一章/地獄よりも

 

 

 

  
 走って走って走り抜ける。軽快な駆け足は、そう経たず緩やかな歩みに変わっていく。
 ぜえぜえと息が切れる。運動も何もしていない私にとって、疾走が永遠に続くわけがない。まして気流を掴む鳥のような走りなんてもってのほか。
 まあ、つまりそう言うことで。限界らしかった。
この場が夢や地獄だとしても元々の身体能力は変わらないらしい。
 がくがく震える足を押さえるため、ぽすんと柔らかな地面に座り込む。
よく考えるとバッグがもてたり扉を押し開けたり、物を掴んでぶつけられたりして居るんだから、実体がない訳ではない、のかな。ようするに……幽霊みたいに透き通ってたりはしないみたいだ。
 もしかしたら、ホントは透けてて血みどろで大の男の人も悲鳴上げて逃げ出すほど怖い姿なのかもしれないけど、今の私にはそれを確かめる術がない。
 ああもう。何が起こってるんだろう。
死んじゃったのかとも思うけど、胸の痛みは本物で。この息苦しさだって死ぬほど苦しい。全力で走った足は所々悲鳴を上げている。
 どう考えたって生身の痛さ。死んでまで痛覚があるとしたら、神様は残酷で悪趣味だ。
「ここ、ほんとうに、ドコ」
 辺りを見回して、がく、とうなだれる。無我夢中で全力疾走して、更に恐怖までくっついてきた物だから掛け値無しに何にも見ず、無茶苦茶に走ってきてしまった。
 戻りたくもないけれど、さっきの場所に戻ることすら出来ない。
 完全なる遭難。迷子。
 この年で。仕方ないけれど。しょうがないけれど。迷子って響きはちょっと嫌だ。こんな事態でもそんなことを少し思う。
 しかしここは本当に変なところだ。落ち着いてよく見ると辺りには真っ赤な絨毯(じゅうたん)が敷き詰められていて。大理石のような乳白色の壁には銀の燭台に蝋燭が灯っている。
 本を読んで、思い描け、と言われても無理な場所。たとえるなら、お城と言った方が適切だった。
 でも部屋の一角で繰り広げられてるのは死神の怪しい儀式。
 どういう所なんだろう、更に自問自答したくなるけど無駄なこと。だって私はその答えを知らないのだから。
「私、落ち着き足りないのかな」
 思わず言葉が漏れる。普通なら見落とすことの無いような場所を私は見落としていた。
 こんな時に落ち着け、という注文は無理なのは分かってるけど、もう少し観察力を付けられたらいいのに。
 そうしたら、もうちょっとマシな方法が思いつくのかもしれないのに。
 現状の私は、マシな方法どころかこの後どうしたらいいのか全然思いつかない。
 考えず行動したせいだ。慣れないことはする物じゃない。
 はぁぁ〜。我ながら涙が出るほど寂しい溜息。
 近場の部屋にはいるという、更に行き当たりばったりに方法もあるけれど。
 ……中で斬首刑とかしてたらどうしよう。
 考えすぎだ、と自分に活を入れたい。でも、今さっき暗黒の儀式まがいのシロモノを両目に焼き付けたばかりだ。次開いた部屋で人の身体がバラバラになって落ちていても可笑しくはない。
 何かをしないと次に進めないとは分かってるけど、勇気が出ない。
 悪夢か地獄かは分からないけど、私をあんまり困らせずにもっとスムーズにいけない物だろうか。下手なお化け屋敷より洒落になっていない。
気が付いたら膝を抱えて丸くなっていた。
 膝に額を押し付ける。場所は変わってもやることは同じ。進歩のない私。
 袋小路だけど角になるこの場では、私の姿は死角になるはずだ。
 地の利はきっとあちらにある。そんなに長い逃亡は出来ないだろう。
 どの位その場でそうやっていたんだろう。
 絨毯で音はかき消されているはずなのに、私は誰かの存在を察知する。
 もともと人見知りが多いせいで、人の気配には敏感だ。背中越しに視線を投げられただけでも居心地が悪くなってしまう。
 けど。それは居心地が悪いどころの視線じゃなかった。
 嫌悪ではなく、お腹の中を覆い尽くすような重たい恐怖。
 生き物として危機感を覚える。私の中にある野生を離れた人間に遺された僅かな本能。
 その生存本能が警報を鳴らす。 
怖い。素直に思う。
 逃げなきゃ。震える指先でバッグを掴み、私は息を殺した。
 監視やさっきみたいな死に神さんの一人や二人、頑張れば何とか出来るかも。
 奥歯を噛み、決意する。地獄行きは覚悟していたのに、私は掴まりたくないみたい。
 もう、既に罪人なら、二、三人位昏倒させたって構う物か。胸の内で呟かれるいつもの自分なら考えないようなヤケ気味の言葉。
壁にピッタリと張り付いて、慎重に息をする。薄い風にすぐ側にある蝋燭の明かりが僅かに揺れた。バッグを両手でしっかりと持ち、相手を調べようと少しだけ、少しだけ顔を出す。
 倒すの。頑張れば普通の私だってそれなりにやっつけられる……決意を固め、私は相手を見て。
  無理!!
 力一杯断言した。
 だって無理な物は無理だ。私は平凡な少女なんだし平凡な人間なんだから、出来ることと出来ないことがある。弱気なとか思うけど、向こうに立ちふさがるモノを見て勝つ気なんて全く起らなかった。もう一度、見る。
 それは紅い絨毯の上で太い四肢を場違いに踏みしめ、黄色い牙を笑うように見せる。
 黄色、とはまた違ったが赤みがかったオレンジの毛皮。たてがみは燃えるような朱色をしている。爪は真っ黒で、気が向いたようにその獣が絨毯を引っ掻くと布地どころか固そうな地面まで抉れてしまった。
 ライオンだ。ちょっとライオンじゃないけれど、本の中で言う所の合成獣とかそういうとんでもない奴だった。
 檻の中に入れられていたとしても近づきたくないのに、その獣は首輪も、更に紐も鎖も付けていない。放し飼い状態。その場所が気に入ったのか、どっかと横になって欠伸をしたりする。肉食だろうから多分私のことは気が付いて居るんだろう。
 それでいて驚異とも何にも思って無くて、体の良いおやつ位にしか思っていないためにあんなに無防備なんだろう。そう思われていることに気が付いて少しだけ腹が立つ。
 とはいえ、気迫とか気持ちで都合良く私が強くなる訳じゃない。 
 やっぱり無理!!
猫化の動物に近いが、気まぐれでじゃれられただけで私なんかミンチになってしまいそうだ。そうだじゃなくて確実になる!
更にこの場所は袋小路で、私はその場所に追いつめられた状態。に自らなったというか、大きな大きな怖い門番が道をふさいでいる。怖くて身体は動かないし、これでは前にも進めない。まさしく絶体絶命だ。人生始まって……じゃなくて終わってからこんなもの凄いピンチを迎えるとは思わなかった。人の一生は儚いと思っていたけれど、終わった後にこんな一大スペクタクルが待ち受けているとは夢にも思わなかった。
 白昼夢なら早く覚めて。
これを神様は自分の試練だと言うんだろうか。だったら人によって難易度を変えて欲しい。
 このままじゃ、私、魂ごと粉々だ。
 それともそれすらも運命っていうのかな。
 本当に泣きたくなる。
このまま突撃した方が良いんだろうか、そもそも私、武器なんて持っていない。
 どう考えたってあの鋭い爪と、顎と牙は私が千人束になってかかっても敵いそうにない位の威力を持ってそうだった。
 瞳を閉じたまま大型の猫は髭を揺らし、ふんふんふん、と辺りの匂いをかぐ。
 そのたびに、私の身体はびくびくびくっと端から見れば面白いほど痙攣(けいれん)した。
 私本人にとっては面白くないけれど。もの凄く面白くなくて危機的状況で死んじゃいそうな……死んじゃっているのかもしれないけれど、この場所で叩かれたり殴られたりしたらきっと痛そうなので嫌だ。さっきの全力疾走で身にしみた。きっとまだ私には痛覚がある。こういうときは、誰かを呼ぶのが良いんだろうけど、この場所で大声を出してまともな助けなんて期待できるのか。いや、そうじゃなくて大声なんて出したらこの大きな獣はきっと私を五月蠅いハエ、並の気軽さで叩き潰そうとするに違いない。そうに決まってる。 何かしなきゃ。バッグの中を見る。
 ああう。デートの用意しかしてないからまともなモノが入ってない! 当たり前だけど。
 催涙スプレーも、警報ブザー……は役に立たなさそうだけれど。相手の気をそらすモノが何にもない。もう全くと言っていいほど。
 香水でも持っていれば良かったんだけど。
 一生懸命策を練る私に対して周囲は無情だった。ふっ、と獣が立ち上がり顎門を開ける。 

  こちらを向いて。悠長に構えている場合ではない。
 あああああ、えっとえっとえっと。これじゃなくてこれじゃなくてこれでもなくてっ。
 慌ててもつれる指先。
 さく、さく、さく。分厚い床を抉ったとは思えないほどの静かな足取りでこちらに向かって歩いてくる。まずい、まずい。まずすぎる!
 えーあーうー。こ、これだ。これを投げつければっ。
 肌身離さずスケジュール帳と共に持っていた万年筆を取り出し、ノック……後ろの部分を素早く取り去って芯を引き抜き。後は何だか身体が勝手に動いた。
 力一杯大きな獣の額に向かって投げつけた。目標の獣は私のことを甘く見ていたのか、それとも大したことのない大きさだと思ってか、マトモにそれにぶつかる。
 そして、苦痛の呻きの混じった咆吼。私の狙い通り、昨日取り替えてまだ使っていなかったインクが、瞳に入り込んでしまったらしい。う、痛そう。
 窮鼠(きゅうそ)猫を噛む。とはこのことだ。追いつめられた私はおっきな猫に噛み付いてしまった。
 勢いで噛んだは良い物の、独りぼっちになって噛み付いてしまったネズミはどうなるか。
『グアァァァゥ!!』
 勿論猫の怒りを買った。プライドもやっぱり高いらしく、怒ってる。怒り狂っている。
 ど、どうしよう。 
 やっばり後先を考えないのはいけない。この後どうして良いんだろう。
 ぐっ、と獣の太い後ろ足が地を踏み、猫化特有の獣の優美な、それで居て締まった筋肉が震える。
 なに、なにかしないと本当に殺られる。怒っているその獣が、私を簡単にぱくりと頂くはずがない。散々いたぶって遊ばれて引き裂かれて食べられちゃう。
 そ、それだけは。それだけは嫌。
 抵抗しておいて虫のいい話だけど、嫌なモノは嫌だった。もうこうなれば取るべき道は一つしかない。ぎゅ、とただ一つの持ち物であるバッグを落とさないように握り直す。
「す、す……すみません。あな、あなたを倒して先に進ませてもらいます!」
 歯の根もあわなくて、全然格好なんて付かなかったけど。もうそれしかない。
 びし、と指先を突きつけ。考える前に転がるようにあわててその場から遠ざかる。
 耳障りな音が響いて。先ほどまで私の居た壁側が、綺麗な爪痕を残している。
 声なんて出したから突撃されてしまった。
『ウウゥウゥゥ』
 唸り声は。本気の、野生の獣が怒りを押し殺した、低い呻き。
 戦闘能力の欠片もない私なんかに反撃を喰らったから、彼(?)のプライドが思ったよりもズタズタに引き裂かれてしまったらしい。目を瞑ったままだけど、その大きな体から発される強い敵意が私の身体を恐怖に震わせる。
 目が合っていたら、多分私は動けなかった。それ程に強い、殺意だった。
 逃げちゃ駄目。私は震える足を踏ん張って、身体の重心を出来る限り動かしやすいように持って行く。何時も上手くいかないけれど、ボールを受け取るみたいに、素早く対応できるように。
 本能が警報を鳴らさない限りの間合いを開けて対峙する。私が後退れば向こうが動き、私の本気を感じ取ったのか少し動くとあちらが下がる。一進一退。
 さっきみたいに相手は気を抜いてくれなかった。目つぶし攻撃が余程身に応えたんだろう。目が未だに見えていないことを考えると、当然と言えば当然だけれど。
でもこれじゃきりがない。幾ら何でもこの目つぶしが長時間効果があるとは思えなかった。 
 ……そうか、この獣。視力が回復するの、待ってるんだ。それなら、納得のいく行動。
 だとすると相手の知能はかなり高い。早く何か行動を起こさなければ、私はもう手の打ちようが無くなる。『押せ押せGO-GOよ!』場違いなところでマナのアドバイスが頭を掠める。でも、そうだ。今は押さなくちゃ。
 マナは違う意味で言っていたけど、今の私は押し戦法あるのみ!
 勝率が低いなんて気にしていられない。どうせこのままだと勝率どころか勝負にもならないんだから。
 大きな獣を相手に、私が無謀とも思える決意を固めたときだった。
『ギャン!?』獣の口から、悲鳴が上がった。巨体が一瞬持ち上がり、凄い早さで横に滑っていく。壁に叩きつけられ、横倒しになる。絨毯のめくれた床にひび割れた壁の破片が落ち、甲高い音が反響する。
「え……」
 驚きのあまり大事なバッグを落としそうになったが何とか堪える。
 な、なにがなんだか本当に訳が分からない。
 疑問を口にするまでもなく、答えが返ってきた。
「ほほほほほほっ。私たちの城で暴れるなんて良い度胸だこと。
 それに民間人まで巻き込むなんて、五体満足でいられるとは思わないでね。
 悪戯が過ぎるわよ、猫ちゃん」
 美女、といって差し支えない綺麗な人が金髪をなびかせ、何か、紐のようなモノを自分の方へ引き戻す。それで獣をなぎ倒したらしい。
 姿は、というと……私がどんなに勇気を出しても着れそうにないほどスタイルが分かってしまう服で。
 白い布は胸とかしか覆っていない。肩に薄いショールみたいなモノを付けている辺り、多分服なのだろう。彼女は、私も思わず見とれて溜息とか付いてしまいそうなほど艶のある仕草で髪を掻き上げ、高笑い。高慢極まりないのだけれど、似合っている。そして、その人は獰猛な獣を見下したような、侮蔑の眼差しを送った後。
 チラ、何故か私に視線を走らせる。
 思わずキョロキョロしそうになる。私? 私の、こと?
 えっと。はい、民間人……つまり、普通の人。その通りです。私は民間人なんです。
 そうなんですよ。平々凡々な女の子なんです!! 今までで一番涙が出そうになった。感涙とか安堵の涙という奴だ。
 普通なのかはともかく、常識がちょっとでも通じそうな人に出会えた。骸骨じゃなくて、大きな猫科の獣でもなくて、人間だ。常識が通じなくてもまともな容姿だけで私は嬉しい。
「ご免なさいね。私達が不甲斐ないばかりに門を突破されてしまったの。
 でも安心して、少しは私も腕に覚えがある身」
その人は申し訳なさそうに綺麗な眉をひそめた。彼女は確かに強いのだろう。
 絶対に弱いわけがない、さっきの巨大なライオンみたいなモノも吹き飛ばしてしまったんだから。
 吹き飛ばして……彼女の腕を見る。細い。
 どういう慣性を利用すればあんなにでかいシロモノを吹き飛ばせるようになるのだろうか。あの手に持った物はゴム製?
 考えながら握っている武器、みたいなのを見る。鞭、だった。
 多分、鞭。先ほどの現象はもしかしてその鞭であの巨体を浮かし、吹き飛ばした?
 ありえない。ありえなさすぎる。
「心配なのね。大丈夫。お姉さんが優しく守ってあげるわ」
 凶器の細腕が肩に置かれる。優しさが怖い。 
不意に。柔らかな笑みが消え去り、一転してキツイ表情になった。
黒いかぎ爪が私の側を過ぎる。彼女が私の腰に左手を添えたまま、飛び退いてくれていなかったら、きっと床に叩きつけられていただろう。空気と一緒に床が切り刻まれる。
 グルル……獣は、インクに霞んでいる目をこらしている。
 さっきとは動きが段違いだ。私の時は、あれでも遊びが入っていたんだと思い知った。
「ちっ、しぶとい! これでもっ喰らいなさい!」
 舌打ちと共に繰り出される燃える鞭。
 燃え……燃えて。え。何で。何で火も付けてないのに燃えてるの!? 空気摩擦でも起こるほど早いのこの人の動きは。
混乱し続ける私を置き去りに戦いは進んでいく。素早い動きで彼女は鞭を唸らせ、獣のたてがみを焦がしていく。何度も何度も絡め、叩きつけ、避け。それが続く。
 段々その人の動きが鈍くなっていく事が、私にも分かった。
 太い獣の腕が彼女の細い身体を掠め、
「きゃぁっ!?」 
 彼女が悲鳴を上げる。かく言う私はその間の記憶が一瞬途切れていて、擦り傷がなければ瞬間移動を疑っているところだ。風圧だけで二人とも吹き飛ばされたらしい。
 恐怖と驚きの方が強くて身体の痛みなんて分からない。
「くっ、やったわね。怪我はない、あなた」
 自分も身体を打ち付けたはずなのに、彼女は私を心配していた。
 気遣ってくれた。
「あ、は……い」
 口を開いて、頷こうとして。
 気が付いた。私はそこで気が付いてしまった。
 彼女は私をかばっている。私を守ろうとしている。
 だから、動きがずっとずっと鈍くなってしまっていて、体力が極限まで減って不利な状況まで追い込まれてしまっている。
 私が、私が何も出来ない、から。傷ついていく。
彼女の白い肌に幾筋の紅い筋が刻まれる。
 綺麗な。私よりも綺麗な身体が、私のせいで傷だらけになっていく。
 涙が、滲む。
 最低で罪人で、地獄行きが決定の切符を持たされている、平凡な普通の人間でも。私はどん底まで落ちたくはなかった。
 私の肩の側には、壁があった。壁と言っても先ほどの乱闘で抉れてしまっている。
 燭台なんて傾いて、壁の中からはネジが頭を出している。
 袖口で視界を塞ぐ涙を拭う。そして、留め金の外れ掛かった燭台を勢いよく掴んだ。
 ひねり気味に引くと手の中で鈍い音を立てて燭台がぐらつく。あと一回位頑張れば取れそうだ。
「っ。手強い!! くそ、今のうちに逃げなさい」
 乱れ飛ぶ炎。さっきより焦りの強い口調が状況の悪さを物語る。
 やだ。もう、にげてにげて全部のチャンスを駄目にして、辺りを傷つけるのは嫌だ。地獄にしろ夢にしろ、出来ることを全てやって、笑ってやる。絶対笑顔で居られる自分にならないと、私は賀上君やマナに顔向けが出来ない。
 力を込める。土台が弱いとあっけない物で。あんなに頑丈そうだった燭台は、意外と脆く、切っ掛けが来ると簡単にぽろりと外れてしまった。
 いきなり掌が鉛になる。おも、重い。
 気を抜くと腕から落としそうになる。な、なんて重さ。もしかして、本物の銀製?
「なにしてるの。逃げなさい!!」
 響く叱咤も聞こえない。足を踏ん張り、すっと息を吸い、吐く。
 砲丸投げ位、できるもの。そんなに点数、悪くなかった。
 あの大きな獣が私を向く。あの人は、丁度避けたところ。
 肉食獣じゃない、今は、的だ。あれは、的なんだ。
 大きく開いた口から舌が見えた。  
 いけ、私。三、二、一。イメージする先生のホイッスルの音。
 重さが消える。掌から離れた燭台は、私の目には銀色の砲丸に見えた。
 悲鳴は上がらない。獣は苦痛の呻きも上げられず、倒れる。深く脇腹に刺さった物を取ろうと藻掻いている。血で床が染まっていく。
当たった。あの獣の目が見えていなかったのも、大きな私への追い風。
「助かったわ。あとは任せて!」
力強い声。ああ、希望の混じった台詞。良かった、何とかなるかもしれない。
 なんとか、なるの……か、な。
 ほっと息をつく。吐息と一緒に身体の力も抜けてしまったみたいで、膝を突く。
 そして、景色が揺れた。
 人が側にいるという安堵。極度の緊張感が抜けて、私の意識は急速に暗闇に引き込まれていく。深く、深く。
 瞳の奥に見た暗い色。
 それは、悪夢の始まりよりも、柔らかな闇だった。

 

 

 

 

 

 

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