大地と水晶-11





「ま、待ってよっ」
 扉を跳ね上げるように開いて、滑るように進む背に向かう。暗い場所から抜け出た瞳に明るい光が差し込み、痛みを覚える。
 景色が僅かにぶれたせいで、駆ける足が少し遅れた。
 気が付くと、少年の背が随分遠くに見える。先程のロスを差し引いても、随分引き離された。
「ま、まってよー。ちょっ、は、早いッ」
 待ってと片手を上げ、弱音を吐く。
(また一段と早足になってない!? せ、成長期って奴かしら)
 ここ五年で随分成長期は見せつけられたような気もしたが、まだ先があるらしい。
 そう言えば昔は同じ位の背丈だったなぁ、と懐かしむ。
 昔と言っても五年しか経っていない。だが、今では遠い思い出だ。
 遠い昔に思いを馳せていたせいで、また歩みが遅れた。レムはあれだけ栄養不足というか不健康な生活をしているのにこの差は何だろう。
(うう。同い年なのにー)
「はーはー。く、苦し。ま、まってよぉ」
 考え事をしていた為、ペース配分を間違えてぜーぜーと息を切らせる。
 その様子に気が付いたのか、ゆっくりとした足取りで引き返してきた。
「ん。どうしたのそんなに息切らせて」
 いけしゃあしゃあとした言葉に息を切らせつつ、歯を剥く。
「誰のせいよ!」
 沈黙を挟み、
「誰のせいなの?」
 尋ねられた言葉にうっ、と喉を詰まらせた。
 息を切らしたのはレムを追いかけていたせいだ。だが、勝手に追いかけたのは少女の方。ペース配分を間違えたのも彼女自身が思考へ意識を向けていたせい。それを考えると少年に非はないだろう。
「……だ、誰のせいでもないです」
肩を落とし、呻く。
「そうだよね」
「うぅ。あ、そうだ」
「ん?」
 『本』と 言いかけて言葉を飲み込む。
そう言えば先程本を強奪されて買われた。目的は何だろう、と思考を巡らせる。やはり、からかわれるだろうか。きっとからかわれるだろう。
 からかわれなかったとしても呆れたような顔をされて、『こんなのも分からないんだね』とか言われるに違いない。
 もしくは『研究所に置いておくから。興味があれば読みなよ。読ませてあげるから』とかさらっと言われる。きっと。
 その後『簡易絵本に本棚のスペース取られて邪魔だけどね』とか何とかキツイ台詞が飛んで来るに相違ない。
(レムの性格を考えるに……あり得る。絶対言われるに決まってる)
 嫌な想像がぐるぐると頭を巡る。良い想像が浮かばないのは、今までの実体験のせいか。
「な、なんでも……ない、です」
 ゆっくりと首を振り、引きつった笑顔を浮かべる。
「本のこと?」
「いやあの、その。そんな……事無いと言うか何というかえーと」
 ズバリと指摘され、ばたばたと両腕を動かす。脇を過ぎる通行人が迷惑そうに顔をしかめたが、少女にとって今は些細なこと。しどろもどろに回らぬ舌を動かして、何か言葉を紡ごうとするが頭の中で組み立てる先から言葉がバラバラに解けてまとまらない。
 あわてふためく少女の額に、袋に入った本の表紙がこつんとぶつかった。
「いた!?」
 痛みより驚きで悲鳴を漏らし、見上げる。呆れたような蒼い瞳。
 額には固い本の感触。
「ん」
 すっと額から本を外し、クルトへ差し出した。
「ふえ?」
訳が分からず間の抜けた声を漏らし、袋を見る。ぼけーっと眺める少女に苛立ったか、袋を押しつけるように手に乗せる。
 取り敢えず、固まっていても仕方がないので少女は頭上に疑問符を浮かべたまま受け取った。
 封を開き、覗き込んで表題を確認する。先程の本だ。
「……えと……あの」
「あげる」
 端的な答えにぽかんとなる。
「…………」
 勘ぐるまえに彼が口を開いた。
「全く、あんまり気負わない方が良いよ。
 君は見た目に反して結構責任感強いみたいだし」
「気負ってるように、見えた?」
「少しだけね。第一、魔術なんて短期で覚えられるものじゃないんだから、気にする事じゃないよ。苦手な属性なら、なおさらね。とはいえ、僕はその場には居なかったけどね」
「……でも」
「君は普通の人より飲み込みが早いから気が付いてないだろうけど、人によっては魔術の属性を一つ覚えるだけで莫大な時間が掛かるものなんだよ」
「…………」
「けど、やっと苦手科目に目を向けたでしょ」
「え……うん」
「そのご褒美だよ」
「あ……」
 一瞬。少女の肩から力が抜ける。
「あ、そうそう。ついでにもう一冊あげる」
「え、っと」
 押さえつけられたもう一冊をずり落ちないように大事に抑え、控えめにレムを見る。
 にこりとも、愛想のある態度は返らない。彼はただ、いつものように無感情に肩をすくめただけだ。
「僕はもう少し必要なものがあるからもう行くけど、あんまりウロウロしないようにね」
 言う側から背を向け、去ろうとしていた。
「う、うん」
(あ、そうだ。何入れたんだろ)
 袋に手を差し込み、重い本を引きずり出す。なんだかワクワクした。蓋を開けるまで分からない、宝探しをしているような小さな期待感。昔、ルフィとスレイ達を連れだって、ごっこ遊びを良くした覚えがある。
(そう言えば、埋めた本人も場所忘れちゃって。全然見つからなくてずっと土の中ーって言うのもあったわね)
 思い出し、苦笑する。子供の精一杯の宝物を入れて、無くして。それでも懲りずにもう一度。
 あの小さなおもちゃの数々は何処に行ったんだろう。木製の物もあったから今頃形も残ってないかもなぁ、と表紙に連ねられた文字に視線を注ぎ、笑みを浮かべたまま硬直した。
 題名は『スライム脳でも理解できる制御と精神集中法』。
 スライムというのは魔物の一種で世界最弱と言われている。おつむの方はと言えば大体がお世辞にも良いとは言えない。鳥と肩を並べられるかどうか。
 いや、スライム脳と言うことはスライムのように、脳みそが半透明で柔らかくて、中身が透け透けのぷにぷにで……どちらにしても良い意味ではない。
 要約すると『猿や鳥、か。それ以下でも理解できる制御と集中法』か。
 冷たい水を顔面から被せられたように、やんわりとした思い出から強制的に現実へと引き戻された。握りしめた指がふるふると震える。かちぃーん。と脳みその奥が砂利を合わせたみたいな耳障りな音を立てる。
「レ、レムーーーーーーーーーッ。あんたねぇっ!」
 唇から尻上がり気味の呻きが漏れた。
「何?」
 絶叫に近い呼びかけに、少年は白い獣の耳を片方だけぴくりと動かし、立ち止まる。
 ここで怒鳴るのは簡単。題名は悪意に充ち満ちていたが、レムの気遣いは何となく分かった。しばらくもごもごと唇を摺り合わせ、
「…………その。ありが、と」
 クルトは視線を僅かにずらして、反抗期の少年みたいなぶっきらぼうな台詞を吐いた。
「どういたしまして」
 身体は動かさず顔だけを向け、型にはまった返事。
 いつものことなので気にはしない。 
「……でも、一言、じゃなくて題名選択悪すぎだわ」
 題名は気になる。ぷう、と頬に空気を溜めて睨み付ける。
「間違っては居ないと思うけど」
「どぉいう意味よ」
 意地の悪い答えにクルトの頬がますます膨らむ。
「さあね」
 相槌もやっぱり意地が悪い。追撃ついでに噛み付こうとしたところで、するりと蒼い後ろ髪をなびかせ、人混みの合間に紛れる。相変わらず勘も良い。 
 文句を数度口の中で呟いて、
「うー……ひねくれ者め。えと…………ありがと」
 ささやき程の感謝の言葉。聞こえたのか、手袋のはまった片手が人々の頭から覗く。 
 すぐに引かれた腕の場所を目で追いながら。今まで感じていた不快感が随分薄れていたことに漸く気が付く。
「うん。あり、がとね……」
 一瞬驚いた後、少女は見えなくなった少年に小さく微笑んだ。



「うーん。あれって、応援なのよね。レム的には」
 多分そうなのだろうが。まともに聞くとキッパリと否定されるに違いない。
「ちょい重いわね。あんまりウロウロ出来ないか」
 ずり落ち掛けた紙袋を持ち直す。紙の素材は良い物ではなく、汗ばんだ掌にざらつく感触。たった二冊の重みでふらつきそうになりながら、何冊も積み上げられた本を思い出す。
「……涼しい顔してるけど結構裏で努力してるのね。あれでも」
 薬草学に天文、哲学。医学ありとあらゆる題名が並んでいた。あの少年の賢さは分かっていたが、表面ではあまりああいう本を読まない。内心驚きを隠せない。
 そして、驚いていた自分に顔をしかめる。
「ふう。あたしも言う割に妙な先入観持っていたって事か。悪いコトしちゃったな」
(レムが見た目より楽してないって、分かってたはずなんだけど、ね)
 見た目もだが、レムは言動も大人びていて自分と同い年と言うことすら忘れそうになる。ただ、時折ああした気遣いを見せてくれ、思い出す。変わらない年齢なのに教師をこなし、自分よりも知識を蓄えていることを。時間は同じだけ流れている。それでも差が縮まないのは彼がそれだけ努力していると言うことなのだ。 柔和な笑顔なんてみられなくとも彼は彼なりなりに気遣いと言うモノを持っている。それを僅かなりとも周囲に知らしめれば環境はガラリと変わるはず。いや、絶対に変わる。
「ああいうこと普段からやってくれれば少しは周りの目だって……いや、いかん。校長と同種になってしまう」
口の中でブツブツと呻いたが、そこで止まる。普段からやればいいモノではない。
 校長のように辺り構わず気遣いし、優しく接する。レムが? ありえない。
 というよりイヤすぎる。彼は彼のままで良いかもしれない。勝手に結論を下し、いつの間にか進んでいた足を止める。
「レムからくれたの、そういやこれが初めてよね」
 なんとなくぼーっと表紙を眺める。お間抜けそうなサルらしき物体が本を、バナナをお供に開いている。題名はやっぱり『スライム脳でも理解できる制御と精神集中法』だった。
「初めてのもらい物がご褒美で、魔導書で、付け足しの題名がこれだなんて」
 腹は立つ。腹は立つはずなのに口元から笑みが消えない。
「あはは。なんか、凄く。レムらしいと言えばレムらしいわね」
 ついに吹き出してしまって、胸のつっかえも一緒くたに吹き飛んだ。
「あーもう、変に深く考えてたの馬鹿馬鹿しくなっちゃったわよ。
 ま、題名のお返しもかねて明日もう一度お礼と諸々言わなくちゃ」
 ムカツクのに清々しい。何だか複雑な気分。だけど嫌な気はしない。
「でもちょっとムカツクから頬でも引っ張ってやる」
 脳裏に意地悪な声でむっとするほど平たい表情のレムが浮かぶ。あの涼しい顔に一発喰らわせよう。乙女の仕返しとか、可愛さ余って何とやらという奴だ。
 くすくす笑いが収まらぬ内、
「ん?」
 ふと。ちらりと影が視界を横切り声を漏らす。
 その方向には誰かが居た。遠目からでざっとしか分からないが、年の頃は多分クルトよりも三、四。もしかすると五程上だろう。
 淡い柔らかな金髪は陽を一杯吸収した稲穂のように輝いて。瞳は泉の底にある清水みたいにすんだ蒼をしている。人を選ぶと思われる白を基調とした服は彼に良く似合っていた。
 腰には剣を携え、素朴な空気を発しているのに、この村には似つかわしくない垢抜けた雰囲気を持っている。まあそれは良い。外見はともかく彼を注目すべき点は行動だ。
 買うつもりは無さそうなのに何度も何度も市場を往復している。雰囲気が雰囲気なのに野菜の並んだ市場におり、更に剣まで携えているため、違和感倍増。当然目立っている。
「何だろうあの人。というかアレは」
 思わず疑問が唇をつく。並べられた野菜をしげしげと眺め、流れ行く人並みに視線を移し。そして積まれる荷に顔をほころばせる。掛け値無しに怪しい人だった。誰もが不審げに見つめつつも注意しないのは彼の纏う牧羊的な空気もあるが、瞳に全く邪気が無いせいだ。市の果物や野菜達に穏やかな春風に似た目線を送っている。
 本人は周りの視線に頓着していないのか。それともまったく気が付いていないのか。子供のように嬉しそうな顔で野菜を見つめる。店の人達もかなり声を掛けづらいことだろう。現に彼が声を掛けられるそぶりはない。
 駆け寄ればすぐに背を叩ける距離に居る。が。避けようと思えば今すぐにでも避けられる距離。
(……無視。した方が良い? 良いのかしら)
 近頃――いや、もともと自分は妙な連中とオトモダチになりやすい性質があると気付いているため、この距離は迷う。離れた方が良いのかクルトは自分の胸の内に聞いてみる。
 道行く人々は誰も関わり合いになりたくないのか、首を反対側に向けて雑談をしながら去っていく。誰もかれもが大声で天気の話ばかりというのが違和感ありまくりなのだが、その青年は気が付いていないらしい。隣にいる人々に律儀に手を振っていた。
 別に見も知らぬ青年が青虫のごとくキャベツが好きで、人物観察を至上の喜びとしていたとしても何の問題もない。自分に危害が及ばないのなら。そう、そうだ。レムではないが、全然関係ないのなら誰が何をしていようと関係はない。
 とクルトが自らを納得させていた時。青年はふわりと顔を上げると、物珍しそうに眺める少女の視線に気が付いたのか、一瞬躊躇うように止まり控えめに手を振ってくる。
 近くにいる男友達からでは滅多に見られないであろう優しげな微笑みが眩しい。同じ金髪なのに微笑み方が校長とは偉い違いだ。全く悪意のない。アクの無い素直な笑顔。それだけでも手を振り返したくなるのにじっとこちらを見ている。
 カンケイナイ。関係ないと自分に言い聞かせ、数秒と経たないうちに少女の心は陥落寸前。弾けんばかりの笑顔で手を振りかえしそうになる衝動を抑える。
(ああどうしようこっち見た。えっと……あー……仕方ないわね)
 けれど、彼の様子があまりにも一生懸命で、少女の良心が根をあげた。
 待ちかねているらしいのもあるし、何だか子供のようで色々と涙を誘う。無視するのも躊躇われるので小さく手を振り返す。
 余程返されるのはまれなのだろう。綺麗な瞳を大きく見開くと、相手は酷く嬉しそうに激しく手を振り返してきた。
 顔立ちよりも行動や表情が幼い。無邪気と言っていい。声をかわしてはいないが実は自分と大して年が離れていないのかも知れない。
 少女は思い――そして。身体に突き刺さる違和感に現実へ引き戻された。集まる視線。振り向けば背けられる人々の顔。
(いや。なにしてんのよあたしは!?)
 笑顔のまま思考が引きつる。野菜観察が趣味の目立つ奴とかわす少女はどう映るか。
 無論。
 ルイトモ。というか類は友を呼ぶという意識が集団的に広がる。いや、無言の暗黙の了解? 簡潔に言うならば、
(嫌あああ。なんか同類視されたーーーーみんな変な奴って見てるーーー)
 そういうことで。少女もめでたく変人とみなされた。
「うぐぐ」
 視線が痛い。何よりも光り輝きそうなほどの純粋な蒼い瞳が痛い。
 そう、彼が居る場所も空虚な空間から人々が顔を見せ、こちらを見ては言葉を交わして口々に『なにあの子』『近寄っちゃダメよ』『そうだよ。目を合わせてはいけないよ』とか言い合ってるのが心に刺さる――って。
(居ないし!?)
 人が激しく好奇の視線にさらされているのに、原因は忽然と消えていた。
 ばっ、と何度かかぶりを振るように辺りを眺める。波が引くみたいに人が後ろにずり下がるが、もうこの際気にしない。
(居た)
 そう遠くに移動していなかった。今度は屋台の側で物珍しそうに口の大きな魚を眺めている。面白そうなモノがあったのでこちらに移動したのだろう。そう考えると好奇心が旺盛すぎる子供みたいだ。砂にまみれてパクパクとエラを動かす不気味な魚を不思議そうに見つめている。
 ――あれって……たしか。
 この大陸で競りだされるのは、別段珍しくはなかったが、少女は駆け出すように屋台へ向かった。切れ切れの会話が聞こえてくる。
「よっ。兄さんこの村のモノじゃないだろう」
 店の店主。オヤジさんが口を開いた。無精髭がちらほらと顔を覗かせ、薄くなった頭皮が夕日を照り返す。薄汚れた緑色のエプロンに砂が付いている。他は売れてしまったのか、台の上には見本品の口の大きな魚が一匹だけ乗っかっている。体長は尾を含めてクルトの身長の半分か。青年はちらちらと魚を見つめ、口元を小さく動かす。
「え。あ、ああ……うん」
 歯切れの悪い返答に一瞬屋台のオヤジさんは首を傾けたが、それもすぐさま満面の笑みに変わる。クルトも顔見知りだが、人の過去には余り細かくこだわらないおおらかないい人だ。いい人なのだけれど、それが全て良い方向に行くとは限らない。今現在は良い感じで逆走中だ。
「生きたこの魚を扱うのは世界広と言えこの村位。珍しいだろ。
 ほら、このぬめった肌とかがなんか可愛いとは思わないか!?」
 何故か幸せそうに青光る魚の皮を片手で叩く。常人には理解不能な感覚だが、彼はそうでもないらしい。考えるように顎に手を当て、
「え。あ、ああ。そうだな。奇妙な魅力にあふれていると思うが。愛玩用なのか?」 
こくんと頷く。クルトとしては顎よりも額当たりに手を当てたい心境だ。
「いんや。こう、さばく時の手触りとかがなあ……こう。何とも言えない弾力と刃触りで」
「そ、そうか」
 流石に引いたのか、声が微妙に引きつっている。台に乗せられた魚の砂にまみれたエラがかぽりと開く。
「おっ。そうだ!! 兄ちゃんちょっと生の奴持ってみるか。めったに出来ない体験だよ」
 いちいち相槌を打つ彼の事が気に入ったのか、オヤジさんは無精髭を撫で、にかっと笑う。
「え。しかし……商品が傷むのでは」
 躊躇う青年。魚は熱に弱く、触れるだけで弱る。魚の種類を知らずとも、その位の知識はあるらしい。
「良いから良いから。その位でくたばるような魚じゃねえからさ。まー良い経験だと思って一丁抱えてみなって」
「そ、そうか。では、遠慮無く」
 大きく手を振って快活な調子で答えられ、彼も興味があったのか白い指先を伸ばし。
「待てええええええええええ!! 待った。そこ待った。
 ちょっと待った。手を止めんかーーッ」
少女の悲鳴がすんでの所で待ったを掛けた。びくっと指先を跳ね上げて、青年の動きが止まる。
「おおっ。なんだクルトちゃんそんな息を切らせて。触りたいのか?」
 ぜーはーと肩を揺らし、次の言葉すら紡げない少女に悪気のないオヤジさんの声が掛かった。平和ボケした空気を撃ちおとすように、ギッと睨みつけ、
「違うッ。知らない人になんてモンさわらせようとしてるのよ!?」
 魚を指す。相変わらずうねった蛇みたいな青い身体をヌラヌラ動かしている。エラが瞬くたびにぽふ、と砂が舞う。
「ヨヨヨ。酷いクルトちゃん。かわいいかわいいコイツを愛でさせようとしてなんかいけないのかい」 
「いけないわよ。そういういらんサービスは魚知ってる人に言いなさい。あなたもね、そうホイホイ触っちゃダメでしょうが」
 泣き崩れる振りをしているオヤジさんにキツイ視線を返し、ついでに青年に向かって一言。
「え、あ。ああ……その。すまない。珍しくてつい」
 言い返すと思いきや、相手は大人しく頷いた。落ち着いた穏やかな声音。
 聞き分けの良い態度にペースを崩されつつ、口の中で言葉を転がす。
「そうね。今回の場合おじさんが全面的に悪いわね」
「ええっ!?」
「良く分からないが。その人を責めないでくれ。そう大したことをされたわけでも無いのだし」
 よく分からないらしいのに庇う青年。クルトは眉を寄せ、ポリポリと頬を掻く。
「あー。うん。知らないんだったわね。ちょっとコレ見なさい。きっと考え変わるから」
「どういう事だ」
 きょとんと瞬かれた蒼い瞳に引き込まれそうになり掛けたが踏みとどまる。この店のオヤジさんが用意したのだろう。"あの演習用"の太い木の枝。断面はクルトの腕ほどもあるか。ここまで太いと丸太かも知れない。それを驚かせないよう見本の魚の口元に近づける。 口先に側面が触れるか否か。と言うところで。
 ゴリン。
 いい音がした。抑えているだけなのに、少女の腕が跳ね上がる。
 さらにバキン、ゴキン。とスゴイ音が鳴り響く。全て魚の口元からだ。 
 身体の大半を占める口から伸びたうす茶色の牙が太い木をかみ砕き、咀嚼する。
「この魚は砂魚(サンドフィリシュ)。海じゃなくて砂の中で活動する魚で。ごらんの通り下手に触ろうもんなら船でも木でも噛み付くわ。人間の腕でも同じようにね」
 見かけはちょっと変わっているデカイ口の魚だが、普段は砂に潜り、鼻先に近寄るモノをなんでもかみ砕くというキョーアクな奴だ。肉食獣よりも酷いと言われる獰猛さで道行く旅人を恐怖に陥れている。
 腕に自信のある猛者(漁師)しか捕らない。大きければ大きいほど危険が増すため、今日はどこそこで人ほどの奴を捕った、等と不毛な競争をする漁師もいる。ある意味腕自慢の対象でもある。素手で触れるオヤジさんもスゴイのだが、調子に乗るのであえて褒めない。
「というわけなのよ。ご感想は?」
「危なかった。腕が飛ぶところだった」
 音に驚いていたようだが魚を眺め、彼は青ざめるでもなく感心するようにこくこくと首を縦に振った。全く緊張感のない様子にこめかみに痛みが走る。
「…………他には」
「ありがとう。おかげで腕がなくならずに済んだ。サンドフィリシュか。見たことはなかったのだがすごいものだな」
 こめかみに指先を当て、顔を引きつらせるクルトに気が付いているの居ないのか。ひたすら感心する彼。
「いやあの。おこんないの?」
 どっと疲れが押し寄せ、思わず尋ねた。
「なんでだ」
 真っ直ぐで痛くなるような視線。 
「普通。腕噛み千切る生物持たされ掛けたら怒ると思うんだけど」
 率直に聞かれてやや尻込みする形となる。クルトはなんでか肩身の狭い思いをしつつ、溜息混じりに言葉を吐き出す。
「……そうなのか。では、噛み千切られなかった僕は運が良いのだな。神に感謝しよう」
 なんかやはりちょっとズレている。
「…………いや。怒らないの?」
 確認するようなクルトの声に彼は首を傾けて黙考し、
「特には。ああ、しかし。危ないのでこれからは控えた方が良いぞ。そうだな、僕もむやみやたらに色々触らないようにする」
 またまたピントのずれた答え。
「そ、そう。もういいや」
 追及するのも訂正するのも突っ込む気力すら起きず、少女はおざなりに頷いた。
 本人が気にしてないのなら良い。一応噛まれなかったのだし。
 そうは思うのだが、唇から重い溜息が出て来た。青年は気が付いたようにクルトを見、
「それから――」
 言いかけて口ごもる。そわそわ辺りを見回すと、
「……と、済まない。急用を思い出した!!」
 今までののんびりした動作が嘘のような早さで人の波間に消えていった。
「あ!? いっちゃった……」
 驚く間もなく、今度は物々しい雰囲気の兵士が脇を掠める。武器と防具が擦れる金属音が耳を付く。
「なんだろ。警備の数増やしたのかしら」
都会であればそう気にならない数だが、田舎にしてはいささか多すぎる数に眉を跳ね上げる。まあ、別に自分とは関係ないと納得させ、オヤジさんを軽く睨みなおした後、また歩き出した。
 警備の数を気にしたところでどうにもならない。自分はただの村人なんだから。
 魔道師の見習いでもそれが変わることはない。
 何かが変えられるとするならば……城に認められるほどの力を付けるか、要人と親しくなるか。その前に自分が越えなければならない壁がある。
「頑張れば……何とかなるのかな」
 手元の本に視線を落とす。
「なんとか。しなくちゃ。出来ないよりも出来た方がずっと良いもの。
 しないよりした方が良いんだから」
「良いこと言うねクルトちゃん。よし、しないよりした方が良い。じゃあ俺は思いきって赤字覚悟で値段を下げるっ。さあっ、クルトちゃんどうする!?」
 一体何時から聞いていたのか。果物屋の(やっぱり顔見知り)お兄さんが熱く拳を突き出し、なんでか果物を突きだしてきた。
「えっ。え……えーと」
 いきなり展開される商売に付いていけずに視線を彷徨わせる。
「どうする!?」
 容赦なく詰め寄るお兄さん。
「ひとつ、ください」
 クルトは思わず引きつった笑顔でそう漏らしていた。
 ――まあ、いいか。
 結局。予定より重くなった手荷物に視線を落とし、少女は笑った。紙袋の中で鮮やかな野菜達が小さく踊っている。買い物客でにぎわう路地は紅に染まり、今日も喧噪が響く。
(平和ね)
 おまけに貰った赤い果実をかじる。固い外見とは裏腹に舌先で柔らかな身が解け、口内に広がる。ゆっくりと遅れて酸味が弾けた。
「あ」
 そこで少女は気が付いた。
「果物の名前。聞き忘れた」
 自分の大きな失態に小さく舌を出し、肩をすくめる。
 取り敢えず、しばらくこの平穏は続くのかな。何となくそう心で紡ぎ、もう一口。
 甘酸っぱい。リンゴに似ているが、桃のような口溶け。
 何となくかざしてみた果実の姿は、色のせいか欠けた夕日のようだった。 


《大地と水晶/終わり》




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