薄闇が迫り、空を藍色へと変貌させる。
緑成す木々は漆黒を身に纏い、闇色の樹木へと変わる。
今日は微かに雲がかかり、快晴とは言い難い夜空だった。
意外と手薄な扉をくぐり、冷たい空気を肺へ入れる。
よほど警備に自信を持っているのか、あるいは―――
湖に囲まれた屋敷と言うだけあり、少し歩むと広大な面積の泉が視界に広がった。
うっすらと姿を出し始めた月に照らされ、蒼く輝いている。
ルフィはそれを見ながら目を閉じた。風が吹き抜ける。
気分転換と少しの所用を含めて散歩に出たが、それを十分満たすだけの景色と空気だった。
元から白い少年の肌は、月と湖の反射光で青白く浮かび上がっている。
ザザ、と風が湖面を揺らし、木々を薙ぐ。
そして――――
「何かご用ですか? 後を付いてくるなんて」
瞳を閉じたまま、ルフィは背後に向かって静かに問いかけた。
「あら? 気が付いていらしたの?」
「ええ……まあ……」
予想通りの声にゆっくりと瞳を開く。
開いてすぐ映るのは、闇をその身に浮かび上がらせる漆黒の湖面。
気分だけで此処まで変わるのか、と思う程の景色の違い。
まだ、振り向かない。
「貴方も喰えない方ですわね」
何処か全てを掌握したような、自信に溢れた言葉。
全ての者は自分にひれ伏すと言うような絶対的な自信。
ゆっくりと、振り向く。
そこには予想通り、一人の少女が立っていた。
亜麻色の髪を短く揃え、銀の髪飾りで留めている。
柔らかな髪の毛は夜風になぶられ、緩やかに波打っていた。
前見た時は清楚な白いドレスだったが、今は淡いピンクのドレス。
だが、闇夜に映るそれは、どす黒い血の色のようにも見えた。
彼女の名は、そう……
アリアス・レイ・マウスン。
ルフィを招待したこの屋敷の令嬢。
その彼女が、後をつけたあげく、意味ありげな視線をルフィに送っていた。
理由は、もう。気が付いている。
こうして今日、彼女が出てくるのは、遅い位だった。
「……うふふ。貴方、見かけに寄らずやりますものね。
理由、気が付いていらっしゃるのでしょう?」
沈黙を続けるルフィを見て、嬉しそうに微笑した。
昼間見せた笑みがかき消えてしまう程、怪しく、暗い。
灰色の瞳が月に照らし出され、鈍い青銅のような曇った輝きを見せる。
「最初は、どんな方かと思っていましたのよ。
初めてあった時は驚きましたわ。何しろ、殿方には見えなかったのですもの」
言いながら、ヒールで一歩一歩近づいてくる。
「……正直、がっかりいたしましたわ。
でも、気が変わりましたの。
貴方がパーティに出て居るのを見て」
純粋な……無邪気な笑みを浮かべ、少女は微笑んだ。
真っ直ぐではなく、何処か進む道を僅かに間違えてしまった昏い色。
顔を上げるともう、眼前にまで少女の顔が迫っていた。
「取引をしませんこと? 私と」
一歩、歩みを進め言ってくる。
「……取引?」
反射的に一歩引き、動揺したそぶりすら見せず、ルフィは微かに眉を潜めた。
少年が引いた距離を一気に詰め、顔が寄る程の近さで彼女は囁いた。
「……そう、取引よ。私と婚礼をあげるの」
「…………」
広げた手を少年の頬に添え、
「リフォルドとマウスンが合併してしまえば、もう怖いモノはないわ。
揺るぎない地位、揺るぎなき名声、そして、揺るぎない頂点。
世界を制するのよ」
口元を喜悦の形につり上げて熱っぽく見つめる。
日の光に照らされていた、愛らしい少女は此処には居ない。
今居るのは、貴族という名の暗い闇。
「…………」
彼女が言っている事は、政略結婚だ。
確かに、二つの名が融合してしまえば地位は揺るぎないモノになるだろう。
だが……
「……僕の事は、好きでもないんでしょう」
「好きよ。能力もある、地位もある。顔も綺麗」
愛はない。
人間としての公平さも無い。
ただ、人形のように操られた、婚儀。
そんなモノは、好きではない。
それに―――
「きゃ!?」
添えられた手を振り払う。
少女が小さく悲鳴を上げ、振り払われた自分の手を見、憎しみのこもった瞳で見返してきた。
「お断りします」
彼女のようなやり方は、ルフィが一番嫌いとするところだった。
「く……っ、出なさい!」
予想通り、辺りから何の脈絡もなく人がわき出してくる。
気配はもうとうの昔から感じていた。
出てきた者達は黒い服に身を包み、闇にとけ込んでいる。
片手には小さなナイフ。
だが、口元には嫌な笑みが浮かぶところを見ると、専門の殺し屋というわけではないようだった。
「仕方ないわ、喜んで頷くまで痛めつけて差し上げますわ」
手を広げ、少年を指さしながらアリアスは叫ぶ。
軽く身を引き、少女を見つめた。
後……実力行使に訴えるのも、嫌いだ。
既に安全地帯へ退き、アリアスはコチラを殺気に似た視線で見つめてくる。
後ろに二人、前に三人。
計五人。
そう判断し、ルフィは小さく嘆息する。
一人に相手取るにしては随分大げさだ。
しかも素手相手に刃物。
「さあ、答えはどうですの?」
「断ります」
この包囲網のせいだろう。自信ありげに聞き返してくる少女に、ハッキリと言い返した。
「見かけに寄らず、勇気のあります事。
勇気と無謀は別! 泣いて縋るまで叩きのめしてしまいなさい。
ただし、顔や後々に響くような傷は付けてはいけませんわ!」
怒りに震える声で、そう言った。
命令の仕方が手慣れている。と言う事は一度や二度ではないのだろう。
ルフィはその場に突っ立ったまま、そう考えた。
号令に答え、向かってきた黒装束の腕が鞭のようにしなり。
―――鈍い音をたて、体が地面に叩き付けられた。
|