六章/切れないゆびきり

 

 

 




 夜も近い。廊下の冷たさが肌を刺す。なんとか呼気は白くならないけれど、もう少し冷え込めば吐く息はミルク色になってしまうだろう。
 寒い。刺すような空気。防寒服でないのなら尚更で、指先がかじかんで感覚があやふやだ。
「…………ちょっと変な感じ」
 冷気をこらえてマインに姿を見せ、軽くターンしてみせたのに、沈黙が置かれた感想は曖昧な一言だった。
「眺め回したあげくの台詞がそれなんですか」
 歯の根が合わなくなる前にミルク色の貫頭衣を羽織る。暖かい。ちょっとだけ手の感覚が生き返る。
「ぶかぶかだし」
 自分でも気になっていたのでうっと呻く。来訪時にはジャストサイズだったおろしたての洋服は、腕が余裕で収まるくらいに余ってしまっている。
「色々あったから仕方ないんです」
 スパルタ育成とか、お芋フルコースとか。ダイエットには良いかもしれないけれど、育ち盛りには少し厳しい環境だった。
 余計な脂肪は落とせたけど。頬が痩けていたらどうしよう、随分鏡を見ていないから鏡を見るのが怖い。
「寒そうだし」
 絶対言われると思っていた。寒くなければ急いで上着を羽織ろうとは思わない。
「気温が大分違うんです」
 マインが見たいと言うから無理を通してそのまま廊下まで出たのに外気並みに冷たい反応。少し拗ねたくなる。
「ヒラヒラだし」
「スカートは普通ヒラヒラです」
 彼は全てに興味を示す。その内靴まで念入りに調べられそうだ。
「リボンも何時もと違う」
 先程と同じような不機嫌そうな顔で、ストライプのリボンを示す。
「いえ、まあ」
 基本的に地味な色や飾りを好むせいか、こちらに来てからも明るい色は身につけない。
 師匠と弟子という関係上、一緒に行動することが多いマインには好みもかなり把握されてしまっている。
 レースの靴下やストライプのリボンは私の選択としてはちょっと派手目の部類にはいる。
 訝しげに見つめてくるけれど、大好きな彼に会いに行く為の精一杯のお洒落だから。とは流石に言えずに黙り込む。
「嫌いじゃないけど、いつもの格好と違うと変な感じ」
「そんなに変ですか」
 そこまで変を連呼されると不安になってくる。
 へん、なのかな。考え込もうとした私にマインは小さく手を振り、
「そうじゃなくて違和感が。そこまでひらひらの格好見ないから」
 言われてみれば、外に出てもこの世界では動きやすい服か、厚手の貫頭衣を身につけている人が多い。
「そうなんですか? これでも抑えてある方ですけど」
「えっ、そうなの!? じゃあ今度見たい! ――あ、ゴメン。無理だったよね」
 大げさに驚くマイン。どうも本当に物珍しいみたいで、じーっと見つめられる。珍獣の気分。
 城下の人達はお洒落心がないのではなく、ただ単に寒いから着飾ったり露出しないのだろうと思っていたけれど、違うのか。
 アニスさんはドレスを幾つか持っていると言っていた事をふまえると着飾るのはごく一部の人だけって事かな。
「すいません」
 期待に答えたいのは山々だけど、多分もうここには来られない。来られたとしてもそこまでふわふわな衣装は持っていない。
「ううん。ちょっと好奇心が疼いただけだから、カリンは気にしなくて良いよ。
 ほら、もうみんな集まるんだから早く行かなくちゃ」
「え、あ。はい」
 歩もうとしてしばらく天井を見上げる。足がなんとなく少し重たい。
「どうしたの」
「ちょっと、不安が」
「帰れるのに?」
 マインが不思議そうに首を傾けた。自分でもおかしなことを言っているという自覚はある。ただ、今までずっと不安はあった。
「おかしいですね。変ですよね、ただ何となく変な感じがするだけです。
 実感がないだけかも知れないので、気にしないで下さい!」
 ザワザワと身体の内側がざわめく感じがある。何の予兆かは分からない。分からないからこんなにも不安になるのだろう。
 妙なことを言ったせいなのかマインも静かになり、圧迫されそうなほどの沈黙を背負ったまま二人長い廊下を進んだ。
 



 ――いいにおい。
 召還されたときのような噎せるような甘さではなく、控えめな甘い紅茶のような香り。
 部屋に踏み入ると、薄暗く、聞かない視覚の代わりに嗅覚が一番始めにそれを捉えた。
 何の匂いなんだろう。心地よくてうっとりする。
「お茶するの? 美味しそうな匂いする」
 後ろから食いしん坊発言。
「いえ、違いますよ。気持ちを落ち着ける作用のある香をブレンドしてみました。前のは少々気分が高揚する作用もあったみたいなので」
 ずっと居たんだろうけれど、景色ととけ込みすぎていて存在すら分からなかったフレイさんの声がする。
 蝋燭に炎も付けないで待っている辺り、絶対にわざと脅かそうとしていたに違いない。
 お香……か、一種の麻酔? こうやっているとシャーマンみたいだ。
「自主的にいらっしゃるのを心待ちにしていたんですけれど、時間がありませんでしたからお呼びだて致しました」
 胸元に手を軽く当て、ゆっくりとフレイさんが腰を折り曲げる。見慣れても、何処か遠い世界の挨拶。
「お手数かけてすみません」
 少し遅くなった罪悪感も手伝い、勢いよくお辞儀をする。
「今回は良いですよ。身の回りは整理してきました」
「はい、もともと持ち帰る物も余り無いですし」
 訪ねられた言葉に頷く。
「気分はおかしくありません。違和感とか」
 日差しの当たる縁側にいる猫のような、ウトウトとまどろみたくなるような気持ち以外に変わった所はない。
「少し、眠たいくらいで。特には」
「カリン様はこの香が合うようですね。覚えておきます」
「覚えても使い道あんまり無いんじゃ」
 私、もうこない……これないんだから。
「いえ、そうでもないですよ。どうしましたシャイス。ほら、カリン様にお別れしないと」
「あ、はい。あの、カリン様。私――」
 ずっと俯いていたシャイスさんが、顔を上げ、何か言おうとして唇を噛む。
「今まで有り難うございました。本当に親身にお世話をして頂いて、別れるのがちょっとだけ名残惜しいです」
「今生の別れじゃないんですから大げさですねえ。あ、カリン様その人の中央に立って下さい」
「あ、はい。大げさじゃないですよ、今生の別れみたいな物じゃないですか」
 絶対に、もう二度とこの地を踏むことはない。居なくなるのと同じだ。
「カリンちゃん。身体に気をつけてね」
「もう会うこともないだろうが、事故に気をつけろ」
「だから皆さん、大げさですって。カリン様が消えて無くなる訳じゃないんですし」
「何を言っている。カリンはもう還るのだろう、ならばもう会うこともあるまい。多少感傷的になるだろう。
 お前は違うようだが。嫌に冷静だな」
「え。だってカリン様またこっちに来ますから。安全な所への帰還を見送るだけの事ですし」
「また……来る?」
 僅かにプラチナの表情が強張った。私は、持っている鞄が落ちないように両手の平にただ力を込める。
 心配そうなマインの目。私の指は白くなっていたのだろうけれど、そんなことはどうでも良かった。
 フレイさんの言葉が蘇る。
 『また、来る』
 何処に?
「また来るってどういう意味よ」
「カリン様は、またここにいらっしゃるという意味です」
 呼吸が少しだけ止まる。
 みんな、息を飲み込んだ。何となく気配で分かった。
「どう、いう……意味ですか。私、帰れるんじゃ、ないんです、か?」 
 言葉が歪む。声が掠れる。勇気を振り絞った台詞。あの、はじまりの日の再現。
「帰れますよ。少しだけ。そしてまた戻ってきて貰います」
 フレイさんは、いつものように笑みを浮かべて答えた。当然だというような、よどみのない台詞。
 帰れると無意識に高ぶっていた気持ちは、積み方を間違えた積み木のように揺れ、崩れていく。
「ずっとじゃないんですか?」
 本当は尋ねたくないのに唇が問いを投げる。
 意識が半歩ずれ始める。耳を塞ぎたい。手は、動いてはくれない。
「はい」
 漆黒の法衣の下で、フレイさんは静かに頷いた。血の気が引いていく。
 一気に意識が戻り、水を含んだ綿のように身体が重くなる。
 神経がとぎすまされて、静寂が一層際だった。
「シャイスさんは――知ってたんですね」
 一瞬、奥歯を強く噛んでから声を絞り出す。
鼓膜に響く言葉は、冷たくて。私の声じゃない誰かの声のようだった。喉がすり替わったみたい。
 彼が震える。そして、私に顔を向け。
 見えたのは、僅かに濡れ、潤んだ瞳。それだけで答えは分かる。
 継いで、
「……ごめんなさい」
 静かな、謝罪。その一言で、もう、充分。
 私は――
 かえれない。
 たった五文字の言葉が、私の足首を捉え、闇へと引きずり込んでいく。
 涙は出ない。ただ、はじまりの、時の止まった世界を私は思い出していた。
 闇と静寂と恐怖の時を。



 
 

 

 

 

 

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