章/世界と世界

 

 

 

  
 冷たい土の感触が頬に当たる。前とは違ってそれも気にならず、むしろその冷ややかさが気持ちよかった。
 彼が攻撃の手を止めたのは、私が酸欠で窒息死寸前になる状態ギリギリだった。
 体全体で息をして、ぐったりとうつ伏せる私。
「生きてるー」
 返答する気力も起きない。まだ肺は酸欠で、呼吸困難気味。
「ゴメン。反省してる」
 体を反転させて、声の方に向く。本当に反省してるんですか、その楽しそうな顔は。言おうとした言葉はゼエゼエとした不規則な呼吸にしかならない。いきなり顔を上げたために目眩がする。
 息も絶え絶えになっている私を眺め、深く彼は俯いて。
「と、反省をひとしきりしたところで。お腹減った」
 ニコニコと華が咲きそうな笑顔を見せる。素早い話題の転換。
 してない。絶対してない。雪玉遊びを目一杯楽しんでどろんこになった爽やかさだ。
「さっき虐めてたときに気が付いたんだけどカリンさぁ」
「はあ」
 唇から掠れた返答。やっぱり虐められてたのか私は。
「おいしそうな匂いするよね」
 ふんふん、子犬みたいに私の周りで匂いをかぐ。冗談と受け流そうとして、彼の目を直視したとたん寒気が走った。
「わ、私食べても美味しくないですよ!?」
 目がヤバイ。肉食獣の、目だ。
「美味しそうだよ」
 夢うつつにそう言って、口元を拭う。うっとりとした恍惚の表情。
「ってそのよだれは何ですか。本気で私のこと囓る気じゃありませんよね!?」
喰われてはたまらない。この世界で生き残ると決めた私の生存本能は雑草並みの不屈の精神。疲れも吹き飛び勢いよく彼から間合いを取った。
「そうじゃなくてさ。カリン食べ物持ってない。ずーっと思ってたんだけどやったら美味しそうなカオリが」
「え。食べ、物」
 ごく、と唾液を飲み込み、指をくわえて見つめられて。私の思考が止まった。
 はて。何かそう言えば忘れていたような。たべもの、たべもの、なにかあったかな。
「あ。これこれ。中を拝見っと」
 後ろから聞こえる弾んだ声。ガサゴソと何か探る音。
 振り向くとマインは悪気無く私の。人様のバッグを漁っていた。
「あああ私のバッグ!!」
 邪魔にならないところに隠しておいてあったのになんて目ざとい。
 いつもとは言わないが、限りある持ち物であるバッグは出来る限り手元に置いていた。
 現在それが裏目に出ているワケですが。
「コレだ。うんやっぱりあるじゃん食べ物ぉっ」
 高々と大きめの四角い箱を取り出し、マインが懐いた動物みたいにほおずりする。
「そう言えばお弁当」
 記憶の忘れ物。そして私は思い出した。そのために荷物を漁られた衝撃より、もっと大きな衝撃を受ける。
「お腹ぺこぺこ。授業代金徴収っと。もらうよこれ」
 この世界でも蝶々結びの解き方位は分かるらしい。包んでいたハンカチをするりと解いて大きめのお弁当箱を開く。視界に映る色とりどりの食べ物達。いや、元食べ物だったと言った方が正しいのか。
「見たこと無いのばっかりだけど、良いにおいだから食べちゃえ」
 備え付けの短めのフォークを手に取り、彼がおかずを串刺しにする。
 口元に運ばれそうになるところで、私は我に返った。
「ま、ままま待って下さいそれは!」
 思い出した。思い出したんだ。
 よくよく思い出すと優に二週間以上は放置してきたシロモノ。大好きなあの人に作って食べさせるから、とかプレゼントなのに。なんて段階はとっくに通り過ぎて人様に食べさせられない品になっているはず。いや、食べさせるなんてそれこそ犯罪!
「んー。もう口に入れちゃった」
 私の思いも虚しく、マインは口にフォークをくわえてにぱっと笑う。
 吐き出して。今すぐ胃の中吐き出せ! と襟首を掴んで揺さぶるより早く。
 もぐもぐごっくん。聞こえた咀嚼音。絶望が背筋を走る。
 のっ、の……飲んだ。飲み、こんだ。
 あああああああ。崩れ落ちる私。伸ばした腕が大地をつく。
 絶対、絶対腐ってる。通り越して色々な変化が起こってる。
 それを、それを。食べた!?
「うっわ」
 呆然とした声が漏れた。彼のくわえたフォークが落ち、包んでいたハンカチの上に転がる。両手で口元を押さえ、眉をしかめている。
 そ、それもそうだ。確かに『うっわ』だろう。それ以上の食感と気持ち悪さなはずで。
「は、吐いて良いんですよ。いえ景気よく吐き出して下さい。命に関わります!」
 吐かせなければ! 使命感と共に私は慌てて立ち上がろうとする。
 が、次に掛かった一言で硬直した。
「コレ。美味しい! うん、美味しいよ。何で吐くのもったいないよ。命に関わらないと思うし」
 おい、しい? 何平然と食べてるんですか。しかも落ちたフォークを取り上げ、ちょっと指先で払ってから食事を再開する。胃の中に消える未知の物体達。
「それ、とてつもなく古いんですけど」
 倒れそうになるのを堪えて呻く。
「作りたてみたいな感じだけど。美味しいから別に何でもいいや」
 にこにこしながら食べ続ける。何でもって、二週間以上立ったおかずとかでも!?
「大丈夫、ですか」
 もしかして気を使って無理をしてくれているんじゃなかろうかと心配になってくる。
 勿論味ではなくて彼の胃とか体の調子が。
「僕、胃は丈夫なんだよ」
 いや幾ら何でも、二十日は経過してるそのお弁当は鋼鉄だろうが強酸だろうが胃が病気になるのでは。
「う、うーん」
 考え込むが、彼の表情は至って普通。いや、彼自身が言う通り何だか大丈夫そうにも見える。お弁当からも、全く異臭はしない。作ったときそのままの、香り。
「食べといてなんだけど。全部食べて良い?」
 本当に今更の質問だが、彼の表情を見て決めた。
「お腹、平気なら、どうぞ」
 まあ、本人が平気というなら平気だと思う。無責任極まりない考えで頷く。
 どうせ私が持っていても捨てるだけだ。
「おお、やった。でもコレ独り占めしちゃうのは他のみんなにも悪い気がするな」
 言いながらもフォークを口に運ぶ手は休めない。
「本気でおいしーですか」
 とてもとても幸せそうなので、思わず念を押して聞いてみたりする。腹痛になるんじゃないか、食中毒は大丈夫なのか、という不安はまだ続いている。
「美味しい。うーん」
 私の質問に、マインが難しい顔で唸る。
「マズイですよね」
 人に作ったお弁当は初めてだが、一人っ子のため留守番も少なくない。ある程度は作るようにしているので料理の腕はそこそこあると思う。決して得意とは言わないけど。
 しかし、元が豪華料理だろうが質素だろうが、腐っても鯛とは言うけど、味は激しく変わるはず。
 実際これだけ放置しておいた生もの。食中毒の大騒ぎになるはずで、マズイどころの話ではないと思う。
「じゃなくて、良い言葉が見つからなくて。美味。ほんと。至福?
 こんなの食べたこと無いもん。お肉なんて贅沢だよね、何処で手に入れたの。
 でもカリンはお店いけたっけ、というか手にはいるのかなー最近芋の入荷も厳しいのに」
「ええぇっと」
 また更に意外な一言。確かにこの世界は食糧難みたいで、肉どころか最近では豆すら入手が困難だとプラチナがぼやいていた。ソーセージが数本足りないとかお米が不足しているとかの段階ではないだろう。鋭い彼の質問にぎく、と肩が跳ねた。
 私の世界から飛ばされて、二十日ばかり温存してました。
 とはとても言えず、曖昧な呻きが漏れる。
「まさかカリン。これ―――」
 真剣な眼差しが私を射抜く。気が付かれたか。いや気が付かれても良いけど怒られそうで怖い。
「闇の裏市とかマズイ場所で」
「購入はしてませんから気にせず食べて下さい。何も聞かないで下さい」
 力一杯の勘違いに安堵の溜息が漏れた。
「うん分かった聞かない。何だろうこの黄色いの」
 意外にも素直にあっさり頷くと彼はおかずの品定めにはいる。非合法な品でないと安堵したのか、はたまた突っ込んで聞くと取り上げられると思ったのか。彼の性格を考えると後者の可能性が高い。
 マインは鼻歌を歌いながらお弁当の中でもひときわ鮮やかなおかずをつまみ、目をキラキラと輝かせる。
 定番中の定番だけど。無い、んだろうな。この世界じゃ。
「卵に味を付けて焼いたものです。卵焼きって言うんですけど」
「わー卵卵。んー、幸せ。あ、もう無くなった。じゃあこのスープが煮詰まって茶色くなってるっぽいのは」
 ぱく、と口に放り込み、ご満悦。頬に手を当てて今まで見たことがない位幸せそうな顔をしている。甘めに味を付けた卵焼きは、彼の舌にあったらしい。さっきまで卵焼きが居座っていた空席を眺め、残念そうに呟く。気を取り直し次の品をフォークで示した。
「それは肉じゃがです」
 言われて眺めた。確かにそう見えないこともない。
「ニクジャガ。変わった味だけど好きかも。じゃあこっちはこっち!」
 少量しかなかったせいもあるが、煮物を一口で食べると次の獲物に狙いを定める。
「それはただのリンゴです」
 彼が全部食べ終わるまで、私への質問は延々と続けられた。
 素直に褒めてくれるのは嬉しい。だけど、ふと思った。
 この世界でも流石にリンゴはあるんじゃないだろうか、と。 

 

 

 

 

 

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