ニーノさんの許可が出てから不毛な問答が続いていた。
「飼われろ」
「嫌です」
つん、とそっぽを向いてカルロの言葉をはね除ける。
食い下がり続けるが、内容が内容だ。折れる気はサラサラ無い。
うぐ、と呻きを飲み下し彼が剥こうとしかけた牙を唇に収める。私の機嫌をこれ以上傾かせない為にだろう。
先程は混乱で絶望を味わったものの、数度ほどのやり取りでニーノさんの微笑みの理由に気が付いた。
彼が出した提案は圧倒的に不利だった。
私ではなくカルロに対してもの凄い束縛が掛かる。
無理強いが駄目という事は力尽くは無理、ついでに私には何故か術も効かないので従属も使えない。
後残るところは口で丸め込むしかない。そして、私は全くその気がない上に数ヶ月の訓練と環境の変化で口だけでならそれなりに相手を潰す事が出来た。
冷静に考えるとこのペット化という提案自体が無謀なものになってしまっている。
カルロが悔しそうに奥歯を噛み締めているが目を逸らして反抗的な態度を示す。
「うっが、むかつく」
他の兄姉より焼けているとはいえ、それでも白い肌を紅潮させ、ギリギリと歯を鳴らす。
さっきまで涙目で悲鳴を上げ、叫んで逃げ回っていた人間にこんな態度をされれば確かに腹が立つだろう。
噛まれたくもないし、飼われたくもないので同情する気はない。
タッチであれば既に掌が腫れ上がっているであろう程に短い言葉を交わし続け、しばらく経ってからカルロはようやく自分の立ち位置に気が付いたのかぜえはあと息を切らしながら紅い目でニーノさんを睨み付ける。
「ちょっと兄貴、これ幾ら何でも俺に不利すぎるだろ」
「お前は若いんですから、暴力無しの話し合いで済ませる術を覚えなさい」
咳き込む弟を眺め、薄く微笑むニーノさんの姿は相も変わらず優しげだ。
成る程、ペットが目的というわけでもなく、私を絶望の淵に叩き落としたいわけでもなく。
カルロの態度を改めさせ……いや、弟を躾の名目でいじるのが目的だったのだろう。
「……覚えようにも無理そうなんだがアレ」
「アレじゃないです」
半眼で恨みがましく見られても私のせいじゃない。
あと、名前を名乗ったんだからいい加減その不愉快な言い方を止めて欲しい。
「このままでは十年どころか百年経ってもお前は血が吸えそうにありませんね」
「……あれ、血を吸うのは禁止しているんじゃないんですか」
あんな感じで迫りまくったら本当にこのお兄さんなら雷を脳天から落としてくれそうだ。
困ったような、そして苦いものが混じった笑みを浮かべ彼がぽりぽりと頬を軽く掻く。
「まあ、本来はそうする事も出来ますが愚弟とはいえレイス一族の血筋を引いています。
一人前の吸血鬼になるには一緒に生活していてもそれなりの自立心は必要ですので」
曖昧に濁されたが上手に血を吸えれば一人前、と言う事なんだろうか。
「無体を働かない限り私達は傍観しています。
勿論従属の瞳は使わないようには決めていますが。あれはあまりにも様々なものを縛りすぎますからね」
なるほど。それであの怒りようか。つまりカルロは私にルール違反をしたのだ。
効かなかったから良かったけど。
「ということはもう町にでも行って吸ってるんですよね」
視線を向けると、カルロが私の目に触れる前に横を向く。ん?
「まあ、行きましたね。ある時は通りすがりの女性を口説き、ある時は軽い脅迫を混ぜ迫ったようです」
脅迫って。暴力は駄目だったのじゃないのだろうか。
「全て負けてますけれどね。我が弟ながらこれほどに不器用だといっそ清々しいほどですよ」
微笑んでいるニーノさんの空気が笑っていない気がした。冷たい、冷えるというか凍える。
そう言えば一般人女性に勝てた事がないと言っていたから、返り討ちにされたのだろう。
ナンパも失敗。何か失礼な事でも言って怒らせたのだろうか。
ストレートに吸わせろとか言いそうで怖いなぁ。
「女は七面倒くせーんだよ。すぐに機嫌変わるし、他のモノに興味持てば人の話聞かずにさっさと消えるし」
苦虫を噛み潰したような凄まじい渋面から察するに、失敗はかなりの数なんだろう。
その上全敗。憐れな。
「お前が女性の機微に疎いのですよ。どうせ押しつけがましい事でも言って嫌われたのでしょう。
相手を楽しませ自分も楽しめば自ずと吸えます」
吸えるんですか!?
穏やかに諭すニーノさんに反射的に突っ込みそうになった。
うう、でも確かにニーノさんなら適度に緊張と警戒を解いて相手を様々な意味で虜にした後お茶をして、ついでに献血のように血を貰える図がぱっと描かれる。
美形って言うのもあるけれど物腰と誠意のある態度は好まれる事も多いだろう。拒まれても深追いもしないだろうし。
喜んで血を差し出す女性の姿が目蓋に浮かんでしまう。吸血鬼じゃなくて淫魔とかじゃないんだろうか。
そっちの方が絶対似合う。
「ペットが嫌ならじゃあ居候になれ」
「身の危険を感じるので丁重にお断りします」
人並みの扱いにして貰ったところ悪いが、眠れぬ夜を過ごすのは嫌だ。
「ううう、じゃあ同棲」
「言い方を変えても駄目です」
歯ぎしりが強くなるが折れない。吸われると分かっていて誰が住みますか。
「うううぐ。だったら恋人にしてやるから住め」
「は?」
これならどうだ、と言わんばかりの顔で告げられた台詞に付いていけず間の抜けた呻きを漏らしてしまう。
コイ、ビト。成る程、吸血鬼でも恋人というのか。
「それなら違和感ないだろ」
硬直している私に構わずに胸を張る彼。
「いやまあ違和感は――ない訳ないじゃないですか!! 何で恋人どうして恋人あり得ません」
思わず頷こうとして全力で首を横に振る。誰が恋人。周り肉親だから私ですよね。話飛びすぎだと思います。
「気に入って住ませたいから」
あっさり言ってくれるカルロに脱力感を覚える。住ませたいだけで恋人にしようと考えるのか。
「あなたは私の血が目当てでしょう。それにその、そんなの気軽に言ったら駄目な事なんです。
そ、それに仮定として……あくまでも仮定のお話としまして、よしんばそうであっても恋人が同棲するとは決まってません!」
頬が熱いのを自覚しながら諭す。こんな事簡単に決めてはいけない事だ。
仮定だと考えても同棲とか恋人の単語を出そうとするだけで躊躇いから唇が貼り付きそうになる。
「……うー。お前かなり固いのな」
渋い顔で見られて思わず今度はこちらが頬を膨らませた。
か、固いって何ですか。常識だと思います私そんなに軽くないです。
固いじゃなくて真面目だと言って欲しい。吸血鬼の貞操観念はよく分からないけれど、同棲同居当たり前なんだろうか。
地面に潜っている分、血を抜きにすればここが安全そうではある。魔物に襲われない事も魅力的で物件的にも申し分ないが、同居となると話は別。
同居というか同棲って言ったからもしかしたら自分の部屋に押し込むつもりなのかも知れないし。
こんな話をしている間も兄姉揃って傍観モードだ。グリゼリダさんは最初からこれまでにこにこしたままで事のなりゆきを見守っている。
ニーノさんのように軽く話をずらしたり弟の悪戯を止めたりもしない。始終微笑みっぱなしで温かく見守っている、と言えば聞こえは良いが一番タチが悪い。
ペット化に賛成もしないし反対もしない。私が吸われそうになっても止めたりしないと徹底した見守りっぷりである。
恐らく同居にせよペットにせよ決まったのなら微笑んだまま賛成するのだろう。
彼女が無感情なのではなく、なるようになるといった気持ちなのは理解出来た。
それとも単に面白そうだからほったらかされているのか。
「とにかく却下です。軽々しくそんな事言わないで下さい!」
「う。何故怒るよ」
睨み付けると眼力は強いはずの吸血鬼であるカルロが引く。
「怒りますよ。当然怒るに決まってますよ。恋人をそう瞬時に決めないで下さい。
もしかして吸血鬼は一夫多妻とかですか」
言葉を紡ぎながら思案する。一夫一妻と一夫多妻では感覚が違うかも知れない。
何しろハーレムだ。気に入ったら放り込むという感覚だったらこの軽さにも納得がいく。
『……うーん』
私の問いに男性二人が唸った。
「何でそこで悩むんです」
半眼で見つめるとニーノさんが微かに瞳を揺らす。
「ああ、いえ。その明確な区切りはないので個人の自由ですよ。奴隷にするも妻にするも。
勿論人数も問いません。まあ、私は一人で充分だとは思いますが」
「そうですか」
奴隷という言葉は無視して頷く。つまり本人が望めば好き放題。
自由すぎる。男性吸血鬼なら一夫多妻を望みそうだ。
ニーノさんは一夫一妻型か。なんか納得いくようないかないような。
「そうでないとじっくり愛せないじゃないですか」
心の内でも読んだかの如く彼がにっこりと微笑んだ。
「……そ、そうですか」
銀髪は相も変わらず煌めいて見惚れてしまうほどの美貌。
なのに、笑みを受けて反射的に返した声が震えた。
言葉の内に何やら物騒な色が混じっていた気がするが気のせいか。
気のせいって事にしよう。深く考えたらいけない。
「え、と。奥さんはまだ居ないんですか」
考えてはいけないのに好奇心が疑問を唇から吐き出させた。
「ええ、なんとなく相手が居ないもので」
眉を寄せ、微かに照れたような反応にくらりとしかける。
いけないいけない。落ち着こう私。美形は魔物だ。……吸血鬼の時点で人外か。
「女に不自由しないクセして兄貴は選り好み激しいんだよ」
カルロが唇を尖らせて、じっとりした視線を向ける。
「皆さん素敵だとは思うんですけどね。結婚となると一生問題ですから」
穏やかに続ける彼の手がいささか乱暴に弟の黒髪をかき乱す。
絡まった髪が痛いのか小さな悲鳴が聞こえた。
もがき苦しむカルロが暴れても、見た目は細めの腕は動かない。
微笑んだままわしわしと撫で続ける。
ずっと思っていたけれどニーノさんって結構酷い人だろうか。
大体が一言多いカルロの自業自得な感じだけど。
「そうですよね。普通吟味しますよね」
「何だよその眼は! 真面目に言ってるんだぞこっちは」
知らぬうちに非難の色が混じっていたらしい視線にバタバタ暴れていたカルロが潤んだ目で私を睨む。
撫でると言うより鷲掴む形になっている指が頭皮に食い込み、余程痛いらしく目尻にうっすら涙が浮かんでいる。
ちょっと可哀想になった。ニーノさん、そろそろ許してあげたらどうだろう。
「余計悪いです。血が吸いたいからって知り合いからいきなり恋人に格上げしてどうするんですか」
「どうって。兄貴的に言うならじっくり口説き落とし――あいたたたたた」
ぱちりと瞳を瞬いて答えたカルロの顔が思い切り下に向く。いや、向かされる。
ニーノさんが笑みに不穏な色を交え腕をぐいぐいと下に押し出す。獲物である弟は当然無理矢理床を観察するハメになる。
「いやですねぇ。口説き落とすなんてそんな事言った覚えはありませんよ。
人聞きが悪すぎます。単にお話とお茶をするだけじゃないですか。
それに、お兄様と言いなさいと毎日言っているでしょう」
「俺そんな柄じゃなっいだああ」
紳士的口調だが氷のような冷たい声。反論しようとしたカルロの頭が更に下に向く。
お、恐ろしい。鍋で煮込む話題といい今の事といい穏やかそうに見えて過激ですね。
「ゆ、許して下さいオニイサマ」
ほとんど棒読みだったが、心の内を満足させるには充分だったのか掌が外される。
「うう。相変わらず容赦ねぇし」
すかさず頭をカバーして涙目で唇を噛む。よっぽど痛かったらしい。
「血だけの関係なんてあんまりです最悪です」
慰めたくなってくるが我慢して恋人同居反対を示す。
「だから何で怒るんだよ」
「お前は本当に機微が分からないですね。つまり、愛がないと言われてるんですよ」
全く理解出来ないといった困惑顔をする弟にニーノさんが助け船を出す。
そう。愛がない。あと労りとかも大いに欠けている。
カルロは眉間に皺を寄せ、
「吸血に愛がいるのか?」
私の心情などお構いなくそうあっけらかんと曰ってくれた。
ぴしりとこめかみから音が響いた気がする。
「……弟さん踏んで良いでしょうか」
「どうぞ」
微笑み混じりのOKサイン。踏むより先に耳を引っ張ってよく言い含んでおいたほうが良いかとも思い腕を伸ばすとカルロがジリジリと後退していく。
「ちょ、待て。踏むな。こっちは手出し出来ないんだから暴力反対!」
完全にさっきとは立場が反対になっているが、私も恐怖したのでその位は我慢して貰いたい。
「あ、あああ、愛ならあるだろ!」
「無いでしょう」
怯えの混じった声に腕を止め、半眼で睨み付ける。
愛がある人は餌呼ばわりしない。
「お前俺が好きだとか言ったじゃんかよ!」
「はぁ!?」
とんでもない言葉に驚きが勝って反論の前に声が出る。
何時言ったそんな事。カルロとは出会ってそんなに経っていないはずなのに、私がそんな大胆発言するはずもない。
「来る途中聞いた!」
自信満々な言葉に思わず考え込む。言ったっけ? 私は好きな人が居るからそんな事言うはずもないんだけれど。
混乱する私の隣でニーノさんが紅い瞳を楽しそうに細めた。
「……でもお前、ここまでは人型じゃありませんでしたよね」
「うっ」
響いた苦しげな呻きにハッとなる。そうだ。
確かに来る途中ならコウモリで、名前も知らないから好きなんて……待て、言ったかも。
自分の姿の作りにコンプレックスを持っていじけているカルロ(コウモリ)に、可愛いから好きだとは言った気がする。
だけどそれはコウモリだから言ったわけであって、断じて人間型のカルロに言った覚えはない。
吸血鬼だと知っていれば絶対に言わなかったであろう台詞だ。
「けどさ、言っただろ」
ふて腐れた顔でむー、と唸る彼。
「言いはしましたが。コウモリだと思ってた時ですよ」
笑えばいいのか困ればいいのか分からなくて曖昧な表情になる。
ニーノさんが大きく息をついた。
「必死なのは分かりますが、コウモリの時の事を持ち出すなんて。お前――悲しくないですか」
分かっていての発言らしく、痛いところをつかれたカルロの身体が揺れる。
「好きだとは言いましたけどイコール愛というのはかなり苦しいですよ。
ペット的に可愛いという意味でしたし」
最後の台詞は喉の奥にしまい忘れ、スルリと落ちる。
「ペッ、ト」
掠れた声が響き。カルロの周りの空気が凍る音が聞こえた気がした。
まずいと思った時はもう遅い。
意外に繊細な弟吸血鬼は衝撃のあまり銅像のように凍り付いていた。
飲み込むはずだった本音は吸血鬼を精神的に殴り倒した。復活にはしばらく掛かりそうだ。
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