一章/地獄よりも

 

 

 

  
アニスさんが、ようやく泣きやんだ私を気遣うようにこちらを見た。金髪が豊かな胸元にふわりと掛かる。
「悪いわね。完全にこちらの不手際だわ。
 当然、責任を持って彼女を養うのよね。プラチナ」
 どことなく神妙な顔。映画女優に匹敵……映画は余りよく見てないけれど、勝ってるかもしれないその整った顔は、やっぱり真剣さが二、三割り増し。 
「仕方あるまい。有能な勇者候補ならともかく、無力なこの娘を呼び出して投げ捨てたらそれこそ勇者候補の名折れだろう」
「そうよね。飢えた獣の中に最高級のお肉を置くような物よねぇ。当然元凶のシャイスは、この子のお世話係になるわけでしょ」
 片手を軽く掲げ、薄く笑う。漂う大人の色香と、悪女を思わせる黒い笑み。
「当然。そのつもりだ。断らないな、シャイス・ラグドルク」 
 触れれば折れそう、とはまた別の。触れば斬れてしまいそうなプラチナさんの姿は見ている方まで少し寒気がする。表情のない彼女が言う言葉も、凛々しい。冷静に考えると何でここは私の肩身が狭くなるほど綺麗な人が揃ってるんだろう。やっぱり、勇者候補だから?
 私ののんきな考えを余所に、銀色の瞳に見据えられて、シャイスさんの顔色が青ざめる。
 やはり、上司は上司。命令は絶対、みたいだ。
「ずっとあなたとか、娘。なんて大変でしょ。名前はなんて言うのかしら」
 何故かアニスさんが、私の肩に手を回して、しなだれかかってくる。ずしりとした重み。ど、同性なんだけど。
 でも、同性だけどここまで色気とスタイルが抜群の人に接近されるとドキドキとしてしまう。いやあの、男じゃないんだからっ。
 な、名前名前。自己紹介っ。心の中で小さく咳払いをして、すっと息を一、二、三、吐き出して冷静になる。
「果林。音梨……果林。です」
 言葉を吐き出すと、胸の内からのノックは少しマシになった。
 ちょっとだけアニスさんが眉をひそめる。
「えっと、オトナシがお名前?」
 ああ、そっか。この世界では外国みたいに名前と名字が逆なんだ。
 いや、私の名前が逆なのかな。混乱してきたから、どっちでも良いけれど。 
「いいえ。果林の方が名前です」
「じゃ、カリンちゃんね」
 私の台詞に、もの凄く朗らかな挨拶。フレンドリーさ満開。
 名前を呼んで貰えたのは素直に嬉しいけれど、何か変。
 呼び方は間違ってないけれど、訛りが入ってるというか、カタコトで喋られたみたいな微かな違和感。
「呼び名も逆。こちらの世界とは少々違うのか」
 感心するプラチナさん。それはともかく、私は納得がいかないのでアニスさんに向き直った。
「あの、アニ、スさん。カリンじゃなくて……果林です」
 出来ればちゃんと呼んでもらいたいので、ワガママにも注文を付けてみる。
「カリン?」
 金髪を指に絡め、首をかしげる。大人の彼女がするきょとんとした仕草は少し可愛い。
「いえあの……果林です」
「カリン。カリン〜〜。うう、発音が難しいわね。発声の仕方自体ちょっと違うみたい」
 頼んだとはいえ、彼女は律儀に発音を微妙にかえている。
 何度も名前を呼ばれることはあんまりなくて、変な気分だ。
 四苦八苦しているのはよく分かる。でも、全然発音は変わらなかった。
「カリンー。あー、無理。ご免なさいカリンちゃん。無理みたいだわ」
 アニスさんギブアップ。やっぱり駄目か。
「そう、ですか」
 他の単語は訛って聞こえないのだけど、私の名前だけ変な風に発音されて聞こえる。
 アニスさんがわざとやっているようにも見えないし。うう。謎。
「それは当然ですよ。カリン様は新方式召還によって呼び出された人。今までの人たちとは違ってちょっと複雑な訛りとかあっても」
「訛り以前に異世界の者達は言語からして違うだろう」
 得意そうな顔で告げようとした彼の言葉は冷ややかなプラチナさんの台詞で砕け散る。
「えっ」
 あ、本当だ。よく見ると口の動かし方が全然違う。
 他の言葉は代用がきくけど、この世界には『音梨 果林』と代用できる品がないんだ。
 と言うことはもしかして梨とか、果林とかも無いのかな。
 緑茶も梅干しもおむすびも無いかも知れない。
 和が、和がない。
 それはそれで日本人としてはショックだったけれど、まあ、無いものねだりしたってしょうがない。
「じゃあ、仕方ないですね。寂しいですけど、諦めます」
 スッパリ諦める。ちゃんと名前は呼んでもらえるんだし、それで十分。
 でも家に帰ったら、和を堪能しようと心に決めた。
「有り難うカリンちゃん。あ、呼びにくいだろうし『さん』はなくても良いわよ。
 勿論シャイスなんてコレとかアレでじゅーぶんなんだから」
 私の答えを聞いて何だか嬉しそうにアニスさんがまた私を抱きしめた。
 痛いほど。いや、痛いです。本当に。
 アニスさん、抱きつくの好きなのかな。嫌ではないんだけど、く、苦しい。
 ライオンみたいな奴を吹き飛ばした姿を思い出して、両腕が刃に見えてくる。また窒息するかも。
「えぇ」
「何、文句ある元凶の元」
 粗雑な言われように何か言いたげなシャイスさんの呻き。
 不穏な空気を纏ったアニスさんの言葉。私が暴れる一歩手前でするりと腕が外れる。
「無いです」
 素直に大人しく俯くシャイスさん。彼女はどんな表情をしていたんだろう。
 想像したいようなしたくないような。
「あの……アニ……スさ」
「なぁに。気軽にアニスって呼んで」
 気軽に。
「アニスさ」
 軽く。そう思うほど唇はカチカチになってしまう。
 切れるって凄い。先ほどの滑らかさは何処かへ行ってしまったらしい。
「…………」
 にこにこと微笑んだまま私の言葉を待つアニスさん。
 でも、でも。心の中でも何度も頑張ってみるのだけれど。
「さん。む、無理です。私には年上の人を呼び捨てなんて」
 年下でも呼び捨てが出来ないのに、年上の人にさんを付けないなんて無理。
 許可を貰ったのにこの有様。自分の引っ込み思案な部分が恥ずかしくて、彼女の顔が見れない。熱くなった頬を両手で挟んで冷やそうとしたけど無駄だった。
 熱はどんどん上昇して、収まりがつかない。
「いやぁぁっ。可愛いー。謙虚ね。今までにいなかったような普通の反応。
 ああっ、もぉ。お姉さん嬉しいわっ」
 ぎゅ、とまた抱きしめられた。さらに顔が熱くなる。脳みそも沸騰しそう。
 う、嬉しい? 嬉しいんだ。こんなにぐたぐたなのに。
 何度か抱きついたからか満足したみたいで、アニスさんはあっさり身を引いた。
 間をはかってたように。多分本当に待っていたんだろう、プラチナさんが半歩くらい前に進み出て、長い睫毛を僅かに伏せる。表情は……やっぱりかわらない。
「アニスとシャイスの名前はもう知っているな。私の名前はプラチナ。
 プラチナ・ラミージュ。今回の件はアニスの言う通りこちら側の不手際が招いたこと。
 それは謝ろう。済まなかったな」
 気のせいか全然謝られている気がしない。何でだろう。
 でもプラチナさんの声で熱がさっと引き潮みたいに消えていく。
 涼やかな彼女の声には人を冷静にさせる何かが混じってる。
 沸騰しそうだった私は強制鎮火させられた。普段の私になら冷え込みすぎるところだけど、今はその冷たさが丁度良い。まともな理性を取り戻せた。その辺りは有り難かった。
「えー。俺はダズウィン。ダズウィン・エリアル。
 面倒ならダズで良い」
 始終無言を貫き通していた大きな人は言った。さっきは大きな甲冑を着込んだ程度の印象しかなかったけど、全身鎧というわけでもないみたいだ。肩と胸、動きやすいように関節部分を固めないようにしてある。鈍い青銅色のその鎧は、カブトムシみたいな甲虫の姿を思わせた。手の辺りには籠手。足にも鉄製の靴。俗に言うグリーブかな。
 彼の武器だろう。年季が入っている大剣は腰に収めることは無理な大きさで、背の辺りに回っている。細部はよく見えないけれど、柄の近くに黒い何かが染みついている。
 何が付着しているのか考えるのが恐ろしいので、あんまりしみじみ見たくない。
 ……本では戦士が良く身につけているもののオンパレード。
 ああ。私は本当に異世界にダイブしたんだな。しみじみ思う。
「ちょっとダズ。アンタひとっことも今まで喋らなかったわね」
 考える私の側で、アニスさんが眉を不機嫌そうにしかめて彼を睨み付ける。
 数拍ほど沈黙し。
「頭作業と口を使う作業は任せる。何だか難しそうだったんで俺が口出すと余計ややこしくなりそうだっただろう。どうだ、英断だろ」
 自分の胸を叩く。ガァン、金属がぶつかる鈍い音。
 思っていたよりも音が大きい。
 けれど、その鎧は丈夫なのかへこみどころか傷の一つも付いていない。
「英断だけど。こっちに丸投げしないで欲しいわね」
「構わない。ダズウィンの言う通り、口を挟まれると無駄に時間が取られて困るからな」
 ふて腐れ気味のアニスさんの言葉。プラチナさんが溜息混じりに肩をすくめる。
 褒められたと感じたか、彼が私を見る。
「どうだ。この頼もしさと逞しさ。安心しただろう」
 胸を張っているのか、ちょっと天井を仰ぐような感じだ。
「いえ。ちょっと不安になってきました」
 思わず素直な感想が唇から零れる。安心のしどころが見つからない。
 確かにダズウィンさんは頼もしそうだ。体力とか強さ、そう言う面ではそうなんだけど。
 考えることすらしていないあの姿勢。この混乱しきった状況をどうにかして貰える感じではない。失礼だけれどたとえ戦乱の中だとしても頼れる感じではない。全然。
 プラチナさんが時折深い溜息をつくのが何となく分かった。
 いや、間違いで呼び出されてるんだから同情している場合でもないんだけれど。
「同感だわカリンちゃん。フツーはそうよね。不安になるわよこのメンツ」
 がし。とアニスさんが私の手を取って縦に振る。目に涙が少しにじんでいる。
 彼女も色々心労とかがあるらしい。
「私と同じマトモ仲間が出来て嬉しい!」 
「ドコがマトモだよ。お前」
ダズウィンさんの守りの固まっていない顎に彼女の強烈な肘がきまった。
 鼻先を潰されたみたいなくぐもった呻きを上げて彼が仰け反り、地面に落ちた。
「ま。そういう事はおいて置いて。プラチナ、さっき変なこと言ったわね」
 肘を軽く撫でる。埃の付いた服を払うような軽い素振り。
「何を、だ」
 慣れているみたいにプラチナさんは対応している。アニスさん、強い。
 私の視界では普通の会話、とはまた少し違うけれどごく平和な顔で二人は話している。
 でも、少し視線をしたにずらすと彼が苦悶の表情で床を転げ回る姿が見える。
 丸みを帯びた肩当てのせいで、見えない相手と格闘しているカブトムシそっくり。
 我ながら酷いたとえだと思うけれど、そう見えるんだから仕方ない、よね。 
「この娘が、一般市民で間違って呼び出された。なのに。勇者候補はカリンちゃんだって」
 あ、そうだ。言われてようやく気が付いたけれど、確かにプラチナさんの言い回しは変だった。
 間違えなら、私が勇者候補じゃなくても良いんじゃないのか。あんな、悔しそうな顔で言うことでもない。付き合いは長くないけれど、彼女が激高していたのはたぶん本当。
 取り乱していたことは、確かだ。
 あの時の事を思い出してか、プラチナさんの顔が僅かにしかめられる。
 羞恥か苦悶か。元々余り顔に出さないらしく、わかりにくい。どちらにしろ先ほど浮かべた表情からすると、彼女にとって気持ちの良い感情ではないらしい。
「ああ。一応状況上そう上の方には伝えている。コレが失敗だと知れたら私も少々困るのでな」
 腕組み、こめかみを軽く押さえる。
「ううー」
 シャイスさんの情けない呻き。状況上仕方が無くても、一般人を勇者候補扱いすることは嫌なのかな。うーん、嫌だろうな……天才と凡人を並べるくらい雲泥の差がある。
 私は、そう言われたらきっと今度は怒らない。怒れない。そんな人達と並べられたって困るだけだ。今まで空手だって柔道だって合気道だってやったことがない、ごくフツーの私を勇者候補と比べられるわけがない。それこそ無礼というものだ。
「そ、そうねぇ。結構お金賭けてるものね。で、どうやって一月後に還すつもりよ」
 見た目はちょっと危ないけれど、高価な気がする鞭を弄くりながら彼女が気まずげに呻く。召還にどの程度の金額が掛けられているか、日本円ではないだろう。
 ただ、私が一生掛かってもお目にかかれないであろう金額だと、彼女の素振りが告げている。
 総額は、聞くのが怖い。とことん意気地無しな私。
 金額を考えてくらくらしている庶民の私にお構いなく、二人のやり取りは続く。
「その辺りはぬかりない。死者名簿に一名、名を増やすだけだ。いつものことだ……気づきはしない」
「よく考えるとその辺り放任主義よね。我がお国がヤバイって言うのに。
 ま、こういうときは楽だからそれはそれで良いのかもね」
 鼻先で笑うアニスさん。
 シシャメイボ。
 分からないけれど、恐ろしげな響きだ。この世界に来てからと言うもの、私の常識は通用しなくて分からないことだらけ。
 私の目線に気が付いたか、シャイスさんがこっそり私に耳打ちをしてくれた。
『死者名簿っていうのはですね。戦死者の一覧。期間ごとに亡くなった方を書く書類です。
 勿論来てまもなくお亡くなりになる方も少なくありませんので、カリン様が書かれてもそう不自然ではないでしょう』
 ああ、なるほど。
 と言うことはつまり、私はコチラの世界で死んだことにされるわけで。
 うう、死んだって事になるのか。口実でもちょっと嫌かも。
 さっきのアニスさんが吐き捨てたことも納得いく。確かに死者が連なる名簿にしては管理が甘すぎる。死んでない私まで大丈夫なんて。でもそれが通ると言うことは、この世界の戦況は私が想像しているより酷い、のかもしれない。
「でも召還用の機材が欠けているってどういう事? 初耳よ。呼び出すには要るでしょ、何でいきなり無くなってるのよ」
 また放たれるアニスさんの疑問。さっきから思っていたけれど、見た目に反してこの人、かなり的確な質問をする。アニスさんが賢く無さそう、と言うわけではないのだけれど、妙に鋭いというか。
 確かに私を呼び出したのに召還用の機材が揃ってないって、変。だよね。
「それは、だな」
 難しい質問だったようで、プラチナさんの声が錆び付いた時計のごとくぎこちなくなった。微妙に視線が泳いでいる。何か、マズいことでもあるんだろうか。
 そんな疑問を吹き飛ばすように笑顔のシャイスさんが割り込んで。
「それはですねぇ。カリン様が私を倒すときに壊れちゃったんですよ」
「ばっ、馬鹿!! 何のために私が」
 響く叱責。背中からハンマーで打たれたような衝撃。
 妙な吐息が唇から零れる。私、私は。
「……私。私なんですか、壊したの。あの宝石、あの投げた宝石。
 アレなんですね。あれが、儀式の」
思い出した。シャイスさんの言う通り、私は宝石のような物を手にして。
 ドクロを模したお面に驚いて投げつけたんだ。事もあろうに、儀式に使う代物を。
 だったら、私は自分で自分の首を絞めたことになる。馬鹿だ、大馬鹿だ。
 これじゃ、一方的に彼女たちを責められない。早く帰れないのは私が軽率な行動をしたからなんだ。
「知られてしまったものは仕方がない。そうだ。
 だが、石を壊したと言うことで我々の行いが帳消しされるわけでもない。
 どうせ必要になる物。お前のためだけに取り寄せるわけではないのだからな」
 僅かに顔を俯かせ、プラチナさんは告げた。
 またぼやけ始めた視界。自分の不甲斐なさもくやしくて、ごしごしと乱暴に涙を拭う。
「とかなんとか言って〜。プラチナ様気を使わせないように黙って」
 え。気、使ってくれたんだ。
 そうか、確かに言われるのと言われないのとでは、私の気持ちも違う。
 割ったと言うことで、私は彼女にさっきみたいな怒濤の文句も言えなくなるだろう。
 視線を向けると、しばらく何度か口を動かしてコチラを見た後。
「先ほどの言葉聞こえなかったか。黙れ。しばらくずっと、黙っていろ」 
「まだ有効なんですか。アレ」
 プラチナさんはシャイスさんに苛立ちをぶちまけるように牙を剥く。
 少し八つ当たり気味の台詞に、彼は見ているこっちが情けなくなるような顔をして半泣きになった。
「本来なら永久に有効にしてやっても構わないが」
 やや語気を強めたまま、肩口の埃を払う。灰色がかった蒼の瞳がギラリと光る。さっきまでは冷たい氷柱の冷ややかさ、今は猛禽類の鋭さ。
 う、うう。怖い。睨まれているのは私じゃないのに、かぎ爪で引き裂かれて囓られそうな錯覚に陥る。
「そうね。フツー首よね。クビ」
 きゃらきゃらとからかうアニスさん。身を縮ませる彼。
 シャイスさんに対してはみんな妙に冷たい。
 普段から余程酷い失敗を繰り返しているんだろうか。
「今やお前程度の術師も居ないという体たらく。こちらもギリギリの人材だ、そうやたらとクビにするわけにも行かない。しかし、平和になった暁には」
 腕組むプラチナさんの髪が狐の尾みたいなしなやかさで静かに揺れる。
 彼女の蒼い瞳がまたしても鈍く光り、雷が落ちる一瞬前のように不気味な沈黙が流れる。
「あらら。シャイスちゃん平和になったらスッパリ切断?」
「ええぇぇぇ」
 上がる悲痛な叫び。アニスさん、切断はちょっと酷い気がします。
「召使い以下の役割を与えてやる。ついでに今回の罰としてお前の給金から宝珠代を少しずつ引かせてもらう」
「って、何百年分ですかそれ。実質的な給料削減じゃないですか。止めて下さいよタダでさえ貧乏暮らしなのに」
 減棒を告げられほぼ涙声で訴える彼。本当に切実らしい。
「五月蠅い。こちらもタダでさえ国は危機に瀕しているというのに。平和へのチャンスを棒に振って、この程度で済んだことを幸運に思え!」
 情に訴えて彼女が傾くはずもなく、逆に油を注いで一喝されるハメになった。
「うう」
 上司から鞭を喰らったシャイスさんは口から魂が半分出てきていそうな程落ち込んでいる。アニスさんはその光景を眺め、楽しそうに笑った後。
「まー。プラチナは怒らせておいて。取り敢えずカリンちゃんにはここに留まってもらうわ。見ての通りこの世界は決して安全ではないから、頼りないとは思うんだけど、このぼんくら男。シャイスにお目付役を任せておくわ。でも、役に立たなそうで危ない目にあったらすぐに私の所に来てね。後で部屋の位置や私が良くいる場所を教えておくから」
「は、はい」
 人差し指を立ててアドバイスをくれる。やっぱりひどい気もしたけれど、私にとっては嬉しい内容。実のところ、彼女の言うように彼は実戦には向いて無さそうな気がする。
 正式な候補者であるアニスさんの側にいた方がトラブルに巻き込まれる可能性が高いだろうけど、生き残れる割合もぐっと高まりそうだ。そんなことをそっと思う、私も相当酷いかもしれない。
「踏んだり蹴ったりです」
 私の隣に向けただろう怨嗟の声がチクチクと背中を掠める。
「その上激務で刺してやるから喜べ無能」
「うぅぅ」
 更に言葉で貫かれて彼が涙をこぼしながら力尽きた。お経、唱えた方が良いかな。
 日本人だけれど、熱心な仏教徒でもないので南無阿弥陀仏くらいまでしか言えない。
 言うなれば無宗教に近いので気の利いた祈りの言葉も思い当たらない。
 えーと、可哀想なので成仏して下さい。合掌。
「この役立たずはともかく。アニス、先ほどはお手柄だったな」
「何がよ」
 心の中で軽い供養の言葉を唱える私の隣で二人はまた話を再開した。
「城に入り込んだ獣王族の親玉をやっただろう」
「ああ。アレね」
アニスさんがつまらなさそうに自分の頬を軽く掌で撫でる。……獣王族?
 もしかして、あの大きな猫科の猛獣。ライオンっぽいような怖い獣。もしかしなくてもそうなんだろう、アニスさんが私に少しだけ視線を向け、頷いた。
「おお。すげぇじゃねえかアニス。並の勇者候補じゃ殺される位の大物だぞ」
 鼓膜が破れそうなほど震える。ダズウィンさんの声は大きかった。
 並の勇者候補じゃ殺される位。気絶する前のことを思い返す。
 私は、手段がなかったとはいえその大物にペンとバッグと、備え付けの燭台一本で立ち向かったんだった。
 良く生きていられたなぁ。うう、アニスさんが来てなかったら死んでいたに違いない。
 突然異世界に召還されて大きな獣に襲われて、タイミング良く助けが入り生き延びられた私は、運が良いのか悪運が強いのか。
 変なところで運が良くてもなあ。
 はあ。心の中で深い溜息。
 命の恩人は、私の顔をもう一度じっと眺め、片目を瞑る。
「当然よぉ。と言いたいんだけど、カリンちゃんが手を貸してくれてなかったら私も死んじゃってたわ。あの時は有り難うね」
「えっ」
 いきなりの感謝の言葉に間の抜けた呻きしか出てこない。突然振られたって困る。
 どう反応したら良いんだろう。むしろ私が助けられたような気がするけども、確かに手は貸した……かな。
「なに。力のない一般市民が助太刀だと?」
 驚くプラチナさん。彼女の私を見る目が変わるのが分かる。期待感を抱かれても、別に剣を使って華麗な立ち振る舞いをした訳じゃないので肩身が狭い。
 一般市民だって言い切っていたけれど、彼女はまだ候補者として私を見たがっている。
 召還までしなくちゃいけないほどせっぱ詰まってるんだから、当然か。
 よっぽど、人がいないんだろう。
「そうそう。すっごかったわよ。備品を投げつけたり、最初に奴の目を潰してくれてたオカゲですっごく助かっちゃった」
「ほー。意外に強いんだな」
「いえ、あの」
 投げつけたのも眼を潰したのも事実です。けど、半ばヤケ気味でやった抵抗をそんな風に褒め称えられても居心地が悪い。
 そう。あの獣が油断していなければ全く通用しなかったんだから。
「あ、ああ。ご免なさいね。カリンちゃんはすぐにでも帰りたいのに煽っちゃって。
 でも、あの時助かったのは本当よ」
「え、いえ。私、庇って怪我してたみたいだから」
 一番気にしていたことだ。何も出来ない私を庇って、彼女が傷だらけになっていく、刻まれていく赤い傷筋。思い出すだけで胸の何処かがうずくように痛む。
「別に構わないだろう。我らはお前を呼び出した元凶。見殺しにしても誰もせめない」
 冷たいけれど間違ってはいないプラチナさんの台詞。うずきはさっきより強くなった。
 ゲンキョウ。セキニン。そんなの、私はどうでも良かった。
「そうじゃないです。その時は知らなかったし。それに、元凶とかじゃなくて。
 私、ただの傍観者で逃げるより、その方が自分が納得できるって、おもったから」
「生きる意地か。プライドか」
 プラチナさんが小さく、せせら笑うように肩を震わせた。
 怒っているわけでも、見下しているわけでもない。彼女は多分、私の馬鹿さ加減に呆れているんだ。
「どっちもです。私は、死にません」 
 答えを聞いて、彼女の浮かべる笑みが深くなる。
「獣王を前に屈しなかったその勇気は認めよう。決意も固いようだな」
 呆れの色が強かった笑みは、不敵なモノに変わる。
 ここが異世界だと分かって考えていたことがあった。固まりかけのゼリーみたいに不安定で、崩れそうな気持ち。でも口に出せばきっと綺麗じゃなくても形は出来る。
 すう、と一、二度深呼吸。
「私は普通の人間です。勇者の素質なんてありません。
 でも約束があるんです。きっと間に合わないけど、謝るために帰りたいんです」
 そうだ。私は勇者じゃない。でも、今日の約束はあの大きな獣に立ち向かう価値のある事だった。たいした抵抗の出来ない私があの獣の前で生き残ると決めた時から、私はこの選択肢を選んでいたんだ。生きて帰ろう。帰るんだ。
 そして、彼に謝ろう。『約束破ってご免なさい』って。
「そんなに大切な約束か」
「私にとっては。一生が掛かってましたから」
 返した言葉に、ふっ、とプラチナさんが吐息を漏らす。口元には、今までで一番柔らかい笑みが浮かんでいた。
「カリンちゃんの、そんなに大切な用ってなぁに」
「それは……」
 私にとっては何物にも代え難い大切な用。と言えば間違いはないけれど、他の人にとってはたかがそれだけのこと。と一笑に付される可能性もある。
「言えないことか?」
「いえ。私、初めて好きになった人が居るんです」
 悩んでいても仕方がない。気遣わしげなプラチナさんの言葉で私決めた。言おう。
 これ以上気を使わせても良くない。
「まあ、初恋って奴?」
 意外にも乗り気のアニスさん。彼女、いわゆる色恋沙汰になれていそうだけど、この手の話は好きなんだろうか。
「それで今日は、今日は」
 見つめられて、上手く言葉が出ない。いざ言おうとするとしたがもつれる。
「デートだったの?」
 アニスさんが嬉しそうに瞳を輝かせる。勇者候補だから、こんな話題に飢えているんだろうか。
「そんなのまた約束を取り付ければ良いだけでは」
 しごく冷静なプラチナさんの指摘。また取り付ける。そう、ですよ、そうなんですけど。
 取り付けられれば良いんですけど。
「初めて、さそって貰えたんです。二年ずっとずっと見ていて……やっと」
 出来る限り暗くならないように軽く笑ってそう付け足した。
『…………』
 今度は、プラチナさんも何も言わなかった。眉間に僅かな皺を寄せ、言うことが見つからないのか佇んでいる。
 長い長い間。圧力でも掛かったみたいに押しつぶされそうな空気。
 やっぱり愛想笑い位で和む話じゃなかった。自分で空気を沈めておいて何だけれど、どうしよう。
「そ、それは。また。あぁ、もぅ。なんって不運なの。
 可哀想なカリンちゃん。純粋な乙女心がこの役立たずによって奪われるなんて。
 酷い、酷いわシャイス」
 左手で自分の目元をそっと押さえ、空いた左手で生きた屍のシャイスさんを無理矢理蘇生させる。
「す、すみません。なにぶん事故なもので」
 引きずり起こされた彼が慌てて両手を振った。
「事故で全部済ませようとするんじゃないのっ」
 今日何度目か数えるのも面倒になる程繰り返された台詞に、アニスさんがまなじりを吊り上げた。確かになんだかシャイスさんずっと『事故』『偶然』を言い続けている。
 事故なら保険とかきかないのかな。世界が違うから召還事故保険とか欲しいんだけれど。
 無いだろうな、そんなの。
「でも、ですね。そ、それならだいじょうぶですよ。カリン様。
 当日には絶対頑張れば戻れます」
 思いついたみたいに、彼が私に希望に満ちた台詞を注ぎ込む。がば、とか音がしそうなほど俯き気味だった顔を思わず上げてしまったが、大きく溜息をついて私は額に掌を当てた。
「気休め、止めて下さい。もう……こんなに時間経っちゃって、無理です」
 よく考えなくても気が付く。そんなに長く気絶していなかったとしても、絶望的に時間は経過してしまっている。きっと外は真っ暗で、今は朝になりかけてるかも知れない。
「そうだシャイス。無駄な希望を持たせるな。落胆させるだけだ」
 私に同意するプラチナさん。冷徹にも思えるけど、今はそれが彼女の思いやりだと分かる。そう、希望の数、重みだけ私の絶望も深くなる。
「嘘じゃないですよ。召還失敗したっていったでしょう。
 ですからこっちの時間の換算をカリン様の世界に合わせると。えーと」
 懐からゴソゴソと薄い、手帳のような本を取り出して指を何度か折る。
「ああ、三分。こちらの一日の経過はあちらでの三分経過を意味します。
 つまりですね、えー。一ヶ月ですから」
「九十分。一時間半」
 私の唇から、生気のない言葉が漏れた。
 一時間半? 一ヶ月が? ありえない。
「あー、微妙な誤差がありますけど大体その位で」
 のほほんとした口調でそう告げてぱたんと本を閉じる。
 三分? 絶対通常ではありえないけれど。召還した本人がそう言っているんだから、ありえる、の……かな。
 だとしたら、大きな希望。待ちぼうけにはさせてしまうけれど、大好きな彼の一日全てを潰さなくて済む。デートの続きが出来ても出来なくても『遅れましたご免なさい』って謝れる。実のところ一ヶ月行方不明で『ご免なさい』は言いにくい。
 希望だ。おっきな希望だ。虹を渡れる位素敵な可能性だった。
「それなら、遅刻はするけど間に合います。有り難うございます!!」
 気が付くと私はシャイスさんの両手を握りしめて、頭を下げていた。じわ、と涙がにじむのは嬉しいからだ。きっと。
「いやぁ」
 聞こえる声に顔を上げる。さっきまでなら突き飛ばしたくなるような緩んだ笑顔。
 でも偶然だろうと何だろうと、もう許す。今は何だって許します。
 ありがとう神さ…じゃなくて運命。
「照れるな元凶。どういうやり方でそう言う召還が出来る」
「失敗なのもありますけど、なんだか妙な感じに時空関係がねじ曲がっちゃってるんですよね。カリン様をお返しする際はそう言う設定になっちゃってますよ。
 不思議だなー」
 プラチナさんに冷たく睨まれ、はっはっは。と笑う。
 この人、何か不吉な台詞をあっさり吐いたような気がする。
「時空……一気に不安になった。いっそ正常に戻しておくか」
 彼女の意見にはちょっと同意だけれど。あえて私は否定の言葉を吐いた。
「止めて下さい!! そんなコトしたら一ヶ月、私行方不明ですよ!?
 帰ってどう説明したら良いんですか」
 本気で懇願する。それだけは、それだけは止めて欲しい。
 やっと掴んだ希望が。未来が。
 今の私にとって変な感じに時空がねじ曲がっているなんてどうでも良いことだ。
「む」
 困ったように彼女が固まる。泳がせた視線の先には、アニスさん。
「良いんじゃない。カリンちゃんも良いって言ってるし、シャイス、それ勿論本当よね」
 なんて暖かな言葉。ホントにアニスさんが女神に見えてきた。ありがとう女神さま。
「はい。本当です。カリン様がご生存のうえ、一月ここに留まっていられるのなら、ばっちりきっかり元の場所にお戻しすることをお約束します」
 こくこくと頷くシャイスさん。
 私の耳に言葉が届く。認識される。
 聞いた。ちゃんと聞いた。ばっちり聞いた。
 生きてこの場所に一ヶ月いれば、元の場所に戻して貰える。永久保存の一言だ。
 脳内のカセットに刻み込む。絶対忘れませんその言葉。
「私、生きます。絶対絶対生きて生きて一ヶ月何にしがみついてでも生き抜きます!!」
「は、はい。頑張って下さい」
 ぐっ、と瞳を見たまま少し躰を前に傾ける。何故かたじろぐ彼。
 ちょっと引くみたいに躰を反らせている。なんで。
「さ。カリンちゃんが燃えてきたところで話の続きと行きましょうか」
「そうだな」
 サッと二人向かい合ってまた会話を続ける。話の腰が何度も折り曲げられるには慣れっこらしく、二人の切り替え方はプロの操縦士を思わせた。
 アニスさんが金色の髪を撫でつけ、瞳を細める。
「さっきプラチナに言った獣王族のことだけど」
「ああ。ちゃんと見合った褒美は取らせよう。なにが良い」
 こういうやり取りをしていると、やっぱりプラチナさんが上司なんだと強く思わされる。
 何か言いたそうにアニスさんは小さく口を動かして長い髪を指先に巻き付け、左右に動かし、解いてから。
「そうじゃないのよ。期待を裏切って悪いんだけど殺せてないわ」
 滑り出てきた言葉にまず最初に私が、呻く。
「えっ。死んで、ない!?」
 あの、傷で。嘘。薄れ掛けた意識の中視界が捉えた倒れるあの獣。深く根本近くまで埋もれた燭台。どんな生物でも致命傷だと分かる傷。
「そう。カリンちゃんゴメンね。あなたの一撃で深手を負っては居たんだけど、元々体力だけが取り柄の魔物だから。トドメをさすのに手間取ってたら、隙を見て逃げられたわ。
 劣勢だと判断していったん退避したみたい」
 彼女が申し訳なさそうに瞳を伏せる。『体力だけが取り柄』あの傷で動き回り、逃げ延びられたアレでも『体力だけ』が取り柄の魔物?
 じゃあ再生能力だけが取り柄。攻撃力だけが取り柄の魔物もいるだろう。
 では、それはどんな生き物?
 想像も、つかない。答えがあったとしても、それは私の想像の域を遙かに超えている。
 この世界はやっぱり『違う』私の常識が通用しない異世界だ。
「そうか。残念だが、それでも手柄は手柄だ。深手を負った以上しばらく動けまい」
「うーん、じゃ。今度は俺がもらうな。そのお手柄」
 頭の後ろで手を組んで、ダズウィンさんがにっ、と笑う。あの大きな生き物。私にとっては驚異以外の何者でもないが、彼にとっては手柄を手にするための獲物なんだ。
 どん、と言う音と共に彼が前につんのめった。
「馬鹿言わないでよ。なめてかかれる相手じゃないわよ。
 アレが私一人だけだったらと思うとぞっとするわ」
 アニスさんが掌を肩まで掲げ、呆れたように彼の後頭部を揺らした腕を上下に動かす。
「所で門番の奴らは。やっぱりクビ?」
「本来ならそうしたいところだったが。無理だな」
 あっけらかんとしたアニスさんの言葉にプラチナさんが自分のこめかみを人差し指で押さえて、重い溜息を吐き出す。
「クビにする前に首ごともぎ取られて転がされていたらしい。
 躰も四方八方に飛び散って誰が誰か分からんと言う有様。どうもいたぶり殺した後玩具代わりにしたらしいな、あの獣」
 告げる瞳に暗い色。憎しみ、悲しみ、怒り。どれなのか、どれでもないのか、分からない。
「………う、う」
 凄惨な内容に、胃が蠢く。大きな生き物が喉の奥を這いずるような不快感。
 込み上がりそうになる吐き気を飲み込むと、唇から意識せずくぐもった呻きが漏れた。
「プラチナ。初心者のカリンちゃんの方も考えて発言してあげないと」
 言いながら彼女が私の背をさすってくれる。暖かい。
 恐怖と混乱で泡立ちそうになる意識を落ち着けると、吐き気はそう経たずに収まっていった。
「ああ。そうか、気が利かなかった」
 プラチナさんが気遣うように少しだけコチラを見る。初めて聞く生々しいやり取り、言葉、名前、表現。ここでは全てが現実で、何時身に降りかかっても可笑しくない出来事なんだ。覚悟はしていたけど、生まれてからずっと平和のぬるま湯に浸かった私には厳しい冷水だ。胸元を押さえる私の近くで、シャイスさんが両手を合わせて祈るように天井を仰いだ。
「あの時すぐ側に私達居たんですよね。ああ、生きてるって素晴らしい」
 ああ、そうか。そう言えば私よりも遠いとはいえ、シャイスさんも近くにいたんだっけ。
「で。か弱い一般市民のカリンちゃんが生死の危険にさらされたわけだけど」
「うっ。それ言われると苦しいです」
 冷ややかなアニスさんの言葉に肩をすくめる。なるほど良心は痛んでるんだ。
 被害を受けた私の横で祈るのはどうかとも思うけれど。
「まあ、そう言うわけで門番もまた減った。また一段と厳しい状況に立たされたわけだ」
 プラチナさんが疲弊の混じった呻きを一つ。人材不足の上に今日の襲撃はさぞかしこたえたんだろう。門番に中に暮らす人、外にいるだろう人達。どの位の人たちの命が奪われ、切り裂かれたんだろう。
「そうね。またアイツら以外の奴が襲って来るとも限らない。
 城壁があるだけ安全だけれど、ここも完全防備って訳ではないわね」
 むぅ、とアニスさんが口元にすらりとした指先を当てる。ふと、違和感。
 何だろう。私の考えを打ち消すような視線が向けられた。
「そうだ。そのために、悪いとは思うがカリン」
 勿論その元はプラチナさん。そして、開口一番そう言ってくる。
「は、はい!?」
 は、初めて名前を呼ばれた。嬉しさと同時に不安も増す。
「お前にもある程度の力を付けてもらう。一般だろうが平民だろうが、女子供だと言っていられるほど今の状況は甘くない」
 なにか、嫌な予感が風船みたいに膨らんでいく。割れる気配はなく空気は送られ続ける。
「やっぱりカリンちゃん鍛えなきゃ駄目?」
 唇を尖らせるアニスさん。鍛えるって。やっぱりあの、鍛える、だよね。
「駄目だ。このままでは一週間生き延びれるかどうかも怪しい」
 う。厳しい現実、確かにあんなのが沢山殴り込んできたら……一週間、保たない。
 城、と言っていた割に警備が薄いとも感じるけど、門番すら遊び殺されるんだから、相手が本気で攻めれば警護なんて意味がないんだろう。
「これは命令だ。アニス、カリンをある程度まで鍛えろ。無理なら自分の身をそれなりに守れる位までは教え込め」
 護身術も知らない私に、一週間以内に最低限で身を守る術を覚えろって。目眩がするほど厳しい条件。
「はぁい。しょうがないわね、上司の命令だし」
 過酷な課題。それなのにアニスさんは気軽く答えてにこりと笑う。
「あ、あの」
「今日は無理だろう。訓練は明日からとしよう」
 プラチナさんの端正な顔をボーゼンと見つめると、ぽん、と肩が叩かれた。
 今日とか明日とか、そう言う問題じゃなくて。
 今日じゃなくても無理です。合気道とか剣道とか柔道とか空手とか! そんなの知らない。一週間なんて、どうやって鍛えるの!?
「そうね。カリンちゃん、私頑張ってあなたを鍛えるわ」
きゅ、と両手が握られる。こっちはこっちでむやみにやる気だし。
 無理です! きっとじゃなくて絶対に。いや、鍛えるってアニスさん本気でやるんですか。
 無茶苦茶な展開に半ばパニックの私の脳みそ。
「オイオイ。勇者候補っても一ヶ月なのに力一杯仕込んでどうする」 
 ダズウィンさん。そうですよね、無理、とは……言ってくれない。
「ま、まあまあ。良いじゃない、知らないよりは知ってる方が生き残れる確率高いんだから」
 やるんだ。やるんですか。何故かは分からないけど彼女の意思は硬そうだ。
 プラチナさんが頷く。
「道理だな。不本意かも知れないが、これもお前が生き延びるためだ。
 拒否は出来まい、カリン」
「わかり、ました」
 言われた言葉に、私は深く、深く息を吐いた。もうあがいても針は進み始めているんだ。
 彼女の告げた通り、私には、選ぶ余地がなかった。ただ、提示された一つの可能性を掴むしかない。限りなく低いパーセンテージが上がるなら、否定する理由もない。
「ではシャイス、カリンを自室へ案内しろ」
「え、部屋貰えるんですか」
 てっきり倉庫か馬小屋か、そう言う場所で麻袋を被って雨露をしのぐ。というのを覚悟していたんだけど。犬や馬と場所取り競争はしなくてすむらしい。
「言っただろう。お前は建前上、勇者候補の一員だ。その名に恥じぬ行動をしろ」
 そうか。建前上、勇者候補に変な部屋をあてがうわけにも行かないんだ。
 なら当然、私も勇者候補として扱われるはず。『一週間生き残れまい』、それは私を戦場に放り出すから出た台詞。『すぐに鍛えろ』少しでも生き残れるように配慮してくれた彼女の小さな心遣い。ますます鍛錬を無下に出来なくなった。
「はい。プラチナ、さん」
 完全な感謝は出来ないけれど、すこしのありがとうを込めて出来るだけ、明るく笑う。
「後。後ろに『さん』を付けるな。これも命令だ」
「……分かりました。プラチナ」
 告げられる厳しい言葉。私はゆっくり首を縦に振り、鈍い蒼の瞳をじっと見た。
 これで今から、プラチナ・ラミージュ……彼女は私の上司だ。建前上でも私は勇者候補の一員。
 重い、重い肩書き。役目。
「良し。ではシャイス、案内しろ」
「は、はい。カリン様のお部屋へ案内いたします」
 大きなプラチナからの叱咤にシャイスさんが慌てて背筋を伸ばし扉の外に出て行く。
 彼女が瞳で扉を示す。行け、と言うことなんだろう。
 私は周りの人に小さく一礼して、ベッドの側に立てかけてあったバッグを掴むと暗い廊下へ足を向けた。
 それが、この場所が異世界と私が知って踏み出した始めの一歩。

 

 

 

 

 

 

 

 

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