時々違う事があっても、水車のように毎日繰り返される動作。
その日は上手く粉がひけなくて姉に苦笑された。その代わりパンを上手くこねられたから、次はもっと違うものに挑戦しましょうと言って貰えた。
凄く嬉しくて頷いたのを覚えている。素朴な香りのするニイの実のパン。
豪華な暮らしではなかったけれど村の人達は優しくて、だからずっとこの生活は死ぬまで回り続けるのだと。
信じて疑わなかった。
――あの瞬間までは。
身体を丸める。こんなコトしても無駄なのは分かっていた。
暗い、漆黒ではないけれど薄闇が辺りを覆っている。
思い出すのはただ、寒かった事。足下から這い上がる恐ろしい怖気。美味しくできていると褒められて浮かれた気分がかき消えた。
無数の羽音と悲鳴。屋根が軋みをあげる。両親に逃げろと言われて夢中で家の中を彷徨った。
姉と二人裏口に回ろうとして、家が傾き裏の道が潰された。
もう、逃げられない。分かっていたのに……生臭い匂いの漂い始めた家で『逃げなさい』と悲痛に告げる姉の声に従った。
無駄なのは分かっていてもそう言われたら、逃げるのが姉に対してのせめてもの慰めになると信じて。
逃げる場所は見つからなくて、近くにあるソファに身を隠した。ふと訪れる静寂。
寒気が強くなる。背中が冷たくなった。何かが背を押している。
遮蔽物もお構いなしに。
話には聞いていた。悪魔とはそう言うものなのだと。
臓腑を押し上げられるような吐き気。携帯していた十字架を握りしめる。
いつものように神に祈ろうとして寒気が増した。指先が強張る。
目を瞑り、必死に何か抵抗したのは覚えている。そこで意識が一旦沈んだ。
気が付くとよく分からないところにいた。
薄暗くて、でも少しだけ安心出来る場所。球体の壁に守られるように囲まれていた。
肩を抱くと自分の服が見つからない。辺りが水で満たされている。
息は出来るし、気持ちが良いぬるま湯に近い温度。まるで、母親のお腹の中。
目を閉じる。暖かかった身体が一気に冷え込むのを感じた。
何かが入った。この場所に。
そこでふと疑問が浮かぶ。
……入った?
知らないはずの場所なのに違和感の感じない身体。
もしかして、ここは自分自身なのだろうか。と、とりとめのない事を考える。
では、侵入してきたモノの正体は恐らく悪魔。
追い、出せないかな。
普通は無理でも自分の中なら、多少は抵抗出来る気がしてそう思った。
意識を集中させてはじき飛ばそうとした。上手く行かない。
どんどん近づいてくるのを感じる。急いで辺り中に膜を張り巡らせた。
幾重にも幾重にも。
切り裂いて進んでくる。身体に痛みを感じる。
――やっぱり、ここは自分自身。
確信を抱くと同時に更に遮蔽物を増やした。この場所では通り抜けが出来ない。
そうでないと壊さない。斬られると自分にも痛みが来るけれど、そんなのはどうでも良い。
とにかくここに近寄らせては駄目だと思った。自分がいると言う事は、この場所は核のような場所なんだろう。
創り、壊され。押しとどめ、無理矢理破られる。
そんな事を何度繰り返したのだろう。
痛む身体は力が入らない。逃げ出したくてもここから出る方が危険だった。
ガリガリと壁がこそぎ落とされる音がする。もっと分厚く、分厚く。
望みは叶うのに、すぐに削られてしまう。
何をしても焼け石に水。
絶望的だった。助からないのは分かっている。
どうしても諦められない心が無駄な抵抗を続けていた。
甘く囁かれても、壁越しに抱きしめられても冷たく嫌悪しか募らない。気持ちが悪い。
頭を抑えて泣き出したくなった時。それは突然侵入してきた。
悪魔が入り込んだ時とは違った、柔らかさで。羽が付いた鳥のように静かに中に入ってくる。
悪意を感じる事も寒気もない。だけどこれ以上何かが来るのはイヤだった。
急いで膜を張り巡らせて侵入を拒む。そして、初めて口から呻きが漏れた。
「あ、れ」
今まで悪魔を拒んで押し出していた膜はそれには全く通用しなかった。
破られた訳でもない。まるで悪魔があの時見せた時のように、遮蔽物を難なく突き抜けて進む。
「やっぱりここにいるのね、ボウヤ」
響いてきた女の声に慌てて口を塞ぐ。向こうにいるのは女の悪魔。
誘惑の言葉を紡がれても裏に見える黒い欲望が分かる。怖い。
壁を一層厚く創って、もう一人の侵入者を探る。
見えはしないけれど、何か楽しそうだった。時折跳ね上がり、ふらふらと辺りをうろついている。
この場所に悪魔がいて、自分の向かっている場所に悪魔がいるとは思えないとでも言いたげに軽く進んでくる。
真っ直ぐ、こちらへと。
慌てて拒もうとしても透けたように掴めない。意識していないのは分かる。
足を止める事も、悪意を感じさせる事もなく進んでくる。
これを止めるのは無駄だ。
それに、嫌な感じがしない。だから尚更外に出そうとしているのに全く気にしていない。
膜を張るのを諦めて幾つかに穴を開けた。
ここに来る最短距離。来たいのなら、せめてこの悪魔に喰われる前に。
誰が来たのか見てみたい。
何となく、そう思って侵入者を受け入れた。
悪魔の誘惑と寒気に耐え、壁を作り続ける。
それが来たのは何時からだったのか分からない。
発狂しかけていた頃に、場違いなノックの音が響いた。
顔も姿も見えないのに、匂いがした。香ばしいニイの実のパン。
好んで食べて、よくねだって作ってもらった姉の得意な料理。
どきり、と心が跳ね上がる。
不動だった壁が反応するように揺れた。悪魔の声が聞こえる。
隣の侵入者に気が付かないような嬉しそうな声音。自分の誘惑に傾いたと囁く声。
再び、軽く壁を弾く音。近寄ると、ずぶりと近くの壁から指先が伸びた。
食べられる。急いで壁を修復する。もう精神力も限界に近い。
「入ってますか」
「怖い怖いやめて。え、あ。だ、だれ……?」
壁により掛かって呻く頭に、声が……響いた。優しい鈴のような、鳥のさえずりみたいな少女の声。
人だと認識するのにしばらく掛かった。躊躇いがちに掌が壁に当てられるのが分かる。
暖かい。
「ええといきなり失礼してます。悪魔を引っこ抜きたいんですけど、手伝って頂けませんか」
言葉の中身を理解するのにしばらく掛かる。抜く、と言う事は助けてくれるというのだろうか。
それとも彼女も悪魔で罠なのかもしれない。
「助けてくれる、の?」
自分の声が壁の中で反響する。
「善処します」
相手の声は緊張で強張っていたけれど、真剣だった。
それに。もう一度身体を壁に付ける。やっぱり暖かい。日差しに当てられたような心地よさ。
心を震わせる優しい声。たとえ彼女が悪魔だとして、それがどうだというのだろうか。
もう、自分は悪魔に捕らわれている。死ぬのならば、どちらかを選ぶしかない。
甘く囁き続ける悪魔か、自分の前にいる少女か。
なら、答えは決まっている。偽りだとしても優しい夢。
「僕はどうすればいい」
姿は見えないけれど、暖かさを伴った美しい声を選ぼう。
鍵を掛けていた場所を弛める。自殺行為、だけどこうすればあの声がよく聞こえる。
緊張が少し解ける。あんなに怖かったのに、怖くない。寒気はなく、心地よい暖かさが身体を満たす。
「私だけの力じゃ引き抜けないので、せーので押して貰えますか。軽くで良いんで」
僅かに驚きを露わに沈黙して、控えめに告げてくる。見えていないと分かっていても頷いた。
「うん。ありがとう」
あなたが悪魔だとしても、感謝をする。僕は今少しだけ幸せだから。
うー、という声と共に悪魔の気配が離れる。そして、約束通り合図が出た。
簡単に引き受けた後疑問にぶつかった。押す、ってどうすれば良いんだろう。
壁に手を当てて悪魔の場所を弾くように考える。もう精神力も限界だ。
弾き出せ。
思いを強めて心で願う。これが終われば壁は崩れ落ちてしまうだろう。
だけどもう良い。あの暖かさと声に浸れたのなら。
何かがはじき飛ばされる音。そして、ひび割れた場所から覗いたのは闇ではなく。
優しい光だった。助かった、んだろうか。意識が混濁する。
身体と頭が重い、倦怠感にうめき、目を開く。
霞んでいた視界がはっきりしていく。
掌に硬い感触。握りしめていた十字架は落ちていなかった。
――生きている。
ズキズキと身体が痛むけれど、感覚がある。
ぼんやりと開いていた目がその人を捉えた。
白い司祭のような服を着ている青年に普段なら目が行くはずなのに、隣の人に視線が釘付けになる。
短く切りそろえられた漆黒の髪、同色の瞳。濃紺の変わった衣服。年齢は姉より下だろうか。
十六、七。顔が幼く見えるだけでもっと上かもしれない。
黒。
忌み嫌われる悪魔の色。彼女が意識の戻った自分に気が付いて目を向けた。
嬉しそうに少しだけ微笑む。
漆黒の髪と瞳の、悪魔。
「あ、く……」
そこで疑問が出た。彼女が悪魔だとしたら随分無欲な悪魔だ。
もっと美しく化ければ人を陥落出来るのに。
「ま…………?」
違うのだろうか、と考えても、出しかけた言葉は滑り出した。
彼女の表情が強張り、沈み込む。
呆然と見つめていると、冷たい声が響いた。
「彼女は悪魔ではないよ。君を助けた人」
静かな蒼い瞳。深い泉を思わせる美しい髪の青年だった。誰だろう。
落ち込む少女の頭を優しく撫でているのに、向けられている目は凍るように冷えている。
「悪魔悪魔悪魔悪魔」
りん、と響く声音にぞわりと肌が波打った。この声は、あの時聞いた声。
暖かな、優しい音。
「あ、その声。ごめんなさい……目や髪が黒かったから思わず」
慌てて謝る。この反応を見ると本当に悪魔ではないんだろう。
助けて貰ったのに、酷く傷つけてしまった。はあ、と溜息が聞こえる。
涙の少し浮かんだ瞳は、悪魔を思わせる黒なのに綺麗だと思った。
尋ねようか迷って、思い切って口を開く。
「あ、の。失礼ですけど……僕の両親と姉。知りませんか。先に逃げろと言われたので」
無駄なのは分かっていた。だけど希望があるならここで確かめないと後まで引きずる。
それがどんなに怖い答えでも聞かなければいけない。
血臭で絶望的だと分かっていても、往生際が悪く希望を探してしまう。
僅かに二人は視線を交わし、彼女が近寄ってきて。逃げる前に視界が闇に閉ざされる。
「なにっ、す」
詰め寄ろうとしたけれど、声が出ない。理由が分かるのが嫌だ。
最悪の想像が展開されて寒気が止まらない。
「残念だけど」
身体が動かなくなる。優しい声音に嘘はないと直感した。
もう、誰も居ない。信じたくない。
「動いているのはあなただけ」
「嘘、です、よね」
引きつった問いを発しても、血の臭いが嘲笑うように鼻をくすぐる。
居ない……もう、誰も。一人だけ残ってしまった。
静かに目蓋をなぞられて、自分が泣いていた事に気が付く。
「……分かりました。そう、ですね。生きているだけ……不思議なんですよね」
この人が来なければ、何時か自分も死んでいた。
「手を離すから、立ち上がらないで」
慰めの言葉は発さずに、彼女の手が外される。
さり気ない気遣いが嬉しい。今は何を言われても空虚に聞こえるだろうから。
涙を拭い、静かに頷く。
少し離れた場所で二人が話し、突然彼女が拍手していた青年の足を容赦なく踏みつけた。
驚いて見つめると手を振って気にするなと告げてくる。
冷たい眼差しをしていたとは思えない青年との駆け引きをぼうっと見つめる。
「幾ら何でも、孤立した彼を放り出す事はしないよ」
その言葉に慌てて手と首を振る。助けて貰えただけでも奇跡なのに、これ以上彼女に迷惑は掛けたくなかった。
「いえ、そこまでして頂かなくても。助けて頂いただけで僕は充分です。後は、自分でどうにかしますから」
大丈夫だという風を装って告げる。嘘、本当はアテはない。
肉親は両親だけ。村から出ても――
「大丈夫。二人、力を合わせれば何とかなるから」
優しい青年の声は、自分には向いていなかった。彼女にゆったりと掛けられる。
「何か言いましたか?」
とても不機嫌そうに、剣呑な眼差しで彼を見上げる。迷惑に思っているというのではなく、その提案自体が信じられないとでも言いたげだ。
「連れて行こうかと」
「冗談は休み休み――」
詰め寄ろうとした彼女に青い髪の青年は微笑んだ。
「この村の側は狼の生息地。放り出すと確実にがぶり」
息が詰まる。なんで、知って居るんだろう。
確かに村の周りは狼がよく出没する。だから、外に出ればきっと死んでしまう。
分かっていて、彼女には教えなかったのに。知ればきっと抱えようとするから。
言葉に詰まったのは彼女も同じだった、俯いて何も言えなくなった姿を見て真実だと悟られたのだろう。
「置いていく?」
にんやりと青年が楽しそうに笑う。今まで見た冷酷な目はない。近寄らせないような空気が揺れてかき消える。
彼女に対しての彼の表情は、人間だった。
「おーけー。分かりました」
降参したように少女が両手を上げた。おーけー……って何だろう。
「あの、僕……名前を告げるのを」
「すぐに忘れるから良い」
名乗れば名前が聞けるかもしれないという打算がなかった訳じゃない。
彼の冷たい声に見抜かれた気がして唇を噛む。
「さてそれでは参りますか」
微笑まれ、手に何か本を持っているのにようやく気が付く。捲られたのが小さな聖書だと気が付いて。
「え、あ。ちょっ――」
振り下ろされた頁は白い、染み一つない純白だった。
違和感が身体を一瞬だけ包んだ後、よく分からない場所に座り込んでいた。
石のような、レンガのような灰色の壁に囲まれた部屋。その中に大きな門が佇んでいる。
呆然と見つめていると、ふっと空気が揺れて彼女と青年が現れた。
部屋をしばらく眺め回した後、また不機嫌そうに青年を睨んだ。
珍しい材質だけれど、彼女にとっては嫌な品なのだと何となく思った。
「さあどうぞ」
いつの間にか扉が開かれている。中は洞窟のように暗い。
「ああっと、灯りは決まりで使えないから危ないので手を繋いで。迷子にはならないとはおもうけど」
手を、繋ぐ。確かにこれは離れたら危ないだろうけれど。ここは何処なんだろう。
思わず視線を落として寒気がした。指が赤く染まっている。
服にも赤い染みがこびり付いていた。こんな状態で、誰かに触れるなんて出来ない。
あの人なら尚更。
差し出された指先を見つめ、思わず伸ばし掛けた手を引き、拳を握る。
駄目だ。
不思議そうに黒い瞳が瞬いて、何か思いついたように彼女は自分の片手を服に擦りつけた。
みるみるうちに白い掌が赤く染まっていく。
僕と、同じに。してくれている……胸が痛くなる。息が上手く吐き出せなくて苦しい。
「はい、これで少しは一緒。それでも嫌なら袖を掴んで」
今度は差し出された掌をちゃんと掴んだ。拒むなんて出来ない。
こんなに嬉しいのだから。
微笑まれて胸が痛む。悪魔と一時でも思った自分を恥じた。
「さ、進んで」
彼女が頷き、進む。村では黒い髪を持つ人間は悪魔かその使いだとされた。
それは嘘だ。だったら、何でこの人はこんなに暖かいんだろう。
たとえ彼女が悪魔でも、指先は離さずに付いていく。もうあの声に心が捕らわれてしまった。
だから、闇の中でも迷わずに足を踏み入れた。後ろで扉が閉まる音が聞こえても不思議と恐怖は感じない。
この人と一緒だから。
闇の中不安で息をつく彼女の手を握る。何も出来ない。
声を掛けたいけれど何を話して良いのか分からなくて口が開けなかった。
こんな時、口の上手かった知り合いを羨ましく思う。でも、彼も今は居ないのか。
頭を少し振る。止めよう、こんな事考えても気持ちが暗くなるだけだ。
せめて名前さえ分かっていれば話が出来たのに。
今からでも遅くないと思って自分の名前を口にしようとして、奥歯に石が挟まったような強烈な違和感に声を飲み込む。
名前。
自分の名前が、分からない。
姉の顔も姿も、両親の名前も全て覚えている。今朝交わした会話も覚えている。
だけど、名前を呼ばれた場所だけが削られている。
混乱で足早になりそうになりそうな歩みを弛める。もしかして、彼女が声を掛けてこないのは自分と同じ状況になっているから。
この人も、名前を無くした。
そうじゃなくて……名前を消された。ここに入る前はちゃんと覚えていた。
この場所に足を踏み入れてから記憶からぼろりと名前がかさぶたのように剥がれ落ちてしまった。
名乗らせて貰えなかったのは、こういう理由なんだろうか。
遠くに薄い光が見える。出口が近い。掌の感触を確かめる為にもう一度握って違和感を感じた。
「あれ」
やけに手が小さく感じ、自分の位置がおかしく感じる。まるで彼女が縮んでしまったような。
「早く!」
跳ね上がった楽しそうな声。闇の中で紡がれる細やかな楽器のようだ。
腕を引かれ、少しだけ微笑んで頷いて進む。
扉から飛び出た僕達は、光の洗礼を浴びた。
それが異世界と呼ばれる場所の始まりの一歩。
彼女と共にたどり着いた知らない場所で見た強い光だった。
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