血臭が濃い。戦の匂いもまだ強い。でも人の気配は確実に薄れていた。
もう、私は何処にいるかも分からない。
『お母さんどこー』
『ちゃんと来てくれるよ、大丈夫』
たどたどしい声をあやしながらゆっくり進む。
魔物達が居る方角に。
切り刻まれて殺される。それも仕方ないと思う。
生きたいとは思っていたけど、子供を見捨てて無抵抗のモノを殺戮してまで私はこの位置にいたくない。
さくさくと辺りを覆う足音。人ではない。
何故か恐さはなくてほっとした。
『人間、仇……』
鋭い視線が幾つも突き刺さる。唸られても、俯くしかない。
殺気、憎しみ。これがそうか。
爪が振り上げられる。私は、動かない。
せめて子供に傷が付かないように背を向けた。
『待て!』
鋭い声が響き、切っ先を止める。少しだけ顔を上げると陽炎のような姿が目に入った。
目の前にいたのは漆黒の獣。
獣王族と似ている姿。違うのは全てが闇のように黒く、たてがみと尻尾の先端は黒い炎が燃えている事。
綺麗だと、場違いに思う。精悍な顔立ちだが、額から左目の瞼に掛けて傷跡がある。
目は潰れていないのか、月を思わせる銀に似た灰色の双眸が私を見つめていた。
『娘、どうして軍を引かせた――と聞きたいが、この言葉では』
『子供が居たからです』
静かに答えた。辺りからどよめきが漏れる。
普通の人間は聞き取る事も答える事も出来はしない。だけど、私は出来るから、口を開いた。
彼らにも分かる言語で。急にクリアになって淀みなく話せるようになった魔物の言葉を紡ぎ出す。
『どうして我らの声を聞ける。なにゆえ口に出せる』
『あなた達と話したかったから。ずっとずっと練習して覚えました』
練習したけれど、結果はこれ。話し合いなんて出来なくなった。
でも、そのおかげでこの子が助けられたのなら良いとも思う。
『では、改めて聞く。子供がいればどうして引く』
『あなた達は非戦闘員だと思ったからです。強靱な軍隊でも自分の子供を連れてくるような馬鹿な真似はしません』
魔物も生物。親なら子は戦場に出したがらない。この子のように爪も牙も弱いのなら尚更。
値踏みするように目が細められる。
『軍を無理矢理独断で引かせました。こちらの先走りで沢山死人が出ました。申し訳ありません』
座り込んで頭を下げる。当然だけど、謝って許して貰える訳もない。
すぐに切り刻まれるかと思ったが、そうでない事に気が付いて顔を上げる。
興味深そうな顔つきで、黒い獣は自分たちの言葉を発する人間を眺めているようだった。
『……勇者候補が何故魔物に肩入れする』
鼻を軽く鳴らし、長い髭を揺らす。開いた口から伸びた牙で噛まれればひとたまりもない事は分かる。
『私は違うからです。私は勇者候補じゃないからです』
だけど私は怯まず見つめた。
先程からの口ぶりを考えると彼は賢く、地位もある。
そうでなくても話をすべき相手。そして答えるなら正直になるべきだ。
足音が近づいて、
『こちらの人間では――無いだろう?』
私の額に自分の額を付けて問われる。低く響いて心を震わせる。鋭く、甘い声音。
まるで誘惑にも似た声。恐怖は不思議と感じない。
『間違えて呼ばれたから、私にはそう言うの関係ないんです。敵対しないのならば、私の敵にはならない』
『魔物でも』
ゆっくりと体を引き静かに問われる。地獄へ誘うようなとろりとした甘露に思える響き。
顔を上げ、
『魔物でもです』
私は微笑んで見せた。魔物も人間も言葉が通じるなら変わらない。
雑貨屋で働いてから尚更強く思った。泣く子供を抱えるスライム、手傷を負った二股の頭を持つ獣。
民間人は民間人で、私と同じ。
『お母さんはー』
『ああ、お母さん何処だろうね。済みません、この子のご両親は大丈夫ですか』
『心配ない、泣きわめいていたがこの子の顔を見ればすぐに静まる。
しかし、おかしな人間だな。この子は人見知りが激しいのだぞ』
巨大な岩すら砕きそうな掌で顔を洗って溜息をつくと彼の髭が揺れる。なんだ、この子の知り合いか。
『とても、良い子ですよ。良かったね、もうすぐ会えるよ』
『うん、ありがと』
きゃっきゃとはしゃぐ子供を見て、小さく笑い返す。
『その様子を見れば、死は覚悟の上か』
問われてすぐには頷けず、しばらく時間を掛けて首を縦に振る。
『無ければこの状態で撤退なんてさせません。血はもう嫌になるほど見ました』
『先の策。お前であろう?』
先……この間の事か。小さく頷く。辺りがざわめく。
驚愕の色が広がる。
憎しみの前に感じるのは、驚きと困惑、そして疑惑の空気。
私の無言の肯定に衝撃を受け、戸惑っている。
魔物の軍に手痛い策を紡いだのが自殺行為をしている愚かな人間だという事に。
自分だって驚きだ。こんな事しでかすなんて。
『無駄に誰かが死ぬのが嫌だっただけの我が侭です。
人間だから勇者だからとかは関係ありません』
『聡いのに、愚かだ』
顔を引き、喉を震わせる笑い声に息を吐いて、目を瞑る。
聡いかどうかは知らないが。
愚か。嫌になるくらい理解している。何度も何度もかみ砕いて吟味しても、これしかできなかった。
そんな私は、愚かだろう。
『分かってます。死にたくなんて無いです。でも、謝るだけじゃ足りません。
こうでもしないと無駄に血が流れてました! 私はもうこれ以上の策は思い浮かばないんです』
心からの叫び。もう無理だった。見たくなかった。
『……ふふ。聡く愚かな娘、名を教えてみろ』
また滲む視界に、揺れる黒い猫のような顔は。何処か楽しげに映っていた。
乱暴に自分の目元を袖で拭い、下唇を噛んで相手を見据えた。これが私に出来る最低限の礼儀。
『オトナシ・カリン。カリンです。それが勇者にもなれない鼠の名前』
自分をなぶり、貶める。私は逃げまどう鼠、猫に軽い噛み傷を作り怒らせるちっぽけな存在。
優美な尻尾が緩やかに動き、風を起こす。座り込んだ私に習うよう、彼も寝そべって目を瞑る。
『狡猾な鼠は好かん――が、愚かで聡い鼠は気に入る。今回だけ、貴様を捨て置く』
へ、と息をつく。見逃す?
変わっているから、それだけで?
『一つ訊ねる。お前は、我らが出ても立ち向かわないと誓えるか』
『他の勇者候補は知りませんが、襲われない限り。私は自分からは誰も手に掛けない』
試すような目線に今までで一番強く返答出来た。これは誓える。
いや、そうでもない限り私は魔物と相手はしない。
ムクリと起きあがり、黒い獣は埃を払うように大きく身体を震わせた。
黒い炎が激しく燃え上がり、揺らめく。
『理解した。出来る限り砦は襲うなと働きかけてやる』
何処か満足げな声にこんな時なのに心が跳ねる。
会話が成立していた。
そして、人と同じほどの知能を有する魔物が居る。ずっと夢見ていた事。
『ありがとうございます!』
『なぁに。気まぐれさ』
ゆったりとした足取りで群れに戻り、魔物の言葉とは違う彼の遠吠えが夕暮れの空気を震わせる。
ぞろりと皆が私を無視して通り過ぎた。ああ、これは私が使ったのと同じ撤退命令。
『あの、ちょっと待って!』
去りそうになっていた黒い魔物を、私は呼び止めた。
『何用だ、娘。我は暇ではない』
剣呑な眼差しに首を振り、
『この子を連れて行って!』
慌てて黒い獣に子供を差し出す。ぷらりぷらりと小さな身体が揺れる。
『……忘れていた』
うっかりしていたと溜息をつき。そっと小さな身体をくわえる間際。
本当に無抵抗なのだな、と私を見て呻いた。
静かに闇にとけ込んでいく獣を見ながら、緊張がぷつりと切れた私はそのまま意識を失った。
くらいくらい、夜と共に。疲労と安堵の中、意識を混ぜ合わせる。
誰かの悲鳴と叫びが、聞こえた気もした。
魔物達との無益な戦いで、人は死んだ。魔物も死んだ。残ったものは恨みだけ。
でも撤退した事と、魔物達が牙を向けなかった事で死者が増える事はなかった。
だから、私は強く叱られる事もなく。プラチナの先走りもあって、謹慎処分が言い渡された。
マインもアニスさんも怒っていたけど別に反論はしなかった。
しばらく、外出する気も起きないから。
ここのところずっと自室にこもって何もせず空っぽの頭でベッドに転がっている。
トントンと控えめなノックが響いた。
「カリンちゃん。お客様よ」
「私に、ですか」
ベッドに寝そべっていた身体を起こす。
「ええ。少しで良いから、ね」
誰だろう。ここでの知り合い、城に来る人なんて居ないはず。
皺を伸ばして取り敢えず居住まいを正す。
「失礼します」
響いた声に首を傾げる。知らない男の子の声。
ゆっくり出てきた姿に更に疑問が募る。誰だろう。
青い髪に青銅色の瞳。私と同じくらいの、大人しそうな男の子。
「あなたがカリン様ですか」
小さく頷くと、
「会えた! ありがとうございますっ。ずっとお会いしたかったんです」
凄く感激した様子でがば、と飛びついてきた。重みで思わず倒される。
「うぇっ!? ちょ、ちょ、ちょっ」
私が腰掛けていたのはベッドなので、押し倒されて慌てる。
「こらこらこら。カリンちゃんはそういうの慣れてないから気をつけてよ、少年。
それに、いくら何でも初対面で異性に抱きつくのはどうかと思うわよぉ」
初対面で抱きついてきた人が告げても説得力無いもするが、押し倒されるのはちょっと以上に困る。
ていうか誰。誰ですか!?
「あ、ご、ごめんなさいっ!? 会えた嬉しさでつい」
「初対面、ですよね」
顔を赤くして後退る彼に首を傾ける。可愛い顔立ちの、マインより年上に見える感じで。
多分私と同年齢くらい。
「は、はい。顔合わせは初めてです、ルーイ・ナウディスです!」
……聞いた事ある名前。え? えっと。
思い出した。紙に書かれていた名前。
「あ、募集の!」
的確で要所を押さえている策士。どんな詐欺師まがいか微笑み絶やさぬ人が来るかと構えていたら。
すごい純朴そうな少年だ。信じたくない気持ちもあるが、この子がそうなのか。
でもなんで私に会いたいと思ったんだろう。
「はい。えっとその、ここに来た理由はあなたにお礼をする為です!」
言葉と共に勢いよくお辞儀をする。
「は?」
思わず間の抜けた声を上げる。
えーと、初顔合わせなのにお礼?
ぱっと顔を上げ、彼は瞳を輝かせ、微笑んだ。
「あなたが立案した策。あの時、僕は軍隊に加わっていたんです」
シビアな内容と幸せそうな表情のギャップにしばし硬直し。
「ええぇぇぇぇええ!?」
思わず私は悲鳴のような声を上げていた。
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