胸板をゆっくりと爪が切り裂き、朱が辺りにまき散らされ、強靱な顎が肋骨をかみ砕く。
ぬるりとした粘液が口元の毛にベッタリとまとわりつき――
その瞬間が容易く想像出来、肌がぞわりと粟立つ。
このままでは想像は現実へと変わるだろう。
「でも、でも……これじゃ」
肘で打った魔物が隣にいた魔物に叩きつけられる。先ほど叩きのめした魔物も、傷が浅かったのか数匹ほどが起きあがり、飛びかかってくる。
「これじゃ」
―――動けない!
言いかけた言葉を飲み込む。あの男達にとって魔術師である少女は僅かな希望。
その希望である自分が否定を口にすれば?
間に合わない、なんて言ってしまえば、助かる望みは薄れる。
恐怖に代わり、絶望が心を支配する。
絶望は生きる望みを奪い、魔物への抵抗を諦めさせる。
そして、その瞬間はあっけなく来るだろう。
爪が食い込む程拳を握り、
「く……ぅ。諦めないわよ、絶対諦めないんだから!」
奥歯をかみしめ、邪魔な魔物を振り払う。
「目標補足、照準固定。射撃準備完了」
焦る気持ちを薙ぐように、涼やかな声が耳に入った。
「へ」
かちり。
木々のざわめきとも、魔物の牙の打つ音とも違う、小さな金属音。
刹那――
耳を貫かれた。
そう錯覚を覚える程の轟音が、立て続けに起こる。
動きの止まった魔物を殴り倒し、全ての魔物が地に伏せたところで顔を上げる。
そして、見た。その光景を。
喉奥で上がり掛けた悲鳴をかろうじて飲み込む。
「ひ……っ」
魔物に組み伏せられていた男が引きつった声を上げた。
それもそうだろう。
先ほどまで胸を抉ろうとしていた魔物の頭部あたりが砕け、男の上半身に脳髄だと思われる破片が飛び散っている。思わず顔を背けたくなるような光景だ。悲鳴の一つも上げたくなるだろう。
実際、ある程度戦闘慣れしている少女ですら間近にいれば吐き気を覚えるはずだ。
だが、
「全弾命中。現時点での生命反応……無し、と」
その人物は全く表情も変えず凄惨たる辺りの状況を見た後、自分の手首辺りを眺めて頷く。
握っていた武器を軽く撫で、
「手応え無いけど、これで終わりかな」
確認するように少女を見る。クルトは答えるように首を縦に振り、
「レム! た、助かった〜。あたし一人で片づけるのは骨だったのよ」
嬉しげに少年に駆け寄った。
「何してるの。というより、何で魔物がここに出てるの」
そのまま飛びつきざまに回そうとした腕をあっさりかいくぐり、骸を眺める。
避けられたクルトはたたらを踏み、ふて腐れたように小さく頬をふくらませるが、無視。
「……カルネの方じゃ出てこない魔物だね」
「強い方?」
完璧に無視されふてつつも尋ねる。
「弱くはないよ。丸腰の一般人じゃ太刀打ち出来ないだろうね」
抱きつきは無視しても、質問には答えてくれるらしい。
先程丸腰でない一般人がやられそうになっていたが、全く気にする事もなく、聞こえるような大きさで言葉を紡ぐ。前方を見ると先程の壮年の男性が血管を浮き上がらせ、びくり、と顔を引きつらせている。
多分一般人でも少しくらいは戦闘力を伸ばせ、とのレムなりの激励の言葉なのだろう。
少女はそう解釈して少年の方に目を向け、
「ふーん。あ、それ。そう、銃。銃って言う奴でしょ! 初めて見たー」
生返事を返し、レムが手に持っている筒状の物体に視線を注ぐ。数度口の中で名前を繰り返した後、楽しそうに掌を打ち合わせた。
「普通の人は初めて見るんじゃないの?」
はしゃぐクルトに、冷たい視線。
「む。そうだけど、もう少しこう……」
(言い方って言うモノが)
小さく唇を尖らせ、隣の樹に八つ当たりぎみに乱暴に手を付く。
ひねり潰すような音を立て細身とは言えない樹の幹がへし折れた。
痛いほどの沈黙が辺りに落ちる。
「ねぇ。術、解いてなかったね」
ゆっくりと少年の方を向き、
「あら。そ、そうね」
彼の元から冷たい蒼の瞳が更に冷え込むのを見、引きつり笑う。
砕けた樹の幹を眺め、
「それで飛びつこうとしなかった。殺す気?」
非難をたっぷり交え、レムが口を開いた。言い訳を模索するものの、良い台詞が思い浮かばず口の中でムグムグと言葉にならない呻きを転がす。
取り敢えず。
「あれ……えと。えへ?」
可愛く小首をかしげてみる。
しかし、目の前の少年がそれで誤魔化されるはずもない。
気のせいではなく辺りの空気の温度が更に下回った。流石に身の危険を感じ、慌てて別の話題を捜す。
視線が少年の手に握られた銃に向く。
「うう。あ、そ、そだ。その銃、なんか口が大きくない?」
「ん、ああ。これ」
苦し紛れに尋ねた言葉は、功を奏したらしい。
彼は少女の言葉に小さく指先を動かし、視線を落とす。
話に乗ったのは、怒っても無駄だと分かっているからかもしれない。
「あたしの知ってる奴は、まあ聞いた話だと親指位ほどだったような。
でもそれ、偉く大きいし」
(へぇ。鋭い)
心の中で小さく感嘆の声を上げ、もう一度銃へ目を向けた。
彼女の言う通り、この銃の口径は一般的なものよりも大きい。
大きさは親指と人差し指で輪を作ったぐらいか。
この銃を解体すると内側にもう一つ口径があり、グリップに付いたスイッチを少し操作をしてやるだけで口径の大きさが切り替わる。
並の弾丸が使えるようにしているため非常に面倒な構造をしているが、今のような雑魚には普通の銃弾で十分太刀打ちできる。
使わないから無意味だというとそうでもない。無駄に口が広いわけではなく、この武器には色々な事情がある。
色々な、事情が。
「まあ、気にしないで。そう重大なモノでもないしね」
だが、告げるほどの事でもない。そう心の中で呟き、少女を見る。
それに、彼女がこの銃の本当の役割を見る時はそう遠い話ではないだろう。
何しろ少女の側に居ると、こういう事態ばかりなのだから。
「とにかく。これ一体どういう事?」
ため息を吐き出し、尋ねる。
長い、長い沈黙の後、
「え」
紫の瞳を瞬いて、少女は間の抜けた声を漏らす。
「この魔物の量だよ。君が関わってるのは間違いなさそうだね」
地面に倒れたままもう動かない魔物に視線を落とす。クルトはどことなく逡巡するように曲げた人差し指を唇に当て、
「関わってないと言えば嘘になるけど。直接的なモノじゃないわね。
兎に角その樹、見てもらえば分かると思うけど」
ちらりとレムの瞳を見た。
レムは少女の視線の先をたどり、辺りの樹の様子を暫く見つめた後、倒れた大木に顔を向ける。
「この樹が一体どうしたの。確かに大きな」
疑問の言葉が、そこで途切れた。
彼も気が付いたのだろう。少女が本当は何を指していたのか。
「―――これは」
倒れた樹に近寄り、微かに眉をひそめ、呻く。
「たしかに、これが効果を及ぼしていたとしたらこの状況も」
剥がれた木の皮を取り上げ、小さく零す。
術を苦労して解除した少女が片手を樹に付く。
「そうよ。杞憂であってほしかったんだけど、悪い予感当たっちゃったみたい」
きちんと解呪出来た事を確認し、空いた手で頭を掻いた。
ばり、と枝を踏みしだく音に目をやる。先ほど煙草をくわえていた壮年の男性だ。
無骨な顔は側にある魔物の壮絶な死骸と、先ほど味わった死の恐怖で青ざめている。
相手が自分より年下で、その上女子供だとかそんなものは錯乱状態に近い男には関係ないのだろう。クルトの羽織った新緑色のマントを荒々しく鷲掴み、
「おい、一体どういう事だ!? 魔物は出るわ殺されそうになる! お前のせいなのか!?」
恐怖と怒りで引きつった顔で詰め寄った。
普通なら叩きつけられた怒声と剣幕で身がすくむはずなのだが、少女は別段恐れたような顔をせず、少しだけ迷惑そうに引っ張られているマントを眺める。
まいったなぁ、とでも言うように頬を掻き、
「あ。まだ居たのね。いや、あたしが悪いというか。うーん」
ぴしぴしと相手の手の甲を叩いて、放せと一応催促する。男はまだ興奮が収まらないのか、マントが解放される気配はない。
だが、場違いに冷静な二人を見て理性が戻り始めているらしく、呼吸は先ほどより落ち着いている。
「この樹、切ったんだ。またややこしいことになってるね」
タイミングを見計らったように、レムの言葉が滑り込む。
「あ、ああ。何か、この樹を切ったら何か問題でもあったのか」
男は、はっと氷水を頭からかぶせられたような顔をして、頷く。
手の力が緩み、漸くマントの束縛が解かれた。しっかりと掴まれていたせいで見た目の悪い皺が深々と刻まれている。少女は疲れたような顔で布を引っ張り、軽く叩いて皺を伸ばす。
その様子にはかまわず、言葉を続ける。
「問題あるよ。君たちには分からないだろうけど……」
蒼い瞳に映るのは、倒れた大木。
僅かに瞳を細め、幹に刻まれた文字を静かに指でなぞる。
幾つか歪んではいたが、輪を作るように、均等に文字が配列されている。
レムは疲れたように吐息を吐き出して。
「この樹、強い結界になってたらしいね」
大木を指さし告げられた言葉に。二人以外の全員が、絶句した。
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