八章/選択肢というもの

 

 

 

  

 静かなドアのノック。『朝です』の一言だけ残して彼はただ私を待つ。
 食堂の隅に腰掛けようとすると椅子を引き、座ると戻してくれる。
 食べ終わった食器はしずしずと片付けられ、会話の合間にお茶が程よいタイミングで差し出される。
 プラチナも、マインも、アニスさんも、戻ってきたらしきダズウィンさんすらもう呆れた瞳でそれを見る。
 アベルは我関せずといった調子で黙々と食事を続けている。
 誰も何も言わない。私の表情で言葉を飲み込んでいるらしい。
 堪忍袋の緒は痙攣を続ける。もう我慢ならない。いい加減にして欲しい。
 差し出された白い砂糖壺。それは放っておき、すぐさま引っ込もうとした腕と長い袖を掴む。
 ぱちりと瞳を瞬いてようやくシャイスさんが顔を上げた。
「何か、不手際でもありましたでしょうか」
 脅えたような台詞にカチン。砂が奥歯に挟まったような不快感。
「ちょっと話しましょう、良いですねお話をしましょう。ていうか表に出ましょう」
 控えめさもここまで来ると嫌がらせだ。もう腹を割って話をするしかない。
 マナではないけど決意が揺らぐ前にそうと決めたら即実行だ。
「え、あの、その、カリン様。お話ならここで」
「二人っきりでトコトン話し合いましょう!」
 シャイスさんのしおれっぷりを眺めていた彼らは私と同じ事を感じていたのだろう。拉致に等しい強引な連れ出しを誰も止めはしなかった。



 音も立たない厚い絨毯を小走りに走り抜ける。最初は戸惑い気味に「まって」や「ちょっと」を繰り返していた彼の唇からは荒い息が聞こえる。
 見えないが直線でも微妙に傾斜を繰り返す廊下をひたすら進むのは運動不足のシャイスさんにはツライらしい。
 人が居ないことを確認し、近場の空き室に彼の背を押して一緒に入り込む。候補者どころか使用人すら不足しているので空き部屋は山のようにある。自分の部屋を探すときには恨んだものだが、今は逆に好都合。
 ぜぇ、ぜぇ、と切れ切れの息を吐き出す肩を眺め、扉を閉じて溜息と言葉を吐き出した。
「貴方はずるいです」
「え」
 フードを被っていない彼の瞳が薄闇で輝く。口元を抑えたまま、彼は呆然と振り向いた。
 自分のやっていることに自覚がないらしい。分かっていた事だが腹も立つ。もう一度強く言葉を紡ぐ。
「シャイスさんは酷い人です」
「は、はい」
 余り大きな声を出さない私の過激とも言える台詞に慌てて振り向いて、姿勢を正す。
 なんだかもうそれすらも腹が立って仕方がない。
「何で優しいんですか。何で気配りするんですか。どうしていたわるんですか」
 こめかみ辺りで血管が疼くのを感じつつ、奥歯を噛む。
 気配り、労り、素晴らしい。そう、素晴らしいじゃないですか。と普通なら言える。
 私が平常心を保てる程に普通であれば。
「それは、私が悪いからで」
 ギリ、と聞こえないように噛み締めていた奥歯が脳を震わせる。胸元を掴んで寂しそうに呟く彼にただ、苛立つ。
 優しいって良いことだと思っていた。だけど、こんな時は優しいのは罪だと思う。
「召還者はもっともっと胸を張って私が一番偉いのだからって言えば良いんです」
 鞭のように言葉を吐き捨ててやる。
 泣きたい。泣けない。泣いたら彼は黙ってしまうから。自分を責めて私はもう何も言えなくなるから。
「え、でも」
 たじろぐ彼に追撃を止めない。このままでは私の気持ちだって晴れはしない。彼の態度に耐えられる自信もない。
「それで、私のことなんか馬鹿にして役立たずめとか普段一杯言えば良かったんです」
 そう、役立たずって言ってくれればいい。私のことを罵ればいい。
 オロオロするシャイスさん。
 だから、私は泣かずに言うのだ。彼が偉そうな人であればと思う。
「そんなこと」
 泣き出しそうな顔に良心が絞められる。泣きたいのは、私です。なんで彼が泣き出しそうになるんだろう。
「その位されないと! 私、貴方を殴れないじゃないですかっ」
 涙腺から出そうな涙を飲み込んで吐き出す。そう、殴れない。
 私は、彼を殴れない。どんなに優しいか。どんなに他人を傷つけないようか考える人だから。今は、それが全て逆の役割を果たしている。
「ずるいですよ。もうそんなに反省されてたら、私貴方を罵ったり出来なくなるじゃないですか。酷いじゃないですか。
 いっぱいいっぱい文句言いたいのにそれも出来ないじゃないですか!」
 書きかけの誓約書。それにサインをした私も悪い。だけど全部悪い訳じゃない。シャイスさんとフレイさんを憎んで還せ、嘘つき、大嫌いと吐き出す。その位の権利はあるはずだ。
 なのに、彼は私の手を振り上げさせることもさせないんだ。酷すぎる。これが悪でなくてなんだと言うのか。悪女じゃなくて悪い男だ。
「――あ。その、すみません」
 はっとしたようにシャイスさんが頭を下げる。全然分かってない!
「ほらまた謝った! へりくだられるのも、ペコペコされるのももうウンザリです。前言いませんでしたか。
 シャイスさんを責めて、私は帰れるんですかって。アレも嘘ですか、違いますよね」
 びし、と指を突きつけて容赦なく言い募る。こくんと彼が頷いた。
「はい」
「なら、私は貴方を責めません。やっぱり絶対に帳消しにはしませんけど」
 全て絶望に包まれた初めての召還日。彼に告げたその時と同じ言葉を投げる。もうここまで来た、本一冊で謝罪一つで帳消しになんて出来ないのは分かり切ってる。
「カリン様」
 突かれたようにシャイスさんが法衣の胸元を握り、言葉を飲み込む。
 甘いです、何もしないとは言ってません。悲しそうに俯くシャイスさんのフードを思い切り下げる。
「痛い、いた、いたたたたた。ちょっ首が、カリン様やめ」
 痛いのは当然。何しろ力は加減していない。
「シャイスさんのバカバカバカバカ。馬鹿大馬鹿ッ」
 その後頭部にバシバシと平手で軽く往復ビンタも追加する。
「カリン様そんななんども――」
 涙声になったのを確認して手を放した。ふう、と息を吐き出す。何となくすっきりした。
「と、これで私の気は少し晴れました。良いですか、もう召還したことを謝らないで下さい。
 前みたいに何時も通りの過保護なシャイスさんで居て下さい。覚悟も決めてきましたし、私は、そんなに簡単に折れる鉄でもありません」
 涙目になったシャイスさんが叩いた頭を触って、唇を引き結ぶ。
「カリン様――」
 僅かに躊躇った後、彼は私の名前を口にした。
「あの。まだお時間良いでしょうか、話をまだ続けたいんです。余計なお世話にしかならないかも知れませんけれど、それでも」
 どうしても、言っておきたいんです。と告げる彼に、私は静かに頷いた。きっとシャイスさんは何か今決断したんだと思うから。
「これは真剣なお話です。ですからどうか、少しでも心の隅にでも留めて置いて下さい」
 真っ直ぐに見つめてくる灰色の瞳に、自分の判断は間違っていなかったと悟った。声の代わりに私はもう一度小さく頷いてみせる。シャイスさんが少しだけ嬉しそうに微笑む。
 ずいぶんと見ていなかった気がする彼の笑顔に、ちょっとだけ気持ちが柔らかくなった。

 

 

 

 

 

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