六章/切れないゆびきり

 

 

 

  

「嘘つき」
 静寂に小さな呟きが切れ目を入れる。
「ウソつき、ウソつき、ウソつき! シャイスのウソつき! シャイスとフレイはウソ言わないと思ってたのに!! 勇者候補じゃないならウソ付かないと思ったのに」
 俯いていたマインが微かに震え、下唇を噛み締めて、耐えるように拳を握っている。いつもは無邪気に輝いていた瞳には、悲しみと、何処か絶望にも似た色が混じっていた。
 勇者候補じゃないなら……ウソは言わないと思っていた。どういう意味? 頭がグチャグチャになりそうで、熱くなっているのか、意識が途切れそうなのかも分からなく、私は尋ねる余裕すらも持てなかった。
「ウソつき! 信じてたのに、信じてたのに。僕、信じてたのに。カリンも、信じてたのに。酷いよ」
 同じ言葉をマインはずっと繰り返す。まるで言葉を吐き出して今にも動き出しそうな自分の身体を押しとどめるように。
 シャイスさんへの責めを口にする度にマインの眉が苦しそうに歪む。
 だめだ。このままだとどちらも傷だらけになる。
「マイン」
 掛ける言葉が見あたらなくて、私は彼の名前を切れ切れにようやく紡ぎ出した。彼が少しだけこちらを見て、視線を落とした。
会話の切れ目に、シャイスさんがぽつり、ぽつりと語り出す。
「すみません。言い出しにくくて、それで伸ばして伸ばしてたら。気が付いたら今日になってて」
 横合いからすさまじい圧力が加わり、息が詰まる。その主が隣にいるマインだと気が付くのに数拍の時を要した。
「言い訳はもう良いよ。言わないで傷つくのはカリンなんだよ!? だったら伸ばせばもっと傷つくって分かってるよね、なのに」
 言い募るマインはいつもより少しだけ怖くて、それよりも、どことなく大きく見えた。
 なんだろう、これ。息が苦しい。寒気がする。殺気……ってこんなのなのかな。
 前に見た獣王族、あれは見かけからして恐怖を覚えた。だけど今のマインからも似たような感覚を覚える。
 気迫を叩きつけられるというのはこのことだろう。
「もしかして、カリン様知らなかったんですか」
 少しだけ、驚いたように小首を傾げ、フレイさんが瞳を瞬かせる。暗いこの部屋では彼の瞳は夜の色。
「今、知りました」
 なんとか、絞り出せたのはそれだけ。
「そうですか」
 気まずげな沈黙を置き、思案する様にフレイさんが口元へ手を当てる。
「フレイも! なんで。還せるって言ったんだよね」
「一時的には」
 激高に近い叫びに、静かな声を返す。
「どうして、カリンはずっと元の場所にいられないの」
 冷たい湖面のような穏やかな顔のまま、頷くフレイさんに感化されたのか、マインの気持ちも少し落ち着いたようだった。
 悲しそうに私の言いたいことを呟いてくれる。
「召還は失敗。失敗であるが故に成功。答えはそれだけです」
 淡々と告げる言葉の意味を飲み込むことがすぐには出来ない。
「どういう意味」
 不思議そうに首を傾けるマイン。
 フレイさんを見る。物言いたげな視線をこちらに向けた後小さな微笑み。
 知っているはずだ。
 そう、言われた気がした。
 もしくは――私にはわかるはずだ、とも。
 失敗は成功。成功は失敗。これだけではやはり幾ら首を捻ろうとも答えは出ない。
「この召還が行われる時、私に告げられた言葉。覚えてます? 
 プラチナ様は、数ヶ月。せめて二ヶ月は保てるだけの戦力を持った候補者を望みました。だから、カリン様は最低でも二ヶ月、いえ。三ヶ月はこの世界に留まらなくてはいけないんです」
「たしかに頼んだが、カリンは私が望んだ戦力にはなり得ない」
 眉根を寄せたプラチナの疑問。僅かな可能性が頭を掠めて、肌が粟立つ。
 嘘だ。考えたくない。そうだとしたら、そうだとしたら私はもっと深い絶望にたたき落とされてしまう。
「ええ。だから失敗だったんです。でも、契約は成功して定着もしました」
 静かな彼の言葉が、響く。
 身体の内側が冷たくなっていく。いつの間にか掌に食い込んでいた爪が痛い。血が少し、滲んでいる。
「まさ、か」
 怖い想像が脳裏を駆けめぐった。この一ヶ月で私が目にした文献は百を超えている。
 発動が出来ないだけで、肌が合わなかっただけで。全部が全部分からなかったわけではない。読み解けたものもあった。だから、次の言葉が何となく分かった。
 そしてそれは、私が聞きたくない絶望でもあった。
「はい。本来なら一日が三分。私達の言葉で言うなら一刻にも満たない時になる。
 それ自体が異常なんです。時系列が完全にねじ曲がって、下手に契約を破ろうものなら何が起こるか分かりません。この世界だけならまだ良いですけど、カリン様の世界にも影響が出てしまう可能性があります」
 嘘だ。そんなの冗談だ。
 質の悪い冗談だ。
「何が起こるかは」
 真面目にプラチナ様、真に受けないで下さい。そんな言葉を期待したのに。
「分かりません。だから尚更無視できないんです」
 なのに彼はそれを裏切る。微笑みもしない。
 告げられた言葉に、みんなが黙した。
「じゃあ、嘘だったんですか。還してくれるって。言ったのに」 
 ただ一人、私を除いて。
 言ったのに、あの時言ったのに。ちゃんと戻してくれるって。
 私の頭にあったのは旧式テープだったかも知れないけど、ちゃんと覚えてる。
「嘘じゃないです。嘘は、付いてません。私は、言い忘れてたんです。
 一時的にしか貴方を還せない、って」
 重いものを含んだ答え。彼は身構えなかった。きっと、拳を振り上げても避けないだろう。いつの間にか、両手で持っていたバッグが落ちていた。
「……シャイスにフレイ。お前達」
 拳を振り上げようとして、プラチナが止まった。私を見て。
「悪くないなんて責任逃れはしませんよ。契約は契約。カリン様がここを離れられるのはこの世界での七日。一週間までです」
 微かにフレイさんの声が聞こえる。
「それ、一日にもならないんじゃないの」
 アニスさんの疑問にフレイさんが首を振った。口元はいつものように緩んではいるけれど、目は真剣だった。
「いいえ。時のねじれ、それを活用すればカリン様をあちらの同じ時の長さ留まらせることも可能。無理をすればカリン様の好きな時間帯にこちらに召還することも」
「破棄は、出来ないか?」
 尋ねたのは、プラチナでは無く、アベル。嫌いな私のための助け船。何故出されたのかは分からない。
「出来ません。元々束縛性の強い召還ですから、契約をだましだましやるしか無いです」
 フレイさんが唇に指先を当て、瞳を伏せた。私の絶望が強まる。
「カリン様には、気休めにもならないと。私も分かってます」
 気遣うようにこっちを見て、フレイさんがおどけた調子も何もなく。首を横に振った。
 真面目な彼の台詞で、全てが真実だと分かる。
「さん、かげ、つ」
 足に力が入らない。体が落ちそうになる。
「あと二ヶ月ですよ。カリン様、貴方言ったじゃないですか。何が何でも生き延びるって」
 肩に両手を当て、励ますようなシャイスさんの言葉。それは私を追いつめるだけだった。
「無理、です」
 喉に絡みそうになる言葉を吐き出す。彼は、私を勘違いしてる。
「カリン様。二ヶ月だけ辛抱して」
 唇が震えて声が出ない。でも掠れた声を無理矢理紡ぎ出す。
「シャイスさん。私……まだ。こんな世界で、生き延びないといけないんですか」
「カリン、様?」 
 彼の動きが止まった。確かに私は弱音を吐いた。
 でも生死に関わるようなこんな台詞はずっとずっと吐き出さなかった。
 我慢していた。我慢できていた。言わないで居た。
 でも、もう限界だった。
「こんな場所で、生きないと駄目なんです、か」
 かみ殺していた弱音と本音。それは私の喉を通りすぎて、弱々しい言葉に変わる。
 『人の気も知らないで』とプラチナ達は怒らなかった。知ってるから、私は言った。
 こんな世界で生き延びないといけないのか、と。
「え、どういう」
 尋ねるシャイスさんの声が呻きみたいにくぐもっていた。
「駄目なんです。限界なんです」
 体が、重い。意識が薄れそうになる。
「どうしてですか。たった二月!!」
 強く掴まれた肩は痛くない。感覚なんて麻痺してしまっている。
「もう、私。いっぱいいっぱいなんです。私は普通なんです民間人なんです。
 なのに、あと二ヶ月も、生き残れる自信無いんです! 
 弱いんです。ここまで来るのにだってギリギリだったのに」
 そうだよ。ギリギリだった。無理をして無理をしてし続けても。
 私の才能は。潜在的な能力の差は埋まらない。勇者候補として呼ばれた人達とは、彼らとは違う。崖よりも高くて大きな溝が横たわっている。
 ずっとずっと堪えていた。私にはもう駄目だ無理だ死んじゃうと。
 全部全部投げ出して、楽になりたかった。でも今日があるから耐えられた。
 この一月。いろんな事があった。ありすぎた。けれど、魔物が攻めてこなかっただけ今まで幸運だったんだ。
 その三倍の月日。私は、幸運でいられる自信がなかった。 
「シャイス。彼女には。この世界の二ヶ月は、長すぎる」
 呆然と佇む彼に、プラチナが、静かに告げた。
 そうだよ、私には長すぎる。長すぎるんだ。
「血を見るのも。苦しいのも。悲鳴を聞くのも。傷つけるのも。
 もう嫌なんです、もう、私は……これ以上、笑えません」
 頑張って笑っていた。一月を耐えるために無理して笑ってた。
 笑みは見せていても、誰も本心から笑ってなかった。そう言う世界なんだ。
 そんな世界でおこる様々な事柄は、平和に浸かっていた私には過酷過ぎた。
 まき散らされる獣の血潮。悲痛な訴え。突きつけられた刃。
 座り込んで泣きじゃくって「私には関係ない」と言いたかった。
 牙を剥く世界なんて嫌いだった。でも生きてるヒト達は私と変わらなかった。
 だから、心が痛くなった。今まで投げ捨てられなかった。
「何時消えるか分からないのも。何時誰かが消えるのか分からないのも。
 ヒトが死んで、泣いて。たくさんなんです。
 訳の分からない闇に飲まれそうになる恐怖も。この手で誰かを殺してしまう夢も」
 悪夢は終わっていなかった。私は大好きな人を。知らない誰かを手に掛ける夢と。
 何時か真実になる日を恐れていた。追い立てられる恐怖は日増しに強くなって、私を押しつぶし掛けていた。抑えられない、本音。
「カリンちゃん」 
 アニスさんの声に、悲しみが混じる。みんなが何も言わなくなる。
「お願いです。もう、悪夢は」
 終わりのない夢は見せないで。
「カリン様。もう、言わなくて良いです。言わないで下さい」
 滑り落ちそうになる体を抱きしめられた。生ぬるい涙が頬を伝ってぽたぽたと流れ落ちる。
「ご免なさい。私は」
嫌悪と罪悪感にまみれる彼の声が遠くに聞こえる。彼は多分悪くない。
 聞かなかった私が馬鹿だったんだ。
「あなたは。約束は、守ってくれたんです。
 私に言った約束は守ってくれたんです。嘘はつかなかった。
 ただ、ホントが全部じゃなかった、それだけです」
 ぼんやりと、唇から声を吐き出す。
 嗚咽も一緒に混じったけれど、彼は笑わなかった。
 体から力が抜けて、動けない。
 何か呟くアベルの姿が、滲む私の視界に入る。
 私に視線を向けた後、この場の雰囲気に絶えきれなくなったようにきびすを返した。
「――私、は」
 苦渋に満ちた表情で、シャイスさんは唇を噛む。
 そう。約束は守られた。
 ただ、その約束は、半分だけの誓約書。慌てて書かれた未完の誓約書を渡された私は、確かめもせず頷いて喜んだだけ。
 彼は、約束を破っては居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

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