異様だった。
何が異様か? それは目の前の少女がだ。
いきなり人の顔を見るなり、恐らく移動する最中だったのだろうか、手に持っていたランチボックスを取り落とした。
鈍い音が床から聞こえる。
柔らかな物が潰れる音。
その音でようやく我に返ったか、悲鳴を上げて少女は頭を抱えた。
勢いよく頭を抱えたせいで、長めのツインテールが尻尾の様に揺れる。
「…………ああっ!? あたしのお弁当!」
「なんだその反応は」
ランチボックスの惨状を見、紫水晶にも似た瞳をちょっと潤ませている少女に、訝しげな視線を送ると返ってきたのも訝しげな視線。
僅かに逡巡するそぶりを見せた後、
「いやあの……チェリオ。さっき出ていったばっかりよね?」
こういってくる。
「は? 俺は今ここに来たばかりだが」
虚をつかれ、思わず素っ頓狂な声が青年の唇から漏れ出る。
それに構わず、いや、構う事すら念頭に無いらしく、ぎこちない言葉で話しを続けた。
「こう、入れ替わるようにチェリオとチェリオが……扉を開けて閉めて。
指折る暇もなく出現というか」
混乱しているのか、少女は両手をあらぬ方に指しながら早口でまくし立てる。
「わけがわからんぞ。頭大丈夫か?」
「いやだから、チェリオが出てきたのと同時に反対側の扉からチェリオが出ていったのよ!
本当なのよ! っていうかアンタチェリオなの!?」
ビシビシッ、と音が鳴りそうな程勢いよく、彼が今出てきた扉と、反対方向―――後ろの席側の扉を示し、続けざまに青年の顔に指を突きつけた。
「それ以外の何に見える」
不機嫌そうな言葉に、穴の開く程青年をじっくりと見つめ、
「その傲慢不遜な態度。本人に間違いないわね」
納得したように頷いて地面に落ちたランチボックスをそっと取り上げる。
「どういう確認の仕方だ」
「どうもこうも。そんな確認の仕方よ」
憮然とした声に答えながら、箱を確認するように蓋を開け、恐らく潰れていたのだろう。顔をしかめる。
噛み合わない会話に辟易した訳でもないだろうが、疲れたようにチェリオは嘆息し、
「…………昼間から人をからかうのも大概にしろ。
俺は眠い。そう言うわけで別の場所に行く。じゃあな」
「あっ、ちょっと!? あたし本当に――――もうっ!」
呼び止める前に喧しい音を立てて扉が閉まり、強制的に会話は中断された。
黒板を引っ掻くような五月蠅い抗議の声が後方で聞こえた気がしたが、チェリオは振り返らず教室から離れた。
そして、ある地点で立ち止まり、自問自答する。
「何故……俺はここに居るんだ」
深い、疑問の言葉。
「どうして、ここに居るんだ」
苦渋の混じった台詞。
自分でも分かっているはずだ、そう……ここを通らなければ目的の場所に進めない。
しかし。
視線をずらすと、淡いクリーム色の扉が見えた。
気配が、一つ。察知せずとも丸分かりの気配。
「ふんふんふーん♪ きょうは良い事〜あります〜」
脳天気な鼻歌交じりの声が、青年の耳には野獣の咆哮にも聞こえる。
「…………」
ごくり、と唾を飲み込む。
嫌な冷や汗が背中を伝った。
(何を怯えている……たかが女の。天使の一匹や二匹)
唇を噛み、息を殺す。
考えとは裏腹に、身体は全く逆の行動を起こしている。
かたり、と言う些細な音にさえ心臓が跳ね上がった。
(いや、相手は素人だ。完全に気配を消せば恐れる事など)
そう決心し、壁に張り付き、気配を殺し、廊下を進む。
「きゃーv うふふ」
不気味な笑い声に一瞬ビクリと身をすくませるが、声に意味はなかったらしく、鼻歌が続いた。溜め息を押し殺し、更に進む。
気がつかれた様子はない。
(よし、あと少しだ……いや待て、何故俺はここまで怯えて廊下を通らねばならんのだ) 壁に張り付きながら、自分の何処か弱気な思考を叱咤する。
しかし、気配を隠すのを止める事はしなかった。
(流石にまた注射と歌のダブル攻撃で三日三晩寝込むというのは嫌だな。
ここは大人しく気配を殺して通ろう)
決意して更に一歩ずれる。
そこで、僅かに扉の向こうの空気が変わった。
パタパタと慌てたように右往左往した後、
「あらぁ。そう言えば〜お水を汲みに行かないといけないんでしたぁっ」
ガラリ。脳天気な言葉と共に、横引きの扉が無情にも開かれた。
今までの努力が水泡に帰す。
「…………」
扉を開けた状態で相手が止まる。
迫り出すように広がった白い翼。柔らかくカールした淡い桃色の髪。
薄いショールから透けて見える肩口からは、白い腕が伸びている。
壁に張り付いたままという、サマにならない格好の青年と、天使の目が合った。今から逸らした所で遅い程にじっくりと見つめ合う。
先に声をあげたのは少女だった。
「……チェ、チェリオさんっ。まあ、いらしていたんですねぇ。
隠れんぼですかぁ?」
嬉しそうに声をあげたあと、赤みの差した頬に手を当てて首をかしげる。
「ま、まあ…な」
『気配殺してお前に気がつかれないようにしていた』というのはいくらなんでも無謀すぎるので、無難にそう頷いておく。
背中の羽を大きくばたつかせ、天使――えんじぇはモジモジと指を合わせて青年の顔をちらりと見つめた。桃色の瞳がうるうると潤んでいる。
「また私に会いにいらしてくれたんですかぁ? 感激です」
「いやそんなわけは…………ちょっと待て」
何処か上擦り気味の天使の言葉に否定をしかけ、こめかみに手を当てて待ったを掛けた。
「はい〜?」
いきなり会話を中断させられ、えんじぇはきょとんと桃色の瞳を瞬いた。
自分の聞き違いである事を望みながら口を開く。
「俺が、『また』来たとか言わなかったか?」
「はい、いいましたぁ」
震えるような声に、考えるように首を傾けたあと、えんじぇはにこりと明るく頷いた。
頷いた拍子に肩に掛けた薄手のショールがフワリと浮く。
「それは一ヶ月前とか一週間前とかそんな単位か?」
「嫌ですねぇ。つい……さっき、ですぅ。きゃ〜恥ずかしいです〜」
かすかに希望を込めた答えは、空気にとけ込むようにやんわりと滞空した天使の言葉によって打ち砕かれる。
よろめくように一歩引き、額を片手で抱えるように押さえ、思考を巡らせた。
軽い目眩と吐き気。まるで風邪の初期症状の様な感覚に襲われる。
(そうか、俺はクルトとさっき話していた間にコイツに会いに―――)
「な訳あるか!」
頭の中で展開された無茶な論理に自分自身へ突っ込みを入れる。
思わず言葉に出していた叫びにえんじぇは悲しげに顔を歪め、
「えぇっ? 本当なんですよぉ〜 信じてくださいぃ〜
先程だってわたしぃ……お花を頂けてとても嬉しかったんですからぁっ」
パタパタと羽を動かす。
パタパタと。
その音が嫌に耳につく。
「…………待て」
数秒程の間を置いて、出てきたのは掠れた声。
(俺が……誰に……何をやったと?)
「はい?」
チェリオの気も知らず、呑気に低空で滞空したまま天使は不思議そうに首をかしげた。
「待てお前。今何か聞き捨てならない事を言わなかったか?」
「そ、そんなに見つめないでください〜 恥ずかしいですぅ」
金にも似た双眸に射抜かれ、頬を抑えて恥ずかしそうに俯いた。
肩が転けそうなのを何とか堪え、
「そんなのはどうでも良い。さっき何か聞き捨てならん一言を聞いた気がするんだが」
「まぁ。チェリオさん〜照れていらっしゃるんですね。
確かに〜ついさっきの事ですしぃ。
私もー……恥ずかしいですぅv きゃー」
ひたすら話が横道に逸れる。何処か悪意のような物が混じっているのではないだろうか、と疑うも、やはり目の前の天使は見た目通りのほほんと羽を動かすだけ。
「あぁ……それは良いとして。俺が何を言ったんだ?」
疑心暗鬼のようなものに陥りながらも、重い口を開く。
桃色のカールした髪を上下になびかせ、
「うふふ。チェリオさん〜私にぃ。
お花を差し出して『今日も素敵だね』と微笑みかけてくれたんです〜〜っ。
きゃぁ、恥ずかしい」
わざとらしい黄色い悲鳴を上げながら、横目で青年を見る。
辺りの景色が一瞬白く塗りつぶされ、グラリと視界が揺れた。
頭部を強烈に殴打されたがごとく倒れ掛けた青年を訝しげに眺め、
「どうかしましたか〜?」
ゆったりとした動きで近づき、顔をのぞき込む。
「お……俺がそんな空恐ろしい台詞を口にしたというのか?」
だとすれば世界崩壊も間近だろう。
そんな事を考えながら天使の次の台詞を待つ。
「いいえ〜。でも、そんな台詞を今にも言いそうな雰囲気でしたぁ。うふふ」
意外にあっさりとえんじぇは首を横に振り、屈託無く微笑む。
どうやら台詞の部分は希望がこもっていたらしい。
「そうか。それは良か……いや良くないか。
誰だ人の姿でそんな恐ろしいマネをする輩は」
思わず安堵し掛け、首を振り、そこまで呟いてある事に思い当たる。
えんじぇの言葉は本当だろう。良く見れば手には白い花の束が握られている。
それに、嘘を言うような性格でもない。
と言う事は、さっきのクルトの台詞は事実という公算が高い。
思い切り鼻で笑ってしまったが、後々の事を考えると悪寒が走る。
去り際に聞こえたあの声からすると、確実に拳は喰らうだろう。
(……次会ったら逃げるか)
どうやっても『謝る』という選択肢は彼の中にはないようだった。
苦渋混じりの青年の言葉にえんじぇは首を傾け、
「どういうことですかぁ? あ〜〜」
人差し指を口元に当てたまま、ある一点に視線を止める。
「……?……」
のんびりとした声とは裏腹に、背後に不気味な違和感を感じ、恐る恐る振り向く。
軽くウェーブの掛かった金髪。切れ長の蒼の瞳。
細工の施されたイヤリング。
廊下には全く持って不釣り合いな煌びやかなドレス。
金の髪を掻き上げ、何処か見下すように彼女は薄く笑みを浮かべた。
「あら、あなた方ですの? こんな廊下の端で何をなさってますの?」
「げ……」
思わず呻きが青年の口から零れ出た。
今日は会いたくない人物によくよく当たる日らしい。
「エミリアさん、こんにちわ〜」
えんじぇは滞空するのにも飽きたのか、ふさりと床に降り立ち、頭を垂れる。
カールの掛かった桃色の髪が広がった。
「……あら。その花は」
呑気な天使の言葉にエミリアは一瞬眉を潜めたあと、手元を眺めて気がついたように目を細める。
えんじぇは含む様なエミリアの視線に気が付かず、とろける様な口調で花束に頬を寄せた。
「綺麗ですよね〜。チェリオさんから頂いたんですぅ」
「…………まぁ」
驚いたような言葉の中には、何処か軽蔑するような響きがあった。
トゲの様な浅いが、確実な痛みをもたらす視線にさらされ、チェリオはぐらつく頭を軽く抑え、
「いや、それは」
まだまとまりのない自分の思考を整理するため、口の中で呻くように切れ切れの言葉を紡ぐ。
エミリアの瞳が細められた。
「貴方。私に声を掛けるだけじゃ飽き足らなくって?
見下げ果てましたわね」
呆れたように腰に手を当て、金髪を掻き上げて一瞥する。
聞き逃せない台詞に、チェリオは微かに自分の顔が引きつるのが分かった。
顔の筋肉の痙攣を抑えるように軽く口元に手を当てた。
「…………待て。ちょっとマテ」
「何ですの?
貴方、お顔の造形がが少々宜しいからと言って調子づいているのではありません事?」 果てしなく身に覚えの無い言いがかりに、口元がまた僅かに引きつった。
キッ、と並の男ですら震え上がってもおかしくない程の殺気を、目の前にいる少女から叩き付けられながら、言葉を濁す。
「いや、そんな事言われても俺はしらんぞ」
知らないモノは知らないし。身に覚えのない事は身に覚えがない。
だが―――
「まぁっ!? シラを切る気ですの見苦しい!
私に向かって花束を渡そうとしたではありませんの?
忘れたとは言わせませんわよ!?」
忘れたと言うよりも、完璧知らないのだが、そんな事をいってしまえば喉笛を食いちぎられそうな程の剣幕だ。
「そ、そうなんですか?」
挙げ句、えんじぇですらなにやら少し非難じみた視線を送ってくる。
元々好意は寄せられている様子だが、信用はないようだった。
げんなりとしたため息を飲み込んで、
「いや、俺は知らん。花自体渡した記憶も無いが」
取り敢えずフォローの言葉を紡いでおく。
別に好意を持って貰いたいわけではないが、敵意をもたれたら持たれたで後々大変だ。
高圧的なエミリアの声に、更に冷たい重みが増した。
「……あら、それでは『私が』嘘をついているとでも仰って?」
「…………」
強調され、思わず押し黙る。
嘘を付いているとは思わない、が。
が、だ。
全てが全て本当というわけではないだろう。
本当だとすれば自分は重度の夢遊病者か何かだという事になる。
こちらが口ごもった所を好機と見て取ったか。勢いが増していく。
「見・下・げ・果てましたわねッ! 殿方にあるまじき無礼な行いですわッ」
ユラユラと髪の毛が立ち上って逆立ったように見えるのは、目の錯覚か。
(偽物が居ると言った所で信じて……)
もらえそうにない。
確実に。
(もらえんだろうな……ここは逃げの一手か?)
「やはりルフィ様が一番ですわね。私にはルフィ様以外釣り合いませんわっ」
(それにしても、何故ここまで激高しているんだこの女は)
逃げようと模索し始めていたチェリオの脳裏に疑問が掠めた。
いつもなら、『コレですから庶民は』と一笑に付す彼女が、妙に食いついてくる。
妙だな、と思いさり気なく顔を覗きみる。
「顔だけの殿方など、私鼻にも掛けません事よ」
「…………」
青年の疑わしげな視線……ただ単に眺めただけだが、疑わしげに見えたのか優雅に髪を掻き上げた後、
「少し気持ちが揺れ動いたなどという事実は全く持ってありません事よ。
お、おーーーほほほほほほほほ。お分かりになって?」
口元を覆うように片手を当て、しどろもどろの口調で告げたあと、乾いた高笑いを上げる。
動作は余裕そのものだが、口調には焦りが見て取れた。
微かに朱が差したエミリアの顔をちらりと眺め、軽く斜に構えて腕組んだ。
「……揺れ動いたのか?」
「そっ、そんな事ありませんわよ失敬ですわね!
私、ルフィ様以外の殿方には目もくれなくてよ!
ええ、そうですとも。
至近距離から見つめられたからと言って揺れるわけがありませんわ!」
ぽつりと呟いた青年の言葉が的を射て居たのだろうか。
ばっ、と片手を広げまくし立てて来た。
「いや……もう、好きにしろ。なにも言わん」
何か言おうと思ったが、彼女の慌てぶりと口調の激しさにウンザリし、口をつぐむ。
「た、ただ殿方の顔を間近で拝見したのは初めてでしたのよ。
そう、それだけですわ。決して別の意味なんてありませんから、勘違いしないで貰いたいですわね。理解致しましたの!? 何とか仰ったらどうですの?」
「だから。好きにしろと……」
耳を貫かれるような金切り声にげんなりとしながら、呻く。
毎回愛を高らかと語る割には、妙な所でウブらしい。
背後から、更に嫌な声が掛かった。
エミリアとえんじぇが世界崩壊の引き金だとすれば、この声の主は時空崩壊か。
失礼なチェリオの思考も知るよしもなく、髪をなびかせ駆け寄り、
「なにしてんのよあんたら。廊下の真ん中で……」
腰に手を当て、完全に呆れたような声。
かなりの時間を掛けて、青年は後ろを振り向いた。
紫水晶にも似た髪の色。
高めに結い上げられたツインテール。
腰に手を当てた拍子に絡み付いた深緑色のマントを軽く腕で払い、
「教室中に筒抜けよ。何事かと思っちゃったわよ」
軽く腕組みをして半眼でいってくる。
機嫌は悪く無さそうだ。いつもの様に話しかけて来ている。
「ったく……やれやれ。一体何なのよ二人でチェリオを挟み込んじゃって」
肩をすくめ、両手を言葉と同時に広げる。マントが広がり、ぬるめの風が頬を撫でる。
そこで―――チェリオとえんじぇから間の抜けた声が漏れた。
『あ』
「どしたのよ。二人とも口が鉄球詰め込まれたみたいにガバッと開いてるわよ」
きょとんと瞬き一つして、クルトは少し怯んだように両手を下げた。
その拍子に、何かが散る。
「……ぅ」
ようやく、チェリオにも二人の呻きの理由を理解出来た。
吐息混じりの呻きが自分の唇から漏れ出るのが分かる。
「どうしたのよ。三人してパクパク酸欠気味の魚みたいに」
凝固した3人を眺め、不思議そうに片手を振る。空いた手には白い花の束。
えんじぇが持っているのに非常に酷似している。天使の持ったその白い花は、長時間の会話によって水が不足してきているのか、だらりと首を下げていた。
「いや、そ……それは……」
焦りか動揺か、乾いた唾液が喉に絡み付く。
軽く頭を振り、
(落ち着け。落ち着くんだ。
何も花だからと言って全てが全て俺(の偽物)が渡したわけでもないだろう。
そうだ、花瓶に生ける為に摘んで来たのかもしれない。
連続して花を渡されたなんて都合のいい話があるわけ無…)
胸中でそう自分を落ち着かせる。
「え? 何言ってるの。チェリオがくれたじゃないの」
希望は敢え無く打ち砕かれる。
少女の満面な笑みによって。
一気に重みを増した空気に、困惑気味の表情でクルトは髪の毛を指に軽く絡め、
「アレ? さっきのお詫びかと思って……どうしたのよ空気が怖いわよ二人とも。
……しかも何故チェリオは打ちひしがれた様に壁に寄りかかるの?」
反対方向に指を動かして解いたあと、周りの様子を見て顔を引きつらせる。
「いや……。いや……気に、するな」
一歩引いた青年の背中が壁に当たる。
『…………』
黙した二人の少女は、良く見るとジリジリと間合いを詰めている様だった。
流石におかしいと思い始めたのか、ややトーンの落ちた声音で腰に手を当て、
「思いッ切り気になるわよ。その気まずげな雰囲気! 動き!
何故ドモるわけ?」
クルトは青年を睨み付けた。
横合いから妙に静かなエミリアの言葉が掛かる。
その視線の先は、片手に持たれた白い花の束。
「貴女、何時も校長先生から頂くお花は突き返すのに、どうして受け取ったんですの?」
「へ? いや、その……どうしてって言われても」
突然の質問に、酷く難しい問題を突きつけられた様な表情で、
「うーん、有り体に言えば、さっき口論した時のお詫びかなーと思って。
まあ、何時になく紳士的な態度だったから受け取ってあげても良いかなー…と」
軽く頭を掻き、何処か照れた様に笑みを漏らす。
直ぐあとに『あ、勘違いはしないでよ』と申し訳程度の釘を刺した。
だが、青年の視線が何処かあらぬ方向へ向いているのを見て、ムッとした様な顔に変わる。
「って、人の話聞いてるの? こらチェリオ」
指を突きつけ、追及しようとした少女の耳に、か細い声が入る。
「私……」
言って良いものだろうか、と悩む様にモジモジと指を合わせるえんじぇの姿が目に入り、クルトは訝しげに眉を潜めた。
「ん?」
絶望混じりの声がチェリオから上がる。
「あ、ちょっと待て。勘違いだ出来る限りコイツにだけは言うんじゃないッ」
身体中の血液が音を立てて引いていくのが聞こえる。
クルトは今は機嫌が良い。だが、この後の言葉を聞けば確実に機嫌は急降下するだろう。地に落ちる、いや潜ってまた上ってくるかもしれない。
怒りの頂点に。
軟派の類はクルトという少女が嫌いとするところだからだ。
(後が怖すぎる)
断罪、という言葉が脳裏を掠める。
自分が何をしたわけではないが、死刑宣告を待つ死刑囚の様な心境だ。
「私もお花……もらいましたぁ」
「私もですわよ。『勿論』突き返しましたけれども。おほほほほほほ」
最悪な事に、えんじぇとエミリアが間を置かず、言葉を続ける。
鼓膜を震わせる高笑いが、沈黙に後押しされ、長々と響いた。
「…………」
自体を理解しているのか、居ないのか分からない様な不思議そうな表情でクルトは青年に視線を送る。
一言も言葉は発しない。
「…………」
冷や汗が流れるのが分かった。
やはりこのまま生涯を終えるのか。
否。
終える前にここから逃げ出す手段はまだある。
多分あるはずだ、と自分に言い聞かせながら壁から離れた。
そこで、
「…………ほぉ?」
スッ、と少女の紫の瞳が細められた。
何処か、獲物をいたぶる猫の様な瞳。
空気が鉛どころか幾つもの岩石の固まりに思える。
(コイツは素人じゃなくて実は玄人の戦士か何かか?)
と馬鹿な事を少し思ったりしながら軽く身を引いた。
しゃり、と一歩間合いをつめ、少女は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「……ヘェ? そぉ。ここにいる全員に、ねぇ」
おぞけが走る様な、冷たい微笑。
熟練の剣士でもあるチェリオすら一瞬引いてしまう程の。
「……それは俺じゃないと言っているだろう」
「そう。分かったわ」
気味が悪いくらいあっさりとした了承に、不気味なものを感じつつ視線を移し、
「そうか、分かってもらえて何より……なんだその上に掲げた手は」
妙に高い位置に上げられた手を見て声が引きつる。
身長差のある青年の肩を叩こうとしたらしい空いた手で、肩を叩くのは諦めた様に腰をポムポムと叩き、
「チェリオだろうと、チェリオじゃなかろうと。どうでも良いのよ」
「あ、ああ?」
良く解らない言葉に、曖昧に相槌を打つ。
また、腰が叩かれた。先程よりも強い力で。
「あたしはね、ポンポンポンポン気軽に花束渡す様な軟派な男だなんて、元から知っていた訳よ」
「微妙に台詞が破綻してるぞ」
「だからね」
チェリオの茶々を流す様に顔を上げ、栗色の瞳を見据える。
「ああ」
彼が頷いた事を確認し、腰から手を離すと掲げた手をゆっくりと広げ、
「人に簡単に笑み付きで花渡す様な『軟派男』は我慢出来ないのよ、個人的にッ!
ええぃ、一旦吹っ飛ばしてから無かった事にしてあげるから覚悟なさい!」
言い放つと問答無用で魔力を練り上げ始めた。
マントが翻るのは、恐らく彼女が勢いよく腕を掲げたせいだけではないだろう。
小柄な少女の身体が、魔力を練り上げている為か。微かに光り始める。
「って、全然分かってないだろうがそれは」
ある意味予想出来ていた反応に、激高するよりもまず先に脱力感に襲われ、げんなりと呻く。
圧倒的な負の感情は、前方からだけではなく、後ろからも降りかかってくる。
「チェリオさ〜ん」
「……ふふ」
背後の二人の事を失念していた。
頭痛がした。
ふと、横を見る。青々と茂る若葉が安物のガラスで出来た窓の外から覗いていた。
視線を素早く走らせる。鍵も掛かっていない。
「……雷よ 蒼き炎となりて」
詠唱は、その間にも続いていた。
ぱちり、と火花が散る様な音が少女の白い指先から聞こえる。
「裁きを―――」
そこで、少女の手から花束を奪い取り、放り投げる。
一か八かの賭けだ。
「あぁぁぁっ!? なっ、何するのよッ。花に罪は……」
クルトは慌てた様に詠唱を中断し、投げ捨てられ、叩き付けられそうになった花束をすくい上げる。非難の混じった叫び声には、地を大きく蹴る音が答えた。
「なっ……」
慌てて顔を上げるも、視界に映るのは白い布が窓から消えていく様。
「に、にげましたわね!」
「チ、チェリオさぁ〜ん」
「に、逃げられた!?」
急いで頭を出すと、音すら立てずに着地する所だった。
一瞬遅れてマントがフワリとなびく。
窓から顔を出した生徒達の間から歓声が漏れた。
溜め息混じりに顔を上げ、髪を掻き上げる。
更に歓声が上がる。
チェリオの張った一か八かの掛けは、成功した。
怒る所で怒るが、花には当たらないであろう少女の行動を先読みした結果だ。
しかし、少女の怒りの度合いでは効かないどころか、逆に油を注ぐ事になる危ない行動だった。
今のウチ、と言う様にクルリと身を翻し、木立を縫って少女達の視界から消え失せる。
「ひ、卑怯者ーーーーーっ。コラ待たんかーーーー」
かなり遅れて、窓から身を乗り出した少女の絶叫が、辺りに響いた。
|