一章/地獄よりも

 

 

 

  
柔らかな太陽の香り。頬に当たる感触はふんわりと焼きたてのパンのように柔らかい。
 夢か。夢だよね。貧血でもおこして、背中の感触……柔らかいから、病院に運ばれちゃったのかな。約束間際で貧血で病院。さ、さいあく。
 自分の馬鹿さ加減に頬が火照る。
 うー、と呻いて瞼に手の甲を当てた。眩しくはないけれど、少し目眩がする。
 頬にヒンヤリとした濡れた感触。病院の人がタオルをくれたのかな。
 お礼、いわなくちゃ。
「あ、有り難うございます」
「あら。目が覚めたわ。良かった」
 優しく微笑む蒼の瞳。外人のナースさんだ。珍しい。
 心なしか私の夢に出てきた人に似ている。うり二つだ、気のせい。気のせい。
 朝ご飯は大切だこんな質の悪い幻覚まで見てしまうんだから。
「みんな心配していたのよ。あなた全然目が覚めないんだもの」
 優しく髪を梳く手は、繊細な細工みたいだった。暖かさと弾力性でなんとか人間の掌だと理解できる。
「お。目が覚めやがったか」
 空気が震える程の声。無骨そうな看護婦さんが来た。
 昔の西洋の騎士が来ていそうな鎧を着込んで。最近の流行なのかもしれない。
 だって私はマナからも『流行に疎いんだから』と太鼓判押されている。
 鎧みたいな格好でどう見たって男の人だけど看護婦さんだ。そうなんだ。人を見た目で決めつけるのは良くない。
 見た目以前の問題とか思ってもいけない。
 そう、私。そう言う疑問はシャットアウトよ。
「覚めましたー。よかった。もう二度と目が開かないんじゃないかと」
 彼……じゃなくて彼女かもしれない人の背中辺りから顔がひょっこりと出てきた。
 なんとか青年と言って良いほどの顔つきで、ゆっくり萎んでいく風船のような緊張感の抜けたしゃべり方。
 整っている方なのかもしれないけれど、その顔はユルユルで頼りがいがあるとは言えない。白い服は神父様が来ていそうな重そうな法衣。
 かすかに私の記憶を掠める既視感。
「何怖いこと笑顔で言うの。謝りなさい」
「ご免なさい」
 妖艶な彼女の高圧的な口調に反発もせず、ふにゃっとした声で素直に謝る。
「いいえ。女の子を傷つけた代償はその身を持って償わなくては。その程度では軽い、軽すぎるのよ。平謝りで謝って彼女のしもべになると誓いなさい」
「ええぇぇっ。そ、そこまで!?」
 金髪の女性が人の良さそうな青年を虐める。誰も口を出さない。
 純白の法衣がぐりぐりとヒールで踏みにじられる姿は哀れでもある。
 コミュニ、ケーション。かな?  
「ん……っ」
 重たい頭と半身を起こす。服は、今朝出かけたときのまま。少し汚れがあって皺が出来ていたが、着れないほどではない。静かに地面に降りてみる。
 ずしりと重力が躰に掛かるけれど。うん、大丈夫みたいだ。
「シャイス。民間人は入れないでってお願いしておいたでしょ。何でこの子が居るの? もう少しで死ぬところだったわ」
 ぎゅ、とホッソリした指先で私の手を握ってくる。ちょっと痛い。
 幻覚は続くのに痛覚、あるみたい。私の意識は全然覚めていないようでやり取りは続く。
「そ、そんなこといわれましても。私だって他の仕事もあるんですから、そう言うコトは普通門番さんにお頼みして下さいよぅ」
 情けない声を上げてシャイスと呼ばれた彼が上目遣いに金髪の彼女を見る。
 微妙に脅えた瞳は、何かを恐れているような感じでもある。
「アラ。お頼みしたうえに言ってるのよ。いわば二重の防衛って奴? なのに門番と言いアンタと言い使え無いったらないわ。見なさいよ、この子脅えて口もきけないのよ」
可哀想なシャイスとか言う人は鳩尾辺りを肘で何度か力一杯ねじ込まれて、半泣きになっている。反論も出来ないほど痛いらしい。
 取り敢えず心の中で答えておくが、脅えていると言うよりも、ただ単に、口が挟めないだけです。確かに口がきけないと言えばきけなかった。私の唇は意思とは関係なく、息をするとき以外は接着剤で貼り合わせられたみたいに動かない。今の状態だって聞きたいのに、言葉が出てくれない。酷い幻覚だ。私は何かの病気なの? それともここは地獄?
 それとも、それとも……怖い。その先を考えてしまうのは、怖い。
「あ、あの。その方は、ですねぇ。えっとーなんといいますかぁ」
 自分の鳩尾辺りを両掌で押さえ、げほげほと苦しげな咳をした後。
 シャイス、さんは自分の頬を掻き、もの凄く言いづらそうに口を動かして、私、それから周りを見る。余程口から出したくないのだろう。機械みたいにその動作を五回位繰り返す。
 煮え切らない彼の様子にいい加減イライラしてきたのか。金髪の女性が、二度ほど自分の肘を掌で叩く。軽い警告のようだ。
 要約すると、『早く言え』かな。さあっ、とシャイスさんの血の気が引くのが分かった。
 男の人にしては白い肌が血の気の薄れた病的な白さになる。
何時もあんな風にして虐められてるんだろうか。可哀想。
 よく知らない人だったが、私は同情を覚えた。
 彼は辺りをきょときょと見回した後、ぱくぱくと口を数度動かす。隠れたいのか、服についていたらしい白いフードを目深に被った。
 確かに私の居るベッドの下を除き、隠れる場所は全然無かった。病院だとしても、普通は花瓶やカーテンの一つもあるのにそこには何もなくて、怖いほどに生活感がぬぐい去られている。
 シャイスさん。悪魔のように笑う彼女から逃れたい気持ちは分かるんだけれど、フードをスッポリ目深に被ったその姿は怪しい魔術師みたいだ。黒じゃなくて白いってところがちょっと変だけど。
「シャイス。報告は聞いた。その者がそうか」
 冷たい泉の底を思わせる澄んだ声と共に扉が開く。カツ、硬質な足音が響いた。何も敷いていないその床は小さな歩みでも大きく反響してしまう。
 僅かに灰色がかった濃紺の鋭い瞳が、シャイスと呼ばれたその人と、私を射抜く。
 ドアの前に佇むのは、氷柱のような雰囲気を持った女の人。細い腕は腰に当てられ、ノブに添えられた掌は、革の手袋で包まれている。 
 開いた扉の向こうに、赤い……絨毯? 
 あの悪夢で見た物と、同じモノ。
 やっぱり今続けられている光景は、悪夢の続き。あの、地獄よりも酷い悪夢の続き。 
「あ。プラチナ様。あの、そうと言えばそうと言いますか。違うと言われれば違うかなという疑念はぬぐえません。はい」
 背筋を真っ直ぐに伸ばし、シャイスさんが口を開く。よっぽど緊張しているのか、私でも呆れる程の曖昧な答え。プラチナと呼ばれた彼女は、彼の言葉に微かに眉間を寄せた。
 名前通りの長い銀髪が三つ編みに結われて彼女のしなやかな背を撫でている。
 太ももまで垂れ下がる髪。ほどけばかなりの長さになるだろう。
 ほっそりとした身体を闇夜に似た紺の服に包んでいる。私よりも年上に見えるが、そんなに酷く離れている訳じゃないだろう。十七とか、十八とかその位の年齢のハズだ。
 細面の顔立ち。柔らかそうな銀の髪。
 磨かれた宝石を思わせる灰色がかった深い蒼の瞳。
 均整の取れた、躰。
 アンティークショップに大事に飾られている人形みたいだった。
 笑うときっと可愛いだろう。年相応の表情になるはず。
 でも、顔に表情らしい表情は浮かばない。ただ冷たい、凍える眼差し。
 首筋がぴりぴりする。彼女の纏う空気は、鋭い刃だった。
「どういう意味?」
 いきなり入ってきた彼女に驚いた様子や、憤慨した様子も見せず、金髪を掻き上げて美女が笑う。こんなにも冷え込む空気なのに。
 慣れているのか、余裕のある笑みが浮かんでいた。
「そう言う意味だ。そろそろ時期だ。我が軍も人材不足が激しい」
 彼女の疑問にシャイスさんを見て、プラチナと呼ばれた女性はふっ、と溜息をついた。
 瞳には嘲るような色。彼を見下している?
「んん? つーと、あれがこれか」
 大きな看護婦さんが……もう現実逃避はやめにしよう、私。
 これが悪夢の続きだとすれば逃避したって意味がない。
 甲冑を纏った大柄な体。戦士の見本みたいな男の人。二の腕なんて私の三倍位ありそうで男の人。と言うよりも『男』と言わんばかりの肉体。多分私が腕にぶら下がっても平気だと思う。掌もやっぱりビッグサイズ。頭位スッポリ収まってしまいそうな錯覚に陥る。
 その大きな親指で私を示し、彼は肩をすくめた。
 私がこれなのは分かるけど、アレって何?
「そうだな。そう言うことになる、と思ったのだが」
 プラチナって人が、チラリと私を一瞥する。
「…………」
 私は一言も口が開けなかった。彼女の瞳に脅えたんじゃなく。
 自分の取り巻く状況と、この状態が分からない。
 疑問がグルグルと高速回転してしまって、先に何を口にすればいいのか分からない。
「ふむ。次の候補者はお前か。ふう……外れたか」
 そんな私を尻目に、彼女は斬るような口調で。いや、ようなじゃなくて本当にザッパリと私を言葉で切り捨てた。侮蔑混じりの瞳。
 本人が意識していなくても、完全に私を見下した、そんな目だ。
 はず、外れ!? 何だか知らないがむかっと来た。人権侵害のような気がする。
「は、外れって……なんですか」
 唇が動いた。私の声とは思えないほど、低い声。
 なけなしの私のプライドが傷ついて、喉からは疑問の前からその言葉。
「そーよ。こんな可愛い子に向かってハズレ!! プラチナ、あなた目が悪くなってるわ。
 むしろアタリよ。あ、た、り。可愛い方じゃないの」
 ぎゅ。と弾力ある大きな胸が頬に押し付けられる。手加減はしてくれているようだが、ゆっくりゆっくり肌色の沼地は私の唇まで押し寄せてくる。
 柔らかくて大きいのはともかく。
 ち、窒息する!! 
 ばたばたばた、数度腕を振り回すと、彼女は『つまんない』と口を動かして思ったよりも簡単に解放してくれた。し、死ぬかと思った。
「そう言う意味ではない。浮つくな」
 空気が足りなくてぼんやりとしている白い思考に、プラチナさんの厳しい声が割り込んでくる。
 割り込むと言うより斬り込んできた。
 ――言葉の斬り込み隊長だ。人間頭の血の巡りが悪くなると要らないことを考えるモノで。私は一瞬そんな馬鹿なことを考えた。
 顔に考えが僅かに浮き出てでもいたのか、タイミング良く、じゃなく。タイミング悪くプラチナさんがこちらを睨み付けてきた。うぅ。ゴメンナサイ。
 心の中で反省する。やっぱり声に出してないのに納得したように彼女はこちらを見ることを止めた。
 言葉だけではなく、勘の鋭さも持ち合わせているらしい。うかつに変なことは考えられない。
「あらぁ。じゃあどういう意味よ。お姉さん詳しく知りたいなぁ」
 金髪の女性が妖艶な微笑をたたえ、同性なのにも構わず自らの色気を前面に押し出す。
「アニス・レマンド。歴戦の強者が口にする言葉か。それが」
 プラチナさんは、濃厚な色香をはねのけるように、腕を一閃させた。
「そうよ。口にする言葉よ。あなたよりも年上なのは変わらぬ事実。違う?」
 一瞬、アニスさんの言葉に彼女が気色ばむ。
 空気が重くて押しつぶされそうなのに、アニスさんは余裕たっぷり。緩やかなウエーブを描く自分の金髪を指先で弄んでいる。
 こ、これが女の戦い。修羅場という奴なんだろうか。
 息苦しくて呼吸困難に陥りそう。シャイスさんはというと相変わらず深く深く被ったフードを押さえたままオロオロしているだけだし、大柄な男の人も油を注ぎたくないのか一歩も動かない。動けないのかもしれないけれど。
 ぎっ。プラチナさんの唇から鈍い音。強く、奥歯を噛み締めたらしい。
 口元を悔しそうに微かに歪めた。初対面の私にも分かる、彼女が怒りを抑え込むのが。
「この前も言っただろう。我らの手勢が少なくなってきたと」
「そうね。確実に私達の味方、一日ごとに減ってるモノねぇ。
 あーんもう。門番も役立たないし。私好みの強い男居ないんだから」
 押し殺した声を余裕たっぷりに堪能し。今度はプラチナさんの言葉に同意するように息をつく。
 シャイスさんが寂しげに座り込み、逞しい体躯のあの男の人が自らを指で指してアピール。
「そして私好みの強い男は、美男子でないとダメ。可愛い子は別だけど」
 その反応を予想していたかのように、アニスさんは綺麗な微笑みを浮かべた。
 言葉に項垂れる計二名。笑うアニスさん。まさに悪女。 
「真面目に聞け。そのため、時期が来たと判断が下った。候補者の補充が必要だとの命だ」
「ふーん。サリアの奴らはどうすんのよ。砦つくって張り切ってたんじゃない?」
 僅かに眉間に皺を寄せて腕を組む。そのために深い谷間が強調されるけど彼女は気にした様子も見せない。でも、次のプラチナさんの言葉で余裕を見せていた彼女の顔が強張った。
「既に墜ちた。半端な駒は捨てる」
 突き放した台詞。辺りが絶句する。
 よく分からない、何かよく分からない。
 でもこの人達は大変で、そしてプラチナさんはとても、酷いことを言っている気がした。
「捨てるねぇ。また気軽に言ってくれるわね。人材足りない癖に」
 やはりそれは良い台詞ではなかったらしい。アニスさんは苦々しく吐き捨てる。
 整った顔が崩れてしまうほどの、渋面。
「足りないから補充を求めるのだ。当てはある。今回ばかりは、外れたようだが」
 また、プラチナさんが私を見た。瞳に侮蔑はなく、今度は深い苦悩の色。
「…………ホジュウ」
 ぽつり。反芻した私の言葉はか細くて。誰にも気が付かれなかった。 
「召還するのね。お勝手なこと」
 金髪を弄びながらだが、言葉は刺々しさを増していく。私が真正面から言われたら、きっと固まって、反論できなくなってしまうような、鋭い目。
 怒りが僅かに混じったその視線を、プラチナさんはそよ風のように受け流してしまった。
「その準備は整っていた。そして今日、僅かでも戦力を期待した」
 何故かシャイスさんがますます小さくなっていく。頭を抱えてカタカタ震えている。
「そうよねー。召還用の機材馬鹿にならないモノねぇ」
「しかし、この馬鹿者達はコトもあろうに手順を間違えた!!」
 びし、と白い指先がシャイスさんに向く。『ぎゃ』悲しい悲鳴が上がった。
 刺すような視線のせいではなくて、
「ふ、役立たず全力で発揮ね」
 と言いながらアニスさんがまたヒールでグリグリ背中を抉ったからだ。
 プラチナさんは顔に見合わず疲れ切ったような、気怠げな溜息を吐き出した。
「人材不足も甚だしいとはいえ、シャイスとフレイにやらせたのが間違いだった」
 こめかみに指先を当て、苛立ちを紛らわせるように靴底を僅かに床に打ち付ける。
「あー、そりゃマズイ。シャイス&フレイの組み合わせって言やぁ、『絶対に組ませてはならない人』の上位も上位。優勝に輝く最悪な取り合わせだな」
「やだ。私達の所そんなにせっぱ詰まった人材不足だったの!? よりによってこんなの使わなくても!!」
「こんなの」
 更に落ち込むシャイスさん。今までのやり取りで分かったが彼の扱いは何時もぞんざいみたいだ。ここまで見事に邪険にされてると、肩を軽く叩いて励ましたくなってくる。
「で、その失敗と言うことは召還すらダメだったのね」
「いや、召還自体は成功した」
「じゃあ、すぐ送還された?」
 白い指を口元に当て、アニスさんが小首をかしげる。
「定着もしている。それは問題ではない」
「何が問題なのよ」
「この娘が問題なのだ!!」
「えぇっ!? 私ですか!?」
 よく分からないけど濡れ衣を着せられて居るっぽい。問題なんて特に、起こしてないと……思う。
「召還の最中迷い込んで邪魔でもしちゃったの? それは門番とこの役立たず男が駄目なだけで」
「だから、この娘が候補者なのだ!! ダメも何も無いだろうこれはっ」
 長い三つ編みが猫の尻尾みたいに跳ね上がる。プラチナさんが声を荒らげた。切れたらしい。
 コウホシャ。
 候補者って何ですか。
 辞書的に考えてみる。候補者。つまり選ばれた人。候補。何かに選ばれる対象。
 アイドル候補者とか、選挙の人とか、抜擢される可能性のある人。
 平凡な私は芸能界への書類審査を出した覚えもない。とはいえ、こんなよく分からない場所での選挙運動とかもした覚えがない。未成年だし。
 じゃあ、私は何に選ばれてしまったんだろう。
「いやぁん。今度の子はこの娘!? やだ可愛い。私この娘気に入っちゃった」
 耳元を貫く甲高い声。黙考は強制的に停止された。
「あう。く、くるし……」
 先ほどと違って今度は容赦のない抱擁。この人はやはり細腕に見合わない腕力の持ち主で、私の躰が少しぎしりと軋んだ。いきなりの圧力にあちこちが悲鳴を上げて、ドコが危ないのかは分からない。
「止めろアニス。この娘の骨が折れる」
 静かな静止の声。助かった。
「やっ、やだ。ご免ね。平気?」
 圧迫が薄れる。ふ、と一瞬気が遠くなりかけたけど頑張って持ち直す。へしゃげそうになっていた躰はギリギリ大丈夫。
「へ、へい……き。です」
 なん、とか。心の中で付け足す。 
 今日は何だか死にかけてばかり。
 今日? 本当に?
 心が問いかける。今は本当に今日?
 今日だよ、なんて確証が出来なくて答えられない。押し寄せる不安の波。
 もう、十日。半年。私が知らないだけで、もしかしたら十年経って居るんじゃないの。
 倒錯的な考え。でもこの場所は更に倒錯していて、私は時間のすすみも日の傾きもよく分からない。今が朝なのか、夜なのか。永遠の闇が外に広がっているのかさえも。
 確かめたい。もう、知らないままなんて我慢出来なかった。
「候補者ってなんですか。あなた達は一体何なんですか。私はどうしてここにいるの、教えて下さい!!」
 言葉を絞り出す。今の私の気持ち、これは夢じゃない。
 薄々分かってきている。だって夢にしたって長すぎる。悪夢なのに終わりがない。
 永遠に終わりのこない悪夢。
 夢だとしても私の手で、私の言葉で続きを進ませなければいけない。
「ちょっと。プラチナ、シャイス? まさか、この子、なんにも」
「そうだ。何も知らない。
 何も知らない。この馬鹿者達が召還したこの娘を逃したからな」
「シャイス!! あんたって奴はどうしてそう使えないのよ」
 アニスさんが、絞め殺しそうな勢いでシャイスさんの襟元を掴む。
「あうあうあう。つ、つい気が緩んで」
 本当に絞まっているらしく、彼は声をくぐもらせ、呻いた。
「し、質問に答えて下さい。わ、私、私……
 悪魔とか魔王とかそう言う儀式の生け贄になるのは嫌ですっ」 
  このまま放っておけば死ぬかもしれないという焦りと。そして話がよく見えなくて、私はぐるぐる回っていた言葉を吐き出す。
『…………』
 沈黙。
 アニスさんが半眼で古いオルゴールのように、ぎこちなくシャイスさんを見た。
「は? 何。え、シャイス。どーゆーことよ」
 僅かにドスのようなモノを効かせた彼女にシャイスさんは少し怖じ気づきながら、
「こういうコトで」
 手に持ったそれをはめる。振り向いた彼の顔は。
「ああぁぁぁぁっ!! あの時の、死に神さん!?」
「は、はい」
 私の悲鳴に素直に死に神……の面を着けたままシャイスさんが頷いた。
「あの、反射神経が無さそうな死に神さんはあなただったんですか!?」
「はい。って……そんな酷い」
 尋ねる言葉に彼の声が僅かに滲んだ。
 はっ。確かに酷かったかもしれない。思わず本音が口に出ていた。
 明るい場所でよくよく見てみると、その仮面は木製で荒削りのためか、赤い塗料が所々塗れてなくてかなりのムラがあった。
 私を一番驚かせた口元から滴った滴は、この仮面のものだったみたいだ。歯の形に作ってあるおうとつにまだ塗料が生乾きで残っていて、滴り落ちそうになっている。
「その、人を馬鹿にした趣味悪い仮面は何」
「し、新作の召還形式にどうしてもこのお面が必要で。そのためになんか勘違いとか色々」
 見た目通りあまり通気が良くないのか、苦しげに吐息を吐いて仮面を外す。
 引っかかりそうになったフードも一緒に取られた。やっぱり彼は声の通り人の良さそうな顔をしていて。プラチナさんより濃い色の銀髪。灰色がかった短髪が静電気のせいでぼさぼさと跳ねていた。きっと図書室や図書館であったのなら、お友達になれそうだ。
 きっと気が合うに違いない。でも、この場には不釣り合いな笑顔と緊迫感のなさ。 
「当たり前よ!! た、だ、で、さ、え。陣が不気味だってーのに、そんなモノ付けたのに囲まれればフツー逃げるっての」
 やっぱりアニスさんの声が更に険悪になった。蛇が鎌首を持ち上げる、そんな緊迫感。
「ええ。もう、反撃されまくりでした」
 緩んだ表情でのんきに笑う彼。
「笑うな反省しろ役立たずの考え無し!」
 苛立ちが頂点に達したらしく、蹴りではなく今度は拳が飛んだ。響く鈍い音。
「う。でもでも、フレイと一緒に考えたんですよ。どうして私ばっかり」
 頬を押さえて灰色の瞳を潤ませる。意外と頑丈なのか、思ったよりも彼女が手加減していたのか。とにかくそんなに痛手を被った様子はない。
「一蓮托生。反省無く人になすりつけるなんて、最低よ。アンタも同罪なんだから反省しなさい反省っ」
 腰に両手を当て、威嚇気味に唸る。豊かな金髪が揺れた。 
 流れるような二人のやり取り。ただただ、風に吹かれる紙袋のように流される私。
 じゃなくて!!
「だから、いったいこれはどういうコトなんですか!?」
「つまり、ですね。えー。非常に申し上げにくいことに」
 どういう入れ方をしているのかは分からないけれど、懐へ仮面を収め、失敗を隠す子供がするような仕草で彼が指先を何度か絡め合わせた。
「もういい黙れシャイス。お前に任せると時間が無駄に流れていく。
 つまり、娘。お前は私達の世界へと召還されてきた。
 それは何となく分かるのだろう」
 プラチナさんが腰に片手を当て、気怠げな顔で嘆息する。長い銀の三つ編みは腰の辺りでゆったりと優雅に揺れている。
 彼女の唇から滑り出た言葉。
 怖くて考えられなかった答え。放り投げていたパズルのピースが勝手に集まって、正解を映し出す。それは、現実には起きて欲しくない事。
 まだ信じたくなくて、私は彼女に助けを求めた。
「やっぱり。ユメ、じゃ無いんですか。
 私、死んじゃって地獄に堕ちたんじゃないんですか」
 視線で助けを求めた。望んだ答えが欲しかった。
 だけど返ってくるのは感情の読めない瞳。整った眉は僅かにしかめられている。
 思案するように一拍ほど沈黙を置き、
「そうだ。お前は死んではいない。しかし、地獄よりも悪い場所であることは確かだろう」
 口を開く。彼女の答えは冷酷な裁判官みたいに簡潔で、残酷だった。 
 そうだよ。確かにここは地獄なんて生ぬるい場所じゃない。何もない所から炎が出たり、ライオンまがいの猛獣が普通に出てくる空間。
「だが我らの世界では誉れと思え。お前は勇者候補となったのだから」
 ゆうしゃこうほ。
 頭の中でその言葉が飛ぶ。
 ユーシャコウホ。
「我らの軍は現在劣勢だ。そのために新たな勇者候補が必要となったのだ」 
 本の中で幾つも見た勇者のお話。勿論異世界召還とかは良くあることで。
 自慢ではないが読書が大好きな私は、本に良くある理由を考える。
「そ、それは。その、私、前世が勇者だったとか」
 召還王道パターン一。勇者が転生したのが実は私。といういかにもな理由。
「違う」
 あっさり撃沈。そ、そうだよね。そんなわけないよね。
 他には、と。
「じゃあ、実は失われた王国の王族とか」
 王道パターンその二。何で別世界なのに王女というのは突っ込んではいけないところらしい。本の中では良くある話。ありえないとは思うけど駄目で元々言ってみる。
「それも違う」
 やっぱりダメみたい。それじゃあ……
「だったら、私は世界をおののかせるような凄い力が眠っ」
「眠っていたりはしない」
 言う前に言葉が塞がれた。うう、難しい。正解したらしたで嫌だけど、私の持つありとあらゆるパターンを答えてみせる。何だかそれ気味だけど次のパターン。
「潜在能力を感知してそれに目を」
「付けても居ない。お前はタダの、平凡な。普通の人間だ」
 また途中で言葉が……。今、なんと。
 やっぱり私は、普通の、平凡な、人間だ、って。言ったよね、この人。
「……だったら何で喚んだんですか」
 口をつく最大の疑問。一般市民なんて呼び出しても全く役に立たないと分かるはずなのに、なんで。私と同じ事を考えていたみたいで、アニスさんも腕を組んで渋面になる。
「そ、そうよ。何のために喚んだのよ」
「それはこの役立たず男を恨め。お前が呼ばれたのは、本当に、正真正銘の……偶然だ」
 率直かつ非情な答え。後頭部を金物で殴られたみたいに頭の中が真っ白になって、グワグワと妙な音が鳴り響く。頭痛が、する。
「偶然で私、喚ばれたんですか!?」
 一瞬走った目眩を押さえ、吐き出した言葉が裏返った。
 偶然、事故。初デート当日に異世界から間違って召還? 
 最悪だよ。車からぶつかられるよりも最悪だ。
「ご、ごめんなさい。調合とか配合とか詠唱とか色々間違えて」
「その時点で普通失敗だと思って一時停止するモノでしょ」
 アニスさんの言葉も、おどおどしたシャイスさんの台詞も、虚ろに聞こえる。
「悲運だと思うが、宿命だ。この世界のためだと」
 冷徹な目の前の少女の声。私の、私の何かが切れた。ぷっつりと。こんなに気持ちよく切れるのは生まれて初めてかもしれない。
「この世界がどうなろうと、勇者もどうでも良いの」
 そう。どうでもいいの。私はこの世界がどうなったって構わない。
 知らない世界なんてどうなったって知らない。興味なんて無い。
 冷たい女でも冷血でも何とでも言えばいい。もう、もう。堪えられない。
「貴様、何を」
 怒り混じりの蒼い瞳が私を向いてる。でも、そんな冷たさなんて今の私には炎前の薄い氷。頭の中がグチャグチャで、脳の芯が熱されたような熱を持っている。瞼が熱い。
 理不尽な言葉に。勝手な言いぐさに、涙がにじむ。
「私にとって、最初で最後の大チャンスだったんだから、早く帰して!!」
 吐き出してやる。私の魂の嘆き。
 一瞬、呆気にとられたように青銅色の瞳が開く。そう、そうだよ。私にとって初めての恋。実らなくても実っても、きっと一生残ること。
 それが、それが。知らない世界の、知らない勇者を呼び出す儀式、その些細な間違いによって壊された。
 マナも応援してくれたのに。せっかくせっかく、大好きな彼に誘って貰えたのに。
「この、黙っていればぬけぬけと。我らの気も」
「待ちなさいプラチナ。彼女の怒りはもっともよ。私達に反論する権利なんて無いわ」
「……しかし」
 今まで聞いた事のない、冷静で冷たいアニスさんの言葉。それは酷く落ち着いていて、混乱気味の私が惨めに思えるほどだった。
「勇者って、駒って何ですか。話を聞いていると使い捨ての道具みたい」
 いつもは固まっている唇は、炎を近づけられたロウみたいに今は柔らか。
 どんどん言葉があふれてくる。やりきれなさが心を踏みつける。
「そうだ。勇者候補とは道具なのだ」
 滲んで視界は見えない。淡々と、本を朗読するような変わらない声音。
「候補。つまり本物の勇者が現れるまで、候補者は候補者でしかない」
「それ、どういうことですか」
 刹那、湧き上がった強い疑問に少しだけ熱が引いた。
 視覚を取り戻すために浮かんだ涙を指先で拭う。薄く戻った視界には、先ほどと同じように腰に片手を当て、眉すら動かさないプラチナさんの姿。
「我らの世界では戦うという手順の前に、人が足りない。その足りない部分を異世界から召還したモノでまかなうのだ」
 つまり、つまり。それは。彼女が言っているそれは。
「勇者を召還するんじゃなくて。使い捨ての兵士を召還してるってコトなんですか?
 自分の世界以外の人を勝手に引き込んで、戦わせて。それで」
 それで。戦って、戦って、力が足りなくて死んだ人はどうなる。自分の疑問にぞっとする。
「そうだ。それがこちらの世界の常識であり、最終手段でもある」
「そんな、勝手すぎる。勝手じゃないですか。勇者が見つかるまで、本当にみんな欠けた駒みたいに簡単に捨てちゃうんですか!? あなたは、あなた達は、それで。良いんですか」
 自分の胸元に当てた手が、いつの間にか強く服を掴んでいた。私の声に、アニスさんは顔を背けなかった。僅かに唇を噛んで俯く。
「そうよ。あなたには信じられないだろうけど。それが私達の世界の常識。
 私だって納得してる訳じゃない、けれど本当にそうするしかないって、ここにいると思い知らされる。それ程に、この国の手勢は潰されすぎてる」
 否定はなかった。でも完全な肯定はくれなかった。
 この世界での常識だと、彼女はそう受け入れている。仕方がない、と目が言ってる。
 幾ら否定的だとは言っても、プラチナさんと同じ意見。それが、ここの……常識?
「それに僅かにならば望みはあった。
 ここに来る、世界のモノは少しでも才能の欠片を持っていた」
 酷い言い方。酷すぎる。
 呼び出したのはそっちなのに、私がいけないみたいな言い方だ。
「私は、ないんですか。全然、無いんですか。こんな、知らないところで。
 使い古されて、投げ捨てられるんですか」
 胸元から外し、握った掌に爪が食い込む。血が滲んでも気にしない。そうしてないと私は、この人に何をするか分からない。激情に任せて人を殴るなんて嫌だった。
「帰る手段はあった。本来ならすぐにでも返すところだ」
 あった。過去形?
「今は、無理なんですか」
 シャイスさんから何か薄い本を受け取り、私に答えた。
「無理だ。材料を集めるのに一週間はかかる。それに」
 一週間。そんな……長すぎる。
 そして一瞬。躊躇うように彼女が自分の腕を掴んだ。
「それに?」
「儀式用の宝珠が足りない。入手に一月はかかる」
 私の催促に重い唇を開く。
「一ヶ月……!?」
「呪うなら呪え。この無能な男。無慈悲な神。無情な国。私を」
 瞳を閉じてシャイスさん、自分を示す。
 慌てる彼の様子を余所に続く言葉。
「悪夢だ、夢だと思うのもお前の自由。
 刹那になるか永い夢になるかは分からないが、死ねば永遠の安らぎは来るだろう。
 今のこの世はとても不安定な状態にある。何時ここが危うくなるかは分からない。
 お前が抵抗しないのであれば、この城が落ちる時、それはお前の安らぎが来る時だ」
 初めて彼女が微笑んだ。冷たくて何処か儚い、寂しい笑顔。
 永遠の安らぎ。私は、私はそんなの。いやだ。
 全部諦めて全部投げ出して簡単に楽になるよりも、生きて戻って、現実を見たい。
 夢の続きじゃなくて、今の続きを見たい。
「死にたくなければ生きろ。生き抜け。一ヶ月、逃げても隠れても戦っても構わない。それはお前の自由だ。事態がどう転ぶにしろ、お前が生きていれば一月後に必ず帰ることが出来る」
 瞳を開いて私を見据えた。銀の鋭い視線。
「やり残したことがあるなら、故郷が恋しいのなら。生きろ」
 かけられた言葉は針金のような鋭くて、冷たい。
「あなたは。あなたは……あなたにはそんなに権利があるの?
 知らない人を駒みたいに扱って、壊れた道具みたいに、捨てる権利。
 あなたは、一体。何なの」
 私の疑問に彼女は躊躇わなかった。用意されていたように、スムーズに小さな唇から言葉が吐き出される。
「私も駒だ」
 息が詰まる。平然とそう答えられる彼女が怖かった。
「そう、私もヒビが入れば捨てられる駒。その駒が他の駒を左右するだけ。
 どちらにせよ、戦力を放出しているここが墜ちればいつかは世が滅びる。
 言い逃れはしない。なじればいい。最低の、悪人だとな。
 確かに私は反論できる立場ではないな」
 そんなこと言われて、なじれるほど私は冷静さを失っていたわけでも、理性が消えそうだったわけでもない。そんなこと、いわれたら……怒れない。
 怒っても、なじっても、罵っても。きっと、私の望みは叶わない。
 彼女を怒鳴りたいわけでも、誰かに当たり散らしたいわけでもないんだ。
 ただ、私は。
「…………私、私は。帰りたいの」
 そうだよ。帰りたい。今すぐ、帰りたい。
「帰りたいよ」
 足から力が抜けて、座り込む。子供みたいに私はぐずりはじめた。
「お願いだから、ここから、還して。お願い。お願い、です」
 ぽたぽたと、地面が濡れていく。唇が震えて、飲み込めない嗚咽が漏れた。
 心からの懇願に、答えは返ってこなかった。ただただ、その空間に私のしゃくり声と不気味な静けさが残る。
 皮肉なことに、その私のお願いが。敵わなかった言葉が。
 地獄よりも悪いこの場を、現実だと知らしめた。
 沈黙を持って。

 

 

 

 

 

 

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