朝もやが薄れ始める時刻。
身体をくつろげるには十分の広さの部屋に、二人はいた。
その部屋の主は、デスクに頬杖をつき、レムを眺めながらゆったりと言葉を紡いだ。
「此処に呼ばれた理由、もうお気づきですよね?」
机の上に置いてあるプレートには『校長』と書かれてある。
「ええ。心当たりは」
特に反論もせず、頷く。
校長は小さく頷きながらそれを聞き、
「……それで、何か僕に言いたい事、あるんでしょう?」
そう言って微笑み、深くとも薄くとも、判断しがたい―― 一言で形容するなら湖面のような瞳を少し悪戯っぽく輝かせ、聞いてくる。
「一言だけ」
レムは端的にそれだけを言った。
「どうぞ」
「納得いきません」
促され、一言だけ告げる。
大きいとは言えないが、良く通る声でそう言われ、意外そうに「おやおや」と、校長は目を細めた。
「本当に一言だけですね」
「ええ。簡潔で良いと思いますけど」
「んー…そうなんですけど。まあ、今日呼んだのは他でもありません。
レム君を叱ろうと思いまして」
困ったように苦笑し、頬を掻く。
「さっき言ったように、僕は『納得』いってません。
校長なら、生徒の身を案じるのが常識でしょう?」
少年は特に臆した様子も見せず、語句を強調しながら、校長を睨み付けた。
「それなんですよ。どうして彼女に教えちゃったんでしょう。
言わないで良いって言ったんですけど」
悪びれた様子も見せず、校長はあっけらかんとそう答えた。
レムは一層険のある視線を校長に送り、
「必要だと判断したからです。
制御力を上げないと命に関わる生徒に、何故教えないんですか?
データを見せたなら分かるでしょう。あのままだと彼女の魔力は暴発します。
致命的な事になる前に、制御力を上げるよう彼女に促すのは悪い事だと思いません」
そこまで言って疲れたのか、小さく吐息を漏らす。
「大丈夫だと思いますよ。彼女なら」
「根拠はあるんですか?」
「いいえ。全く持ってありません……言うなれば、『勘』ですね」
「そう言う答えが予想できたから、教えたんです」
にこやかに言う校長を小さく睨み、レムは呻いた。
「大丈夫だと思うんですけどねぇ。僕は」
「根拠のない台詞は信用しません」
楽観的な校長の答えに少々ウンザリしたのか、僅かに額に手を当て、告げる。
「それに、言っても無駄だと思うんですよ」
「言わないよりはマシです」
レムの言葉に少し沈黙し、校長は視線を僅かに天井に向け、小さく呟く。
「……知っている人には」
「え?」
微かな梢の擦れる音に紛れそうなほどの小さな言葉に、疑問符を浮かべた。
聞こえなかったわけではなかったが、聞こえた言葉の意味が良く飲み込めなかった。
「あ、たとえばですよ。た・と・え・ば」
「そうですか」
校長の言葉に少し釈然としない物を感じつつも、納得したような振りをして頷く。
青年はおもむろに窓の外を見、日差しの具合で時刻を判断したのか、気が付いたようにレムを見る。
「あ、もうこんな時間ですね…レム君。そろそろ行った方が良いですよ」
「……そうですね。じゃあ、失礼します」
言われた彼自身も忘れていたようで、小さく社交辞令程度に頭を下げ、扉を閉めた。
それを見ながら、
「まあ…だいじょーぶだと思うんですけどねぇ。僕は」
校長は呟くように同じ言葉を呟いた。
「ッ」
扉を閉めたとたん、鈍い音と、衝撃が脇を突き抜けた。
僅かな鈍痛を堪えつつ、横を見るが誰もいない。
少し視線をずらすと、顔面を押さえて座り込んだ少女を視界に捉える事が出来た。
高めに結い上げたツインテール。痛みに震えながらも柔らかに波打つ紫水晶のようなつややかな髪。
一瞬で誰なのかが分かり、大きく嘆息する。
此処まで一目で分かる生徒もそうそう居ないだろう。
「ちょっと、クルト。廊下は走らない」
「うう……いったー……。あ、れむだ」
「『あ、レムだ』じゃないよ。何してるの朝っぱらから」
「今から教室に行こうと思って。あ、そうだ聞いてよ!
二十点テストの点数が上がったわよ。どう、凄いでしょうっ」
呆れたような彼の言葉を大人しく聞いていたクルトだったが、跳ねるように飛び起きると両手をバタバタと動かし、
思い出したように顔を輝かせた。
「……今更二十や三十上がったくらいで変わる点数でもないでしょ」
「うっ……そ、それは。人間何事も前向きに」
鋭いレムの突っ込みにたじろぎつつも、視線を泳がせ、小さく笑う。
「でもでも、ちょっとは上がったんだから褒めてくれたって」
両手を胸元で組み、ウルウルと視線を天井に向けて涙ぐむ。
レムは小さく頷き、とんでもない言葉を紡いだ。
「そうだね……まあ、昨日今日通して僕も思ったよ。君は『テンサイ』だってね」
「ええっ。いやーそれはいくらなんでも持ち上げ過ぎよ」
クルトは赤らんだ顔でバタバタと片手で「違う」というようにポーズをとる。
「君はテンサイだよ。トラブルのね」
手に持っていた書類を抱えなおし、クルトの肩越しから見える廊下の先を見つめる。
「なっ……なーーによそれッ」
頬をふくらませ、言い募ろうとしたクルトだったが、廊下の先を見て「げ」と、呻いた。
金髪の髪をなびかせた少女が視界の端に目に入ったからだ。
「ほら。テンサイだね」
「なっ……アレはあたしが悪いんじゃなくて周りがトラブル。ああっ、見つかる前に教室に行くわッ」
説明をするのももどかしい、と言うようにソコまで言い捨てると、ぱたぱたと廊下を駆け出していく。
「クルト。走ったら補習増やすよ」
静かに呼び止められ、嫌々立ち止まったクルトは気がついたように尋ねた。
「ええっ……。そう言えばレムって今日ドコの授業を受け持つのよ」
レムは特にどうと言う事もない。と言うように、クルトを指さした。
「君の教室」
「……う。レム早足だから追い抜かれないようにしないと」
げんなりとしながら歩みを早めるが、あまり距離が縮まったとは思えず深くため息を吐く。
それに追い打ちを掛けるようにレムは言葉を紡ぐ。
「僕に追い抜かされたら遅刻決定だね」
「レムの鬼」
「何か言った?」
ポソリと呟いた言葉も、耳の良いレムには大きく聞こえるらしく、静かな声が掛かる。
小さな抵抗も許されないらしかった。
「うう…別になんでもないです」
クルトは、いつも通り諦めたように、ため息混じりの言葉を返す。
それを見ながら思い直したようにレムが小さく呟いた。
「君の場合トラブルのテンサイじゃなくて……」
「え?」
クルトは首をかしげ、不思議そうに声を漏らす。
僅かに視線を窓の外の揺れる木々に移し、もう一度クルトを見る。
「――天災だと思うんだよ。僕は」
ごく自然に紡ぎ出されたレムの言葉に、クルトの目は何時までも点のまま、突っ立っていた。
そしてその日。クルトは見事に遅刻となるハメに陥ったのだった。
《テ・ン・サ・イ?/終わり》 |