薄闇に映えた白が広がり、一気に収縮されるように視界から消える。
『ギァゥッ』
それと同時に響く、悲鳴と鈍い音。
片腕を地に付け、手の平を薙ぐようにした状態で魔物と入れ替わるように―――彼はそこに、居た。
いつの間にか数メートル程離れた場所で、獣は威嚇するように見返している。
だが、その足下はおぼつかない。
体勢を戻すと、乱れた白いマントを戻すように軽く伸ばし、
「ふう」
彼は栗色の瞳を細め、ため息を吐き出す。
「先手必勝、だな」
何処か楽しげに口元を歪め、少年はその様子を見、呟いた。
「何…今の」
呆然と佇んだ少女の唇から、言葉が零れる。
見えなかった。
今一瞬、何か白い……そう、白い青年のマントが広がって。
後は、現在の光景。
「ああ、お前に獣が向かってたから、ルフィはそれを撃退しただけだ」
事も無げに、幼なじみの姿をした剣士が答えた。
要約するなら、こちらに来たらしい獣をはじき飛ばしたと言う事になる。
前々から幼なじみの身体能力には色んな意味で疑問を感じていたが、クルトは今度こそ絶句した。
「ぜ、全然見え……」
「そっちに行ったよ!」
「話は後だ。来た」
鼓膜を叩くルフィの警告。
チェリオは少女の途切れがちの言葉を遮り、三つの瞳を睨み付けた。
こちらに狙いを定める唇の端から、唾液が飛び散り、時折赤い舌が見える。
―――動いたのは、向こう。
恐怖か、怒りか。遠吠えにも似た声を上げながら爪を振り上げ、襲いかかって来た。
いつもの癖で剣を取りかけ、途中で留まる。
剣がある場所には、虚空があるのみ。
動きにくい服に毒づきつつ、身をかわし、
「…………お」
視界の端でよぎる少女の姿。爪の行き先は目標をそれ、後ろに……
「って、そっちに行くなッ」
行きかけた所で気が付き、獣の背を掴んで、地面に軽く投げ放つ。
ずむ、と言う音と、意外と鈍い手応え。
ごきりと相手の骨が折れる音が聞こえた。
見ると、獣の首が通常ではあり得ない角度に曲がっている。
完全に事切れ、四肢を地面に投げ出していた。
勿論、普段のチェリオに出来る芸当ではない。
「……凄いな」
思わず自分の手を見て、小さく感嘆の声を漏らす。
これはルフィの力だ。
恐らく中身が変わっても、身体能力の変化はないのだろう。
ヒュッ、と空を切る音が後ろで響いた。
「っと」
獣の鋭利な爪が宙を切り裂く。
栗色の髪をあまり乱さず、首を傾けただけでそれを躱している。
「ルフィ、一つ言いたい事がある」
傍観を決め込んだチェリオが、唇を開く。
「へ? わっ…たた」
意識を逸らされ、止まったルフィに牙の洗礼。
「な、なに?」
何とかそれを避けながら、尋ねる。
空色の髪を掻き上げ、
「俺の体に傷だけは付けるなよ」
白い華奢な指先を立て、「傷だけは」と強調する。
「アンタってヤツは……」
そんな自分勝手極まりない台詞にクルトが半眼になった。
「へ、あ。うん怪我しないように頑張る」
が、ルフィの言葉である事に思い当たった。
―――ルフィが傷つくとチェリオの体が傷つく。
「あ、何だ。チェリオあんたも良い所あ……」
もしかしたら、遠回りの忠告なのかもしれないと微笑みかけたが……
「なんだ?」
心底不思議そうに見つめてくる瞳から目を外し、
「いや、アンタにそう言う感情を求めたあたしが悪いのよ。ええ。てことで気にしないで」
自己嫌悪のように一人で呻き、首を振る。
「? 良く分からん奴だな」
自問自答するようなその姿に、チェリオは首を傾け、小さく呟いた。
二人のやりとりの間にも、爪や牙の攻撃がルフィへ執拗に続く。
仲間を倒された為か、先程の屈辱を晴らす為か。
素早い攻撃をくぐり抜けながら、慣れた動作で指を滑らせ――
「っ……」
そこで躊躇うように手の動きが止まる。
自分の体でない事を思い出したからだ。
もしかしたら、発動しないかもしれない。
そんな不安に囚われ呪文を編み上げる指先に躊躇が生まれた。
魔術の構成には繊細さと、大体に置いて呪文の詠唱が必要とされる。
編み上げた構成は役目を果たさず、繊維が崩れるように解け、かき消えた。
ヒョウッ……
慌てて一歩引く。その鼻先を爪が掠める。
方針を変更し、かわし際にそっと相手の背に手の平を押し当てた。
刹那。
ズッ、と言う低い音が響く。
少女が見た時には。
転倒した獣の首元をルフィが押さえつけ、地に組み伏せていた。
『ガ…ウアァァ』
骨に損傷でも受けたのか、相手の暴れる力は弱々しい。
闇雲に辺りを掻きむしる爪が、地面を浅く抉った。
(いつもなら一撃で終わるのに……)
今更ながらに身体能力の変化を思い知り、ルフィは内心歯噛みする。
(……御免ね)
心の中で謝り、手刀を獣に打ち付け大人しくさせた。
グッタリと動かなくなった獣を優しく端にやる。
殺しては居ない。
僅かな沈黙を挟み、少女はクルリと踊るように回転した後、
「お疲れ様〜♪ 二人ともやるぅっ」
片目を瞑って二人の健闘を讃える。
それに詰まらなさそうにチェリオは嘆息し、
「ふん、当然だ。しかし、どうにもやりにくいな」
言いつつ腕を組む。
ルフィも同意するように頷き、
「うう、いつもより時間掛かっちゃった」
胸元に手を当てた。
「流石に、お前と同等の腕力を期待されても困るが」
心なしか、憮然とした顔でチェリオがルフィを見る。
腰に片手を当て、少女は空いた手で呆れたようなポーズを取り、
「チェリオは非力なのよ。ね〜」
格好悪〜い、と言わんばかりの顔で頭を振る。
「……なんだと」
おちゃらけた様なクルトの言葉に鋭い一瞥を送り、
「ふ、二人とも……」
わたわたとするルフィをクルトは見た後、
「って、こういうやりとりも何かやりにくいのよね」
気の抜けたように溜め息を絞り出す。
「同感だ」
チェリオも同意した。
「………あ」
ふと、顔を横に向けたクルトの声が凍る。
釣られるように二人も視線を向け……
「…………」
重い空気が辺りに垂れ下がる。
壁に寄りかかるように倒れた獣。
そして抉れた地面。
道を沿うように、何故か山のように盛り上がった土。
触れると崩れる程の耐久性を持つ壁面は、土山がある所に沿ってへこんでいる。
もう一度、地面と壁を見比べる。
崩れた部分と崩れない部分では、クルトが片腕を伸ばした程の空間の開きがあった。
ちょっとだけ遠い目をした後、
「い、行きましょうか」
土壁から無理矢理視線を逸らし、満面の笑みを浮かべ、クルトは奥を示した。
「ああ」
「そ、そうだね」
反対する者は、取り敢えず。
この場には、居ないようだった―――
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