交わらぬ色-10





 体の力が抜けるような脱力感。
 かくり、と落ちるはずの腰は、落ちず、代わりにあるのは奇妙な浮遊感。
 ―――何これ。浮いてる?
 体を見回そうとして気が付く。体が、見えない。
 というよりも、無い。
 あるのは、ただただ広がる虚空のみ。
―――えぇぇぇぇ!? も、もももしかして失敗? 幽霊になっちゃったのかな〜。
頬に手を当て、悲鳴を上げる。
 感触は、あった。
――――死んでも感覚はあるんだね。ああでもどうしようー…思い切り『大丈夫』って言ったのに……クルト怒ってるだろうな〜 うん、絶対怒ってるだろうな〜…はぁ。
 などと、いまいち緊張感に欠ける事をひとしきり呟いて、ソレに気が付いた。
闇色のわだかまり。後ろを振り向けば、ほのかに光る何故か懐かしい白い塊。
 その狭間を、彼は漂っていた。
 ――――もしかして、あっちがチェリオの体で。こっちが僕の体かな……ってわわ。
安定感は悪いのか、ぐるりと空中で視界が回る。
 何とかコツを掴み、水平に戻す。
 といっても、この場所自体何処が上で、どの辺りが下なのかすら分からなかったが。
辺りに広がり、続くのは揺らめく何色とも付かない色の集団。
見えない彼方まで、それが続いている。
―――― んーと、悩んでいてもしょうがないよね。ちょっと不安だけど、あっちに行こう。クルト、心配してるだろうし。
 ふっ、と風の無い空間で、何かがよぎった。
肌を撫でるような風の感触のような、錯覚を覚える。
 見知った気配に小さく苦笑し、
 ――――ふふ。よし、行こう!
先程の影が出てきた場所へ、彼はゆっくりと向かっていった。



「て……フィ……ルフ……ねえ……て」
微かな……懐かしい声が耳元でさざ波のように聞こえてくる。
「ィ……ルフ……ルフィ! チェリオも、しっかりして!」
 切羽詰まったような、少女の声音で意識が一気に覚醒した。
「あ、え? なに!?」
 ビクリと肩を震わせ、声の方を向く。
「な、なんだ?」
 状況が理解出来ず、チェリオも不思議そうに辺りを見回す。
 服に妙な違和感を感じ、横を向いた。
 白い少女の指先が、二人の袖を掴んでいる。
「……よ、良かった〜 光が収まっても二人とも目を開けないから吃驚して」
 安堵するような言葉。だが、力はゆるまらない。
「……クルト?」
安心させようと微笑みかけたルフィの言葉に、少女の瞳が驚きで見開かれた。
「ルフィが…ルフィで…チェリオが…チェリオ!?」
「あ……」
 その言葉で自分の体を反射的に眺めた。
 紺色のローブ。華奢な腕。空色の、髪。
 元の、体だ。
「戻ってる。戻ってる!」
「ふう。ようやく戻れたか」
 狂喜乱舞するクルトと違って、チェリオは栗色の髪を何時も通りの仕草で掻き上げ、疲れたように首を鳴らした。
 クルトは微かな喜びを含んだ笑みに、疲労を滲ませ。
「戻れ、たんだ。良かった……あたしね、さっきは……」
 途中で言葉をつぐむ。
 さっきは……戻れなくても良いと思った。
二人が無事なら、中身が逆でも構わないと思った。
 瞳が開かなかったあの短い時間。
 そんな事を自分の中で呟いて、自己嫌悪に……少し、陥った。
 自分勝手、極まりない。自分だって二人のようになってしまったら、同じ道を選んだはずなのに。
 でも、分かっていても心は真逆の事を呟いていた。
 口に出す事で、何割か負担を減らしたかったのだろうか。
 気が付くと――
「……ごめん」
 唇から自然に滑り出た、小さな言葉。
僅かな梢のざわめきでも、かき消されてしまいそうな、声の大きさだった。
 きょとん、と不思議そうに少年は瞬いて。
「ホラ、無事だった」
微笑んだ。
「え……?」
 意味が分からず、顔を上げる。
 首をかしげるように少女を見、
「ね。大丈夫だって言ったから、大丈夫だった。嘘、付かなかったよ」
 優しげな笑みを湛えたまま、ルフィはそう告げた。
「あ……う、うん」
 虚空を掴むような手の平の感触は、言葉が染み渡るのと同時に、確かな現実味を帯びていく。ようやく、少女の心に安心感が芽生える。
「で、何時になったら放すんだその手は」  
 冷たいような、だが、何処か憮然とした声音が鼓膜に突き刺さった。
「へ? え……あ」
呆れたような視線に、慌てて手を放す。
 ちょっとだけ袖の部分が前見た時よりも長くなっているのは……気のせいだろう。
 栗色の瞳を細め、何処か鼠をいたぶる猫のような意地の悪い笑みを口元に浮かべ、
「一応心配して居たのか?」
 青年は腕を組む。
「そりゃあするわよ、大切な幼なじみだもの」
 憤然としたように、チェリオに指を突きつけ、頬をふくらませた。
「俺の方の心配はしたのか?」
 会話の間に入り込んだ、そんな青年の言葉に――― 
 しばし視線を虚空に向けた後、
「うん」
 何の抵抗もなく、小さく頷く。
 一拍程間を置き、
「……何時になく素直だな。頭でも打ったか?」
 何故か心配そうに少女の頭に手を置いた。
 グリグリと撫でられる感触が懐かしい。そこまで日にちは空いていないはずなのに。
 妙なくすぐったさにクルトは首をすくめ、
「打ってないけど…… 
 ううーと、帰り際に護衛が居ないと心細いじゃないの! だからよ」
 柄にもない素直な言葉は、長くは続かず、頭に置かれた手を払いながらそんな憎まれ口が口を突く。
「ほお、相も変わらずかわいげのない女だな」
 負けじとチェリオも表情も変えず言い返した。
「何ですって、アンタよりはマシよ」
 更に負けじとクルトが言い募る。
「俺にかわいげがあると不気味だろう。阿呆かお前は」
 ビシリと突きつけられた指を手の平で軽く退け、青年は深々とため息を吐く。
「むか」 
 少女の顔が引きつる。そして、地団駄の代わりに、ブンブンと両手を振り回してストレスを発散させようとする。
 何時もの、じゃれあい。
 そんなやりとりをクスクスとルフィが口元に手を当てながら、楽しそうに眺めていた。
「あ」
 はしゃぎ過ぎたせいか、少女のポケットから羊皮紙が滑り落ちる。
 掴もうとした指先は、空を切り、逃げるように軽く回転した紙は、泉に着地する。
「あちゃー… 早く取らないと〜〜」
 人差し指をこめかみに当て、少女は仕舞ったと軽く舌を出す。
浮かんだ羊皮紙が水気を含み、沈む前に取ろうと手を伸ばした。
ちゃぷ…
 冷たい泉の感触が指先から伝わる。
肌から骨に浸透し、脊髄(せきずい)を通って脳髄(のうずい)を痺れさせる。
 辺りの神秘的な空気も相まって、妙な緊張感が体を冷やした。
腕程まで沈んだ紙を、服が濡れるのにも構わずに取り上げる。
雫が落ちる濡れた音が響く。
「あーあ。びしょ濡―――」
 引き上げ、眉を寄せた少女の呟きが途中で途切れた。
「……え」
 紙の状態を調べる為に動いていた紫の瞳が、ある一点で止まる。
「あ」
「なんだ?」
 彼女の疑問の声に手元をのぞき込んだ二人も、異口同音に驚きの声を漏らした。
 油の引かれた紙の文字が滲み、溶けている。
あり得ない。
 そう、あり得ない事だ。
 川に落ちた時でさえ、文字は滲みもしなかったのに。
 口に出すより早く、滲みは広がり……インクは薄れて消えていく。
「な……」 
 クルトの唇から、詰まったような呻きが漏れた。
 まるで溶けた文字を補うように、下から黒い文字が浮き上がってきたからだ。
「ど、どういう事!?」
 濡れた指先を文字に這わせ、少女は呻く。
「待て、裏に何か書いてある」
 何となく裏側に視線をやった青年が、気が付いたように声をあげた。
 見ると成る程、確かに何かが書かれてある。
 最初に読んだ時に気が付けば良かったのだが、あの時は混乱していてそこまで気が回らなかったのだ。
「読むわよ」
 雫の滴る音に混じり、呟きが漏れる。少女が緊張した面持ちで二人を見た。 
それに、無言で、頷く。
二人を確認した後、少女は静かに読み始めた。

 




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