡め取られて闇の中に引き込まれて。とにかく気分は最悪です」
 そうだ。最悪だ。息が一瞬止まったかのような衝撃と、世界にただ一人だけという恐怖。泣いても、喚いても。誰も手を差しのばしてはくれない。
 あんなのに慣れなければいけないのだろうか。
「…………そ、それはまた。偉く衝撃的な召還のされ方で」
 予想外の答えだったのか、シャイスさんが自分の肩を抱く。
「人ごとみたいに言わないで下さい。召還してるのそっちなんですから」
 言い募るうちに虚しくもなってくる。彼らが前告げたことが真実なら、私はこの世界史上ただ一人の世界と世界を行き来できる人間なのだから。
 いや、語弊がある。どっちかというと、無理矢理行き来させられている。
 黒い法衣を纏ったフレイさんが静かに微笑む。何故か本能的に後退りたくなる衝動を抑える。
「ふふ。カリンさまそれはさぞお恐かったでしょう。でも大丈夫、落ち着いて下さい。
 シャイスは頼りなくても私はある程度の術を学んでいますので」
 可哀想だけど頼りないのは同意する。でもある程度ってどの位なんだろうか。
 シャイスさんの火を灯すより強い火力が出るとかかな。
「た、頼りなくて済みませんね」
 気にしているらしく、むくれるシャイスさん。でもこれはフォローのしどころがないです。
 少しだけ首を傾けて、何かを考えるようにフレイさんが自分の唇に指先を当てる。
「とはいえそれは私達の過失とも言えますけど、カリン様が何とかするべき問題です」
「私が?」
 自分で?
「はい。その黒い闇はカリン様自身しか取り除けませんから」
 意味はよく分からないけれど、オロオロするシャイスさんやにっこり微笑むフレイさんからこれ以上の話は聞けないだろう。
 ふう。と息をつき。私は自分の世界で取り戻した笑顔の破片を集めて微笑んだ。
「じゃあ、ただいま。シャイスさん、フレイさん。
 これからも宜しくお願いします」
「あ。は、はい! 微力ながら不肖シャイス。精一杯お手伝いいたします」
 ぱっとシャイスさんが私から三歩程離れ、深々と頭を垂れる。
「ええ。私も僅かですが力になります。そして、お帰りなさい、カリン様」
 ゆったりとしたフレイさんの台詞に不安を覚えるのは何故だろう。どうも私はフレイさんに少しだけ苦手意識があるらしい。
 白い法衣をぱたぱたと揺らし、シャイスさんが慌てたように口早に告げてきた。
「カリン様。ベッドも整えてありますのでいつでもおくつろぎ下さい。ご不自由だとは思いますけど、何かありましたら申しつけて下さい」
「ありがとうございます。じゃあ明日から頑張ります。短期勇者候補ですから」
 チク。自分で言って少し胸の奥が痛む。だけど本当だから、痛みをこらえる。
「カリン様……召還しか出来ませんけど、お手伝い頑張りますね」
 ちょっとだけ悲しそうな目でシャイスさんが小さく呟いた。にこにことフレイさんが彼を振り向く。
「シャイス。プラチナ様に報告しないと不味いんじゃ無いですか」
「う。忘れてました! お叱りが!!」
 それはかなり大事では。プラチナはかなり時間に正確で、遅れると恐ろしい。
 何が怖いって言われると、精神的に追いつめられる。
「は、早く行った方が良いんじゃないですか?」
 挨拶もそこそこに、シャイスさんを促す。
「は、はい。あわただしくて済みませんが、いったん失礼させて貰います。あの、カリン様」 
 慌てて扉から出ようとした彼の足が止まり、こちらに向き直る。
「はい?」
「お帰りなさい」
 シャイスさんは僅かに憂いを含んだ微笑みを向ける。
「はい!」 
 微笑みの意味を今は考えず、丁寧なお辞儀に私は強く答え、笑顔を向けた。
 廊下に佇む影へ薄く月明かりが照らされる。アベル、だ。
 今は夜中だと気が付くのと同時に、彼の唇が僅かに動くのがみえた。
『地獄への帰還おめでとう』
 笑みもない、無機質な歓迎。
 かき集めてきた強がりでにっ、と微笑んでみせるとアベルは小さく肩をすくめてふらりと何処かに歩いていった。
 私は帰ってきた。この戦場に。
 幸運は続かないかもしれないけど、私の精一杯で生きようと、決めたから。



 

 

 

 

 

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