寝ぼけまなこを擦りながらふらふらと階下に降りる。昨日は暴れすぎたし、疲れた。
灰色の髪の少年が目に入った。んあ、アルノーじゃねえか。
「おはようさん、アルノー。今日も何か持ってきてくれたのかいつも悪いねぇ」
見た目より重たい野菜の箱を抱え、佇んでいるので声を掛ける。
貧乏教会にわざわざ野菜を提供してくれる奇特な人間だ。
農家の手伝いついでに顔を見せる。が、この教会の空気は少し苦手なのかあんまり出てこない。
久しぶりなので声を掛けても無反応。
「…………」
ぼんやりとあらぬ方向を見つめて溜息をついている。頬が赤い。
風邪か?
「姫さま」
ポツリと呟かれた言葉に固まる。ああ、見ちまったのかい。
しかももう駄目な感じになっちまっている。そのまま天国に行きそうだ。
「あ、ボドウィンさんお早うございます」
気が付いて振り向いたが、普段はざっくばらんな態度なのに口調まで変わってしまってる。
末期だ。
思いっきり一目惚れ状態に陥ってやがる。そのまま天に昇りそうな目だ。
頭痛がした。ああ、誰だ迂闊に部屋に上げたのは。
「幸せな幻を見ました。起こすとありがとうとか姫さまが微笑んだんです」
潤んだ新緑色の瞳に目眩がした。寝ぼけて笑ったのか。
確かにあの笑顔はまともに見るの危険だ。あのオーブリーですら時々目を逸らしている。
思春期の少年にとってはもう必殺の攻撃だったろう。
一言だけで信仰者を作るとは、恐ろしいな姫巫女。
頭痛の種はもう一つだけある。確か、アルノーはまだ、恋をした事がない。
なんと残酷だろう。初恋というのはただでさえ美化されやすいのに、よりによって初恋の相手が天下の姫巫女だ。
あの美貌は世界を探しても見つからないだろう。近いものが居たとしても鼻に掛ける者が多数だ。
元の姿が違うせいで、自分の容姿を嫌がる事はあっても見せびらかす事はしない。それは男にとってある種の理想でもある。
隠してしまえばあの美しい姫巫女は自分しか見られなくなるのだから。
コイツ、一生女作れなくならなきゃ良いんだが。
かなりの不安を感じる。話し込んで分かったが、あのお嬢ちゃんは口こそ悪いものの言葉に魅力がある。
声だけではなく、何かを揺さぶる。たとえ顔立ちが今と違っても、ずっと過ごせば惹かれてしまう。
今は上辺だけの恋だろうが、アルノーはいつか芯までマナという娘に惚れ込んでしまうだろう。
だから、残酷だが告げる事があった。
「恋したな少年よ」
「いっ、え。あ……そんな事無いですよー。あははは」
溜息混じりに問いかけると肩を跳ねさせてまごまごと落ち着き無く体をゆらし、顔を赤らめる。
ああ、頭が痛いね。
「銀糸の髪に金の双眸。姫巫女に」
「う。やっぱりあの人姫さまなんですね!」
ぼうっと夢見心地だった顔が笑顔に変わる。
「見た目はな。本人は嫌がってるぞ」
輝く瞳に首を振る。外見はそのものだが、中身は違う。神に本当に選ばれているとしてもあの娘は嫌がるだろう。
「やっぱり、聖女様って大変そうですよね」
「相手が悪すぎるぞ諦めろ」
こういう望みのない恋心は早めに潰しておくに限る。一途な人間は何をしでかすか分からない。
特に愛や恋が絡むと人間は盲目になりがちだ。
「う。ならお側で見守るくらいは……」
望みのないとは本人も分かっているのか、俯く。可哀想だが更にとどめを刺さなければいけない。
「んにゃ、無理だ。異空渡しの旅人の犠牲者だ。
年齢も元と変えられて居るらしい。本来はお前より年上だ。
年を取る速度も一歳に付き数十年掛かるかも知れないんだとよ。人間である限りずっと側には仕えられねぇな」
曖昧に誤魔化すより正直に話す方が納得して貰えると思い、煙草を取り出して火を付ける。
「異空渡しの旅人って本当にいたんですか!?」
煙を燻らすと、悲鳴のような声。まあ、言ってる俺も昨日の今日まで信じてなかったんだが。
「らしいなぁ。姿まで変えられて名前までなくしたとか聞いた時は笑えもしなかったぞ」
「……汝、世界を望むなら世界と己を捨てよ。そのルールも同じなんですね」
聖書の一節の中の一つ。長年眺めても意味が分からなかったが、マナと名付けられた娘を見たら納得した。
確かにあの娘は己を捨て去られている。元の世界にいた自分、名を。そして姿すら。
姿は不本意だったようだし、シリルを見る限り異空渡しの旅人の気まぐれのようだが。
「連れてこられた本人達は知らなかったらしいがな。ま、こんな名前が残ってる世界自体珍しい」
そのうちここも潰れるか救われるかのどちらなのだろうしな。心の中で皮肉に笑う。
「…………年の速度が」
「そう、だから諦めな。普通の人間にはあの姫さんは釣り合いが取れない前に、追いつけない。
寿命がきちまって、親しくするだけあの娘が悲しむだけだ。適当に距離を置いちまえ」
冷たく告げるとアルノーの顔が歪んだ。
無理だ、普通の人間には。シリルの姿を思い浮かべる。
永遠に近い命を喜ばずに悲しんだ娘に囁きかけた言葉を思い出す。
―― 僕は、あなたと……一緒です。
そう微笑んだ紫の瞳の少年。恐らく神に頼んで寿命を遅らせて貰った。
あの娘と同じ場に立つべく。永遠に近い命の恐ろしさを知っていながら、願った。
隣に立てるのは今のところ、あのボウズだけか。小さく笑う。
「分かりました。でも、来るのは構わないんですよね」
「そらかまわないが、秘密にしておけよ。お前の好きな姫さんは攫われるからな」
「絶対言いません」
頷いてアルノーは箱を置いた。睨み付ける緑の瞳は強い意志を含んでいる。
まだまだ諦めるつもりはないらしい。若いって、良いねぇ。
くわえた煙草をゆらして俺は笑った。
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