一つの弱み-2





「失礼します」
「どうぞ〜」
 トントン、と軽いノックの後、いつも通りの軽い返答。
確認した後、ゆっくりと開く。
 高そうなデスクに頬杖をついたまま微笑んだ青年の顔が目に入る。
 彼が首をかしげる。滑らかな金の髪が揺れた。
「レム君。何かご用ですか? はっ、もしやとうとう僕にラブレターとかファンコールとか色々といえない危なげな台詞を―――って、冗談ですよ冗談!」
 開いてきた時と同じように無表情で扉を閉めに掛かるレムに、慌てた様に青年は手を振った。
 呆れた様に溜め息一つつき、少年は扉を押し開けた。
 溜め息の理由はいつも通りの青年の反応なのか、それともそれに付き合う自分の事なのかは分からない。
 そんな胸中を知ってか知らずか、 
「うう、そんな邪険にしなくても」
デスクに「の」の字を書きながら毎度のように青年は悲観に暮れている。
 ニコニコとした笑みを崩さずに。
 デスクの上のプレートには、『校長』と金の縁取りの入った文字。
 年若いが、彼がこのヒュプノサ学園を取り仕切る校長である。
 笑みでかわされ、進まない会話。
「……用件ですが」
 流石に棒立ちは嫌なので、少年は渋々話を切り出した。
 青年の視線が彼の手元に行く。
 おののいた様に軽く体を反らし、 
「ああっ、何ですかその書類。やはり僕に恋文をしたためて」
 頬に手を当て、フルフルと頭を振って懲りずにそんな事を言ってくる。
 暫く考える様に瞳を閉じた後、
「――次は、辞表でも提出しましょうか」
 レムは扉に手を掛け、小さく最終宣告を告げる。 
 ちょっとだけ冷え込んだ空気に人差し指をちまちまと合わせ、
「うう。お茶目なジョークなんですけどねぇ。
 ところで、その書類は……何でしたっけ?」
 悲しそうに呟いた後、校長は首をかしげた。 
「…………」
 先程よりも数段冷え込む空気。
 氷を打つ澄んだ音が周りで聞こえた気がした。
 鋭い針のような沈黙が肌に突き刺さる。
 流石にまずいと思ったのか、
「ああっ。目が、目が怖いですよレム君!
 えーっと…うーん…お、思い出せない」
 言いながら頭を捻らせる。
 が、完全に忘れ去っているのか唇からは出てこない。
「生徒の授業結果報告です」 
 校長の様子に、呆れの方が勝ったらしき疲れたレムの言葉。
そこかしこから倦怠感が垣間見えるが、義務的な口調は崩さなかった。
 校長は『ああ』というようにポン、と手を打ち、
「そ、そう言えば昨日の放課後頼んでおいたんでしたっけ」
「本気で忘れていたんですか?」
「いえいえいえいえっ。まさか昨日の今日で提出とか吃驚しただけですよ」
 ギロリと睨まれ、慌てて両手をブンブン振った。
「そうですか」
 言い訳はもう良い、と言うように少年は溜め息を吐き出す。
 あからさまな嘆息に気まずげに少し言葉を詰まらせた後、尋ねる。
「でも、映像化の方が楽でしょうに、どうして文字でわざわ―――」
 少年の技術を持ってすれば、薄い一枚の板に情報を無限に近く詰め込む事が出来る。
 それがたとえ立体であろうが、音声であろうが。
 無理のない質問。
 だが、何気なく尋ねた言葉は途中で途切れ、笑みが凍った。
「…………」
 緩和し掛けていた空気が張りつめたからだ。
 引きつった笑みで校長は首を傾け、
「もしかして〜…ソレ、頼んだの僕だったりします?」
 ギギィと音がしそうな程ゆっくりと顔を真正面に向ける。
「ええ」
 冷たい瞳にはいつもの様に感情は映らない。
 しかし、静かな苛立ちだけは感じ取れた。
「おやぁ…? んー…」
 そんな事も頼んでましたっけ、と言う様に校長は眉間に人差し指を当て、考え込む。
「映像ではなく、誰もが観覧出来る形の書類形式を取って貰いたい。
 との事でしたから、早急に仕上げましたが」
 悩む校長の言葉に、レムの言葉が滑り込む。
 僅かにトゲのある口調で。 
 両手を軽く打ち、納得した様に校長は頷いて。
「……ああ。確かに、そーいえばそう……
 済みません忘れてました睨まないで下さいよぉ。
 最近僕も少し忙しくて忘れ気味だったんですから〜」
 軽い非難混じりの視線に撃墜され、もごもごと口を動かした。
 完全に、頼んでいた事を一夜にして忘れ去っていたらしい。
 傍目から見ても……いや、客観的に見てもかなり情けない姿だが、一応コレでも校長である。
「はあ。それはともかく……お知り合いの方が来ていられるようですけれど」
 義務的、と言うより投げやり感が強まってきた口調を、何とか押さえつけながらレムは口を開く。
「おかしいですねぇ? 来客はこの時間には取っていないんですけど」
 口の中でつぶやきながら首を傾ける。
「ご関係者の方かと思いましたが。女性の」 
 尋ねるような校長の視線に、少年は口を開き、そう告げた。
「綺麗な方ですか?」
 最後の一言に反応し、校長が良く解らない期待の眼差しを送る。
「――― 一般的な顔の造作の優劣で聞かれていらっしゃるのでしたら、標準は上回っていると思われますが」
「……レム君。そう言う言い方止めましょうよ〜
 君が言うと何だか古美術品の鑑定人みたいな気分になってきます」
 説明的な口調のレムに、悲しげな視線が突き刺さった。
 口調も情けない。
「今、その話題の必要性を感じられません。時間の無駄です」
 レムの冷たい言葉に青年は溜め息を漏らし、紅茶を注ごうとポットに手を掛け、
「うう、じゃあその綺麗な女性という人に会――――」
「言うまでもなくここにいます」 
 会いましょうか、と言おうとした言葉は静かな声によって阻まれた。
無論、少年の言葉ではない。
 声の主はその後ろ。
「…………」
視線をそちらに向け、ポットを持ったまま校長は凝固した。
 いつもの笑みを貼り付けたまま固まっている。
「……校長」
 流石に珍しいので、レムは小さく呼びかけた。
 ピクリとも動かない。
「校長先生、どうか?」 
やはり答えはない。
訝しげに眉を軽く潜めた後、後ろを見る。
 そこには先程の女性。顔立ちこそ整ってはいるが、同時に無機質なモノを漂わせる。
 微動だにせず、彼女の蒼の瞳は真っ直ぐ校長を見つめていた。
「校長。彼がお尋ねのようです。その言葉には反応がないようなのですが?」
ルージュの引かれた赤い唇が動く。滑り出てくる言葉は、事務的とも言って良いしゃべり方。
 静かな言葉は絶大な効果をもたらした。
 硬直していた校長がハンマーで殴打された様にのけぞった後、数歩退き、
「リ……リリリリリン君!? な、ななな何でここにいらっしゃるんでしょうか僕は全く全然聞いてませんけど君の来訪とか色々と爪の先程もっ」 
歯の根の合わない声で言葉を紡いだ。
 硬直は解けた様だが、慌てぶりが凄まじい。
地震や火事の時でもこの校長が、これほど狼狽する事はないだろう。
気のせいか心持ち青ざめた笑顔でポットを置き、
「いやもうえーと、そうそう。長旅でしたよね疲れたでしょうからお茶でも注ぎますから座って」
 から笑いをしながら何故か机の上に置いてある観葉植物を手にする。
 それを空いたティーカップの上で斜めに傾けはじめた。
 脳味噌の中身が少し混乱しているらしい。
「それには及びません。転送の魔法陣を使用させて頂きました」
 リンと呼ばれた女性は、間の抜けた光景を尻目に笑み一つ浮かべず淀みなく答える。
(移動の魔法陣?)
 二人の珍妙なやりとりを見ながらレムは口の中で呟いた。
 言葉を反すうしながら思考を巡らせる。
 確か、転送の魔法陣は大がかりな為に、使われている場所が限られているはずだった。
 儀式の複雑さもさることながら、それに必要なだけの材料が高価、またはなかなか手に入らない貴重品なのだ。
 魔法陣の大きさと、色々な都合上の為ある程度以上の敷地は必要になる。
 転送の魔法陣は、数ある陣の中でも難易度が高い。
 それどころか、今では描く事すら出来ない。
 そう、失われた魔法陣なのだ。
 描き方は分からないが、大体の作業は分かっている。
 必要なモノは貴重な薬草類。複雑な詠唱と陣。幾人もの術者。
 そして、この術が廃れた最大の原因でもある……大量の魔力。    
 魔力のあまりの使用量の為、描く途中で息絶えた魔術師は数え切れない程いた。
 しかし、他の術者がその後を継いでいく。そして、何時かは完成するのだ。大勢の魔力と引き替えに。
 古の魔法陣はあちこちに点在している。キチンとした手順を踏めば、今でも稼働を続けると言う。
 だが、その創られゆく過程は想像を絶するものだろう。
(……まあ、移動手段が少ない昔の話だからね。けど魔法陣を使った、か)
 そういう経緯もあり、転送の魔法陣は点在しているとはいっても数は限られていた。
 大体が大陸を収めている王族が魔法陣を管理、使用している。
 例外としては魔術に詳しいギルド関係、敷地内にあった陣の所有権を持った貴族、その辺りか。と言う事は、彼女は王族か力のある権力者と顔見知りなのだろう。
 転送用の魔法陣は、陣の上にただ乗ればいいというわけではない。
 一人以上の術師が魔力を行き渡らせ、決められた句を紡がねばならないのだ。
 魔術師を同伴していけばいい物ではなく、起動の為に魔力を行き渡らせている術師はその場に残ったままになる。
 要するに、起動させる側と転送される側は別物なのだ。  
最低でも術師を二人は使えないと魔法陣は使用出来ない。
 目の前でのほほんと笑みを浮かべて……いや、今現在少々パニックに陥っている校長も魔法陣の言葉が出た時驚いた様子を見せなかった。やはり、人は見かけに寄らないらしい。
 そう思いながらレムは溜め息を軽く漏らし、冷や汗を流している青年を眺めた。
 ようやく持っている物が違う事に気が付いた校長は観葉植物を元の上に置き、今度は本物のポットを手にとって柔和な笑みを浮かべた。微妙に笑顔が引きつっているが。
「でも喉とか渇いて」
校長は少しだけ震える声でそう言って紅茶を注ごうとする。
「いえ、必要ありません」
「うう、それでその…」
が、一言の元に否定され、悲しそうに口を動かした。
「何故私が此方に存在しているのか、そのご理由はお分かりになりますね?」
 彼女から紡がれるのは氷を彷彿とさせるようなヒンヤリとした台詞。
 引きつった笑顔のまま、校長は汗をだくだく流しつつ、
「えーっと。なーんとなく分かる様な。ああ、でも聞きたくないなぁ。
 リン君、この話は再会の喜びを存分に味わった後、十年経ってからに」
 誤魔化すように両手を広げ抱きしめる様なジェスチャーを取る。
「駄目です」
 気の長い校長の台詞は即座に切り捨てられた。
「一年後」
「駄目です」
 リンの視線が痛かったのか、言葉は大幅に削減された。
 が、やはり一秒も持たず撃墜される。
「三時間後…」
「却下します」
「何処から何処まで駄目なんですか」
 容赦なく落とされる言葉達。流石にたまらず校長は涙ながらに彼女を見た。
「私と校長が再会の喜びを味わう時点で」
「ええっ!? そんな」
 表情すら変えず紡がれた言葉に、青年は器用に笑顔でショックを表す。
「喜びませんから事実上不可能です」
「……くすん」
事務感の強い口調に人差し指を合わせて拗ねつつ校長はリンを見つめた。いじいじとした空気が辺りに満ちる。
「そう言えば、校長。こちらの方は?」
 よどみかけた空気を打ち破ったのもリンだった。
 レムを見、尋ねる。
 校長はカップの中に入った泥を払いながら答える。
「ああ、えっと。一応教師をして貰っているレム君です」
「一応というのは余計ですけど。レム・カミエルです」
 適当な校長の挨拶に合わせ、軽く頭を垂れた。 
「よろしくお願いします」
 リンも丁寧に会釈してくる。静かに定型どおりな礼をする姿は何処か機械的なものを感じた。
「ああ、そうそう。リン君。レム君は学園の地下で暮らしてますから」
「地下で、ですか?」
 初めて彼女の声に感情が交じる。
 微かな驚きと疑問混じりの言葉。
「ええ。その代わり、と言っては何ですけど魔機を作って頂いて居るんですよ」
「魔機と言うとあの、全大陸中でも作成できる者が限られている……」
 校長の気楽な言葉にリンが眉を軽く潜めた。
「そうそう、それですそれです。彼、一応魔科学者ですから」 
 おもちゃを見つけた子供のような楽しげな笑顔で、校長が答える。
「一応は余計です」
 少年の二度目の訂正は溜め息が混じっていた。
「で、レム君。こちらはリン・バウラン君。
 見ての通りの美人な女性《おねーさん》です」
「カミエル様の受け持ち教科は何なのでしょうか?」
「僕の受け持ちの教科? 取り敢えず全教科になっています」  
 両手を広げ、ウットリと瞳を閉じる校長の紹介に反応はない、それどころか無視して二人で話し始めた。
 リンは校長の言葉を聞く事すらせずレムの言葉に頷く。
「そうですか」
「って無視しないで下さいよぅ」
 しばらく固まっていた校長も、徹底的な二人の態度に上げていた腕をおろしフルフルと首を振る。 
「無視されたくないなら、真面目に紹介して下さい」
「同感です」
 レムの台詞にリンが同意した。
「うう。リン君はですね、地下にいたレム君は知らないと思いますけど数年程学園の秘書をやって頂いていたんです」
 息のあった攻撃にひるみつつ、まじめに話す気になったのか幾分背筋を伸ばし、説明を続ける。
「秘書、ですか?」
「主に僕の手伝い。んー、スケジュール管理とかですね」
 眉を軽くひそめるレムに、小さく頷く。
「……何故居なくなったんですか」
 数秒ほどの間をおき、少年は半眼で疑問を口にした。
「うわぁ。その『居た方が時間の無駄が無くて良いのに』という目がちょっと痛いんですがレム君」
 どことなく批判混じりの痛い視線を感じ、校長が呻く。
 自分は何もしていない、と言うようにぱたぱたと片手を軽く振り、
「彼女にも色々な都合がありまして、別の所に派遣されていたんですが―――」
「今日付けでまた秘書を務めさせて頂きますので、これからもよろしくお願いします」
 示し合わせたかのようなタイミングで、リンの言葉が滑り込む。
「……ええ」
「ええぇぇぇぇぇっ!?」
 悲鳴と小さな了解の言葉が交錯した。
「知らなかったんですか?」
 少年は校長の絶叫に近い台詞に耳を伏せ、眺める。
「知りませんよぉ。今日ここに来ること自体初耳なんですから」
 両指をあわせ、何処か泣きそうな声でふるふると首を振る。
「急に来られてはお困りになることでもおありですか?」
「いやあの〜。準備とか」
機械的な質問の言葉に、呂律の回らない口調でつぶやく。
「必要ありません」
 スッパリと言い切られ、肩を落とし、
「うう。レム君、そんなわけでいきなり非常に取り込み中になってしまったもので……退室して頂けると助かるなぁと」
 両手を合わせ、窺うように首を傾けた校長の動きが止まる。
 尋ねられた少年は、ただじっと冷たい瞳で青年を見つめるだけ。
「レム君?」
 もう一度呼びかけると、視線を自分の手元へ移し、
「書類……」
 ぽつりと呟かれた言葉に校長が固まった。
「…………」
 笑顔のまま「あー」や「うー」など言葉にならない呻きを発している。
「また、忘れてましたね」
「イエそんなことは。全然」
 冷たいレムのつぶやきに、相も変わらず笑顔だが死刑宣告を突きつけられたような面持ちで、校長はパタパタと手を振った。
「せっかく持ってきて居るんですから、書類、受け取ってください」
 小さくため息を零し、書類を校長へ押しつける。
 手応えのあるそれを受け取りながら、
「あ、ありがたく拝見させて頂きます。えっとーあの」
「では、用件も済みましたし、退室しますが。宜しいですね」
 引きつった笑みを浮かべつつ、続けようとした校長の言葉が阻まれた。
「え、ええ。その方が僕としてもありが――」
「失礼しました」
 言葉が終わる前に扉が閉じる。片手をあげた間抜けなポーズでしばらく止まった後、
「レム君。人の話は聞きましょうよ」
 少しだけ涙ぐみ、校長は漏らした。
 カツカツと、靴音が響く音が扉越しにも聞こえ、薄れるように消えていった。
「用件ですが」
 間をおかず、リンが睫毛を伏せ、口を開く。
「ううー。なんですか?」
拗ねたようにポットにお茶の葉を放り込みながら尋ねる。
「今回、何故私がコチラへ参ったか。おたずねになられましたね」
 気配を感じ、わずかに視線を上げると、リンの顔が見えた。下に敷かれた絨毯のせいで音が吸収されたのだろう。辺りに響くのは校長がポットを取る音だけ。
 しばしの間をおき、
「そうですね。一応」
 近くに常備しているお湯を注ぎながら頷く。薄いミルクが広がるように蒸気が視界を乱した。
「一に貴方の様子を見ること」
 静寂に言葉が一滴。
 リンの話を聞きながら校長は、ふ、と苦笑するように瞳を細め、白い蒸気を吐息で歪める。
 白い湯気を指先で少しつつくと、空気に溶け、雪のように薄れていった。
 ちらりとリンの瞳を見、
「サボってませんよ〜心外な」
 肩をすくめた後、十分に蒸らしたポットを斜めに傾けカップの中にゆっくりと注ぎ入れる。琥珀色の液体が静かに満たされていく。
 あたりに思わずため息が漏れるような良い香りが漂った。
「二に、そろそろ用意が出来たはずだと」
 リンは淡々と言葉を連ねていく。まるで、紙に書いてある文字を読むように。
「……そんなこと急に言われましてもねぇ」
 困ったように眉を寄せ、ポットを置いて先ほどの書類を取る。
 几帳面に封がされ、丁寧な文字で少年の署名がされている。校長は、彼らしいと頷きながら書類に目を通した。
「期間がお足りにならないと」
 口調が、僅かに詰問のような響きを含む。青年はそれを見て小さく苦笑気味の笑みを浮かべた。
「そう言う訳じゃないんですけど。まだ結果が――」
 どうにも事を急がせようとするリンに、「こういう事は慎重に」と言おうとした言葉を途中で飲み込む。
「そう、ですね。結果……出たみたいですし」
 両手で持っても重みのある書類を眺めながら、校長は小さく呟いた。
「了解いたしました。そして、三に」
「まだあるんですか?」
「タイムリミット(時間切れ)。もう待ちきれない、これ以上は時間と経費の無駄だとの事」
 ウンザリとした校長の言葉にはかまわず、続ける。
青年はふう、とため息をはき出し、
「せっかちさんが多いですね」
 手元にある書類をぺらぺらとめくった。
「しかし、三は結果が出ているのなら無用の心配でしょう」
 たしなめの言葉は出ず、代わりに少しだけ笑みを含んだ台詞。
 校長は小さく頷き、
「そーですねぇ。で、リン君は? 急がないとダメですか?」
 何処かいたずら前の少年のような口調で、リンを横目で眺める。
「私はただの秘書です。レイン様の思うままに」
 彼女はゆっくりと首を振り、そう告げた。
「僕もただの一般的な校長です。まあマイペースに行きましょう」
 お互い大変ですねぇ、と言うように頷きながら書類を眺める。
 話すうち、冷め切ってしまったのだろう。カップからはもう白い湯気は上がらない。
 少々残念そうな顔をしながら口を付ける。やはり美味くはなかったのか、カップを置き、書類を片手にため息をついた。
「了解いたしました。――御心のままに」
 静かに頭を垂れるリンを見、
「四はないんですか?」
 書類を指で弄びつつ尋ねる。
「……ありません」
「そうですか」
 拍子抜けしたような青年の言葉に、彼女は思案するように少しだけ首を傾けた後、
「もしあるとすれば、校長。貴方に求められるモノは結果のみ。それだけです」
「肩が凝りそうですね。お茶でもしましょうか」
 言葉は落ち着いた物だったが、貫くような鋭い瞳に臆することなく、校長はくすくすと笑みを零し、リンに向く。
 その落ち着きぶりに納得したのか、あきれたのか、瞳を伏せ、
「差し出がましいことを申しました。校長、お茶より大切な事があると思われますが」
 そう告げる。
「ん? リン君とのデートですか? いやぁ、やっとその気になって頂けて」
「スケジュールによると、現在時間帯は空いていますね」
 順々に確認するように、嬉しそうな校長の言葉を止める。
「え、ええ。まあ」
 嫌な予感を覚え、とぼけた校長の返答が引きつっていく。
「そう思いましてこちらへ来る前に会合の予定を立てておきました」
「う…あの」
 詰まったように校長の言葉がとぎれた。
「先方をお待たせするわけにはいきません。それでは早速参りましょう」
 無意味に口を開閉させる青年を横目にぱたんと手帳を閉じ、時間を確認する。
 そろそろ生徒達が登校し始める時間帯だ。彼女の言うとおり、昼頃までは何の予定も入っていない。
 逃げ腰になった青年を逃がさないように、服を掴み、
「では、参りましょうか」
 小さくほほえむ。大人っぽいしっとりとした微笑みが、何処か凶悪なモノに見える。
「あうあう……ちょ、ちょっ」
 抗議するまもなく、引きずられるように青年は校長室を後にした。

 




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