ep-BD:聖女の伝説

煙草とメシがうまけりゃ、神に感謝する。それが俺達の日常だ。


 細い一本には幸福が詰まっている。火を付けると快楽が飛び出す。
 自分を焦らす様にそっと指先でつまみ上げ、くわえてゆっくり吸い込めば、肺の中に至福の煙がたまる。これだから、コイツは止められない。
「あーーーーー。ボド居た!」
 会場造りをサボって燻らす煙が目印となった様だった。
 おちびちゃんにみつかっちまったか。
 名残惜しいが火をもみ消し、やれやれと肩をすくめて足音を消しながら進む。
「そこだぁっ!」
 ひゅっ、と白い固まりが側を直撃。また腕をあげたな。
 しかしまだ甘い、このボドヴィッド様をその程度の腕で捉えられると思ったら大間違いだ。
 汚れた椅子を避けながらまだまだ身軽な身体を示す為に椅子達を飛び越える。
「うっ、ぐ。当たらない! むかつく! この悪魔サボってないでショーの準備しろぉっ」
 それがお断りだからサボっているんだよおちびちゃん。
 細い両腕が近場にあるひときわ大きなケーキを抱えたのを目にした。
 おいおいおいおい。流石にそれが当たったら困るぞ。
 慌ててしゃがむと、渾身の一撃が頭上を飛び越えていく。
 ぐちゃ、かべちゃかは知らないが嫌な音がした。
「あ」
 呆けた声にケーキの軌道線上を見る。半開きになった扉が真っ白になっていた。
 小さな人影が白く見える。ああ、ご愁傷様だ。
 俺にも多少非はあったが、あんなにどでかいモンを投げるのも悪い。

 神様、まあ許してやってくれ、俺とおちびちゃんを。

 心の中で神に祈ってやってから、その場から去った。
 さて神は許してくれても頭からアレを受けた被害者は許してくれるだろうか。
 先端の潰れた煙草(ボドク)を口に含み、笑みがこぼれた。


 あちこちから下卑た笑い声が聞こえる。耳障りにも程がある。
 相変わらずつまらねぇ。インプの一匹が聖水の一振りで消えていく。
 それに口寂しい。戦うときくらいは煙草を消せと馬鹿神父から告げられていた。
 かったるいねぇ。
 とはいえ、こんな薄汚れた神父とも言えない俺を置いてくれる心の広い教会はこの潰れかけた教会だけ。
 それに、いい加減こいつらにも愛着というものがついてきている。
 ショーだって金の為だ。そうでなければ面倒くさがりのオーブリーの馬鹿が提案する訳はない。
 先程おちびが居る客席から悪魔との歓声を頂けた。俺は悪魔じゃなく、側にいるのが本物だと何度言わせれば気が済むのかね。
 マーユが相変わらずデタラメな祈りを捧げて終了。本日も、俺達の神は心が広い。
「さて、仕事が終わったぞ。さ、もう飲んで良いだろ。喉が渇いてしゃあねぇのよ」
 むわりと鼻を突くインプの残り香に反吐が出そうになる。何か飲まないと気持ちが悪くて仕方がない。
「それにはこちらも賛成だが、大分暗くなったな。先に灯りだ灯り」
 死臭だか体液だかの匂いに辟易しているのはオーブリーも同じのようだ。酒をあおりたいのはお互い様か。
 この位の暗さで根を上げるとは軟弱だな。そう思うが、俺はともかく並の人間にはキツイ暗さでもあると思い直す。
 口の端でくわえただけの煙草を揺らして蝋燭に明かりを灯す。
 夜中が好きな悪魔を呼び出す為とはいえ、毎度面倒くさいったらない。
 他の場所は適当に任せるとして、酒の席に足を運んだ。オーブリーが睨んでいるが知るものか。
 なんだか今日は、妙に酒をかっ喰らいたい気分だ。まるで何か、地震の前触れの様に落ち着かない。
 ちっ、と思わず口内で舌打ちしてはっとなる。我ながら珍しい。煙草や酒を飲み喰らおうと、教会内では余りしない仕草だ。
 嫌な気分だ。まるで闇夜から蛇が這いずって来る様な寒気を覚える。
 だからだろうか――
 いきなり一人の年端もいかないガキが不良神父やセルマを突き飛ばしても、ある一点から目をそらせなかったのは。
 祭壇の側に吊された袋が何かに飲み込まれ、投げ捨てられる。黒い羽が壁を突き抜け、邪悪な瞳が喜悦に歪む。
 それを認めた瞬間、流石に息を飲んだ。下級悪魔ではなく正悪魔。ご立派な神父やシスターでも手を焼く正真正銘の悪魔様だ。
 ……冗談きついな。
 煙草に火を付けようと考えて思い直す。死を覚悟する訳じゃあるまいに。
 苦笑を漏らして、俺は愛しい煙草をポケットにねじ込んだ。
 


 そこから先は悲鳴の渦。ま、そらそうだわ。俺だったらさっさととんずらこいている。
 しかしながら生憎と今は夜。俺でも躊躇う暗さに普通の村人が出られる訳がない。
 実質上この教会内は牢獄の様なものだった。あー死人でないだろうな。
 ただでさえこの教会評判悪いんだから勘弁してくれ。死者が出た教会なんて更に誰も来なくなる。
 ふと冷たい風が吹き込む。勇気ある一般人の誰かが扉を開いてくれたか。
 熱気とアルコール、煙草の残り香がかき乱されて散っていくのを感じる。
 ありがたい。どうやら俺も多少頭に血が上っていたらしく、冷気に触れてすっと頭が冴えるのを感じる。
 あの悪魔の楽しみに加わっていたかと思うと自己嫌悪に陥り掛けるがそれも止める。この場合、まずは群衆の整理かね。
 ぱたぱたとおちびが場違いな足音を立てて側を通り過ぎようとする。
「あぶねぇぞ何処行くんだ」
「ろうそくろうそくろうそくろうそくっ」
 蝋燭と呪文の様に言っている言葉で何となく察しがつく。人が出て行く気配はないのに、この冷気。
 そしておちびの言動。ショーを見に来る位だ。悪魔を囓った誰かが手を回してくれているのか。
 引き留めることなくそれを見送った。誰かは知らないがありがたい。
 確かに混乱が一番の危険因子だ。さてさて、終わったらなんて礼をするかねぇ。
 俺は先程より気楽な気分で近くの酒をあおった。さて、ここ一番の見せ物の始まりだ。



 ポケットに両手を差し込んでぶらりぶらりと呆けている二人に向かう。
「よう」
 声を掛けるとオーブリーの馬鹿っ面が更に面白いほどに歪んでいた。セルマは座り込んだまま。
 マーユなんて凍り付いて動けていない。突撃してきたガキはやはり年端もいかない少年だった。
 おちび……ナーシャと少ししか離れてないんじゃないか。こいつ。
 新緑色の神官の様な格好だが、見た目は本に出てくる天使の様だ。細い金の髪に――
 その容姿を見つめてほう、と心で呻く。紫の瞳とは珍しい。
 さっきの勇猛果敢ぶりは何処へやら、悪魔の方を見つめたまま固まっている。
 なんだ、自分から突っ込んだにしては恐怖心が強すぎないか。
 指先に自分の髭の感触を感じる。指摘されても治らない考え事をする時の癖だ。
 また誰かに言われてきたのか。幾ら身近だと言っても悪魔に詳しい上に冷静な人間が何人もいるとは考えにくい。
 誰かは知らんが感がイイヤツだ。気配に敏感な俺だって何が来るかなんて気が付かなかったのに。
 どんな礼をすれば良いんだろうな。神父とシスター民間人それだけ助けて貰っては頭を下げるだけでは足りねぇだろ。
「あく、あく……悪魔ぁぁぁ」
 壁際にいたマーユが叫んでいるところに取り敢えず側に置いてあった聖水を掛けておく。ぎゃあ、と悲鳴が上がったが無視した。
 馬鹿には良い薬だ。
 シスターが脅えていてどうするよ。インプ退治していた時の威勢は何処にやったんだ。
「なにすんのよボドウィン!」
 濡れた髪を握り、深紅の瞳をぎらつかせる。
「いや、悪魔の前で負の感情まき散らしてる馬鹿が居たモンでついつい」
「うっ。だからって聖水」
 俺の言葉に顔を赤らめるマーユ。恥じらいはあったのか。
 空になった瓶を絨毯に落とす。
「聖水ならそこらに転がってるだろ。ほれ」
 中身の無くなった瓶が転がり、満たされた瓶の側に到着した。幾つか割れているものもあったが、一抱えしても溢れるほどには残っている。
「くぅっ。正悪魔なのよ何落ち着いてるのさっ」
 動揺すると語尾に多少訛りがつくのはマーユの癖だ。まあ、気をつけていないと違いは分からないが。
「落ち着こうが落ち着くまいが来てるモンはしゃあねえよ」
 見も知らぬ一般人が冷静に人を逃がして居るんだから、ここでじたばたする訳にもいかねぇだろうし。
「ほれ、オーブリーも起きた起きた。ショーの続きだぞ」
「なんつー重いショーだ。こんな事なら生贄なんか置いておくんじゃなかった」
 ある意味自業自得なんだから諦めろ。まあ、俺だってインプ以外に強い悪魔が来る事も予想はしていたが、流石にご立派な正悪魔が来るとまでは思わなかった。
 ご招待した覚えはないんだが、来る場所間違ってねぇかコイツ。
「か、神よお力を」
 震えながらもセルマが立ち上がる。見かけによらず良い肝っ玉だ。
「インプはともかく正悪魔ってどうすれば倒せるのよ」
「分かるか」
 もっともな質問だが、切って捨てる。はみ出しものに聞かれても困る。
 正式な神父様に聞いても困る質問だろう。魔物よりも危険が多い悪魔祓いは専門家自体少ないのだ。
「適当に術でもぶつけるしかねぇか」
 腹を決めたオーブリーの声に頷く。インプも一応は悪魔。戦い方自体は一緒だろう。
 子犬と狼ほどの違いはあるだろうがな。
「私、聖水を投げてみます」
 セルマの台詞に口の端を上げて肯定の頷きを返す。基本的にセルマは術を使えない。
 遠くからそうして貰ったほうが良いだろう。
「一応ケーキ投げてみるか?」
「楽しそうだねぇ」
 効くか効かないかは分からないがストレス発散にはなりそうだ。
「アンタ達もうちょっと緊張感持ちなさいよ!」
 言うマーユの両手にケーキがあるもんだから、説得力がない。
 くく、と笑って俺は片手をあげてみせた。死地こそ楽しいものか。
 久々の緊張感が楽しいとは、まだまだ若いねぇ、俺も。
 やんちゃをした昔に思いを馳せながら近くに落ちていた聖水を一瓶取った。




 正悪魔は化け物だと聞いては居たが、対峙してみるとそれは嘘だと感じた。
 
 化け物じゃなくて不死身だろこりゃ。

 心の中で毒づく。聖水やケーキは悪魔にとって致命傷になるべき兵器。
 そのはずなんだが、全くと言って効いていない。ひいき目で見てもかすり傷。
 更に相手はわざと被っている様子を見せている。馬鹿にしてくれやがって。
 怒鳴りつけたい衝動を堪える。楽しそうな悪魔の様子を見るに、俺達の感情の動きが面白くてしょうがないらしい。
 胸糞悪い。
 視線をオーブリーに向けると、奴がやれやれと溜息をつく。聖水もケーキも手詰まりか。
 この辺りの品は大方投げ終わってしまった。それなのにピンピンしていて嫌な気分だ。
 聖なる力とかはどうなったんだよオイ。
 業を煮やしたマーユが紅の瞳を細め、高らかにあの祈りを捧げる。
「神様神様現在汝が愛する子羊達がとても大ピンチですのでお助け下さい」
 聖なるとされる光が悪魔の肩を焼いた。聖水よりも効き目があるな。
 悲鳴と共に僅かな煙が上がる。オーブリーが珍しく動いた。
 命かかってるから当たり前か。胸に手を静かに当て、
「我が心の聖印よ刃となりて邪を滅せ」
 厳かな言葉を発する。俗に言う神聖魔法、神に属する祈りという奴だ。
 あのオーブリーには相変わらず似合わねぇ響きだと思う。
 信仰心厚い神父でさえ習得するのが難しい神聖魔法が得意だと聞いた時質の悪い冗談だと笑い飛ばしたものだが、事実なのには絶句したものだ。
 神は色々と与え間違えをしている。この教会の奴らを見ると良く思う。マーユ然りオーブリー然り。
 胸から生み出された聖なる赤い槍を引き抜いて、オーブリーが悪魔目掛けて投げつける。
 ジッ、と鈍い音が立って吸い寄せられる様にこめかみを貫いた。引き抜こうとした悪魔の両手から煙が立ち上る。
 技術に技量、威力も申し分ない。言葉や素行を抜けばなんでこんな場所に居るんだと思いたくなる。
「我が主の慈しみの涙、汝への刃となる。我が主の優しさ汝の血を溶かす」
 決定打を放つべく、マーユが珍しくまともな祈りの形を取る。そして、俺は天を仰いだ。
 神様、お前さんやっぱり色々間違ってるだろ。なんでこんなお転婆が神官が使う術を扱えるんだ。
「其の穢れた胸に聖なる慈愛の印を。いけ!」
 力強く十字を切り、穢れた悪魔の身体に聖印を刻みつける。幾ら正悪魔でもこの立て続けの攻撃には耐えられなかったか、身体が弾けて四散した。
 ぺたんとへたり込んだマーユが『給料に見合ってない』と毒づいて、俺は同意の苦笑を漏らした。
「マーユーーッ」
 元気な声に視線を向ける。あれはおちびか。隣にいるのはそれ程背丈の変わらない……白い人間だった。
 左腕に銀の太いロープのようなものを抱え。黒ずんではいるが高そうな金の刺繍が施された白いドレスを纏った。娘か。
 女装趣味がなければ娘であろう白い人間の手をおちびが引いている。服もそうだが、俯き気味の顔が白い。純白だ。
 あれはクリームか。何でクリーム付けて居るんだ。
 俺の疑問はその人間の頭上を見て氷解する。ケーキの破片がくっついている。
 おちびが側にいる上にまだ留まっている。更に人の気配もなくなっているという状況を合わせて考えると教会の恩人は恐らくこの娘か。
 誰だ恩人にケーキ投げたのは。いや、おちびか。と言う事は俺も同罪か。
 駆け寄りたくてウズウズしているおちびの気持ちを察したのか、娘が指先を解いた。
 そして勢いよく走るおちび。笑って迎えようとするマーユ。
 ゆったりとした足取りで歩み寄る白い娘。穏やかな時間が流れている気がした。
 完全に俺を含めた教会の連中は気を緩めていた。
 だから、いきなり凍った様に足を止めた娘の姿が異様に見えた。先程までの歩みが嘘の様な早さでおちびの腕を掴んで引き寄せる。
 ぴりりとした緊張感。俺には分からなくても娘だけが感じ取られただろう何か。
 おちびが軽い非難と動揺の悲鳴を上げるが、手を離さない。探る様に辺りを見回している。
 警鐘が鳴る。本能的ではなく、あの娘がそこまで警戒する存在が近くまで来ている事に危険を感じた。
 おちびの手を引き扉の前まで行こうとして、方向転換。また元の位置に戻る。端から見ているとおかしな行動。だが、それが何を意味するのか数呼吸もせずに理解する。
 闇が、娘の側に現れた。十歩ほど離れた場所だが確実な形を取った漆黒。異形。
 
 正悪魔。

「嘘、二匹目!? どうすんのよあたしもうあんなの使える体力無いわよっ」
 マーユが悲鳴を上げた。そりゃそうだろう、あんな高位の術を使って寝込まないだけ大したものだ。
 壁に背を付けていたあのガキが震えながら立ち上がり、小さく呻きながらも声を上げた「逃げて」と。
 おいこら、こちらが狙われるだろうが。とは言いたいが、おちびが居る。来たところで対抗策もないが、流石に見殺しにも出来ない。
 濡れた音が聞こえる。振り向けばおちびが無我夢中で手当たり次第さっきの俺達を真似する様に聖水を投げつけていた。
「やめろ! コイツには効かないのは見てただろッ」
 悲鳴の様な叫び。慌ててるな、オーブリーの馬鹿。からかっていても可愛がってはいるのだと知っては居たが、もう娘の様な存在なのか。
 まあ、それは俺も同じだったらしく。おちびの投げつけたケーキが悪魔の肩を焼いた時、寒気が走った。

「なっ、この馬鹿が! ナーシャ下がれ!」
 何故と思う事もせず、次の悪魔の行動に脅えた。おちびが殺される。

 やめろ。
 
 絶望が広がり掛ける。
 悲鳴と軽い音を立てておちびが後ろに転がった。何かが投げ捨てられるのが見え。
 娘が、薄く笑った気がした。
 
 
 白い貌に何の感情が浮かんでいるかは分からない。悪魔が邪魔で娘の姿はよく分からなかった。
 奴が大きく羽ばたく。ぶわりと何かが広がった。
 糸か?
 すぐにはその光景が理解出来ずに思考が引っかかる。
 浮き上がった悪魔の隙間から見えるのは、月光に照らされる長い、長い。
 緩やかな弧を描く銀の波。銀糸の髪。強い風で左腕から吹き飛んだものは縄ではなく纏められた娘の髪。
 常識外な程の長さの髪はゆっくりと地についてなお続き、広がっていく。
 ふと、子供の頃良く聞かされた昔話がよぎった。そんな場合ではないというのに、銀の髪が俺の記憶から綻びた記憶と話を引き抜く。
 ぽたりと落ちたクリームが娘の貌を少しだけ見せる。俯いていて良くは見えないが整った顔立ちだ。
 ケーキをぶつけるのすら躊躇う。誰だぶつけた野郎は……いや俺も共犯だった。
 悪魔は動かない。俺と同じように銀髪に気を取られているのかとも思うが違うだろう。だが、何かに視線を注いでいるのは明らかだ。
 いきなり、娘が酒瓶を手にした。悪魔にぶつける気なのかと思ったが、手をワインで濡らし始めた。水がないので清めの代わりか。
 不思議と勿体ないと怒る気分にはなれなかった。次の行動を期待していたのかも知れない。
 そして、娘は俺の期待を裏切らなかった。やや豪快とも思えたが酒を顔に振りまいて邪魔なクリームを洗い流した。
 手の甲で雫を拭い、開いた瞳に――肺が掴まれたような気分に陥る。
 銀髪に金色の双眸。十ほどの姿に不釣り合いなこの世にあらざる美貌。
 服から覗く素肌は真珠をすり込んだ様な純白。おおよそ普段の俺とは思えない感想を心の中で述べた。
 間違いがなければ。目がイカれて居るのでないのならば。我らが救世主、そして純白の乙女。
 主に寵愛を受けた我らが愛しき娘。姫巫女、神をも魅了する……我らが希望(メムマイナ)
 純白の姿は、確かに命じられれば世界を破滅に導かせてしまうほどに心を掴む。
 おお、と言葉に出来なかった声は呻きにしかならない。悪魔に狙われる事なんて忘れてしまうほどに、その光景は俺の心をかき乱した。
 忘れかけていた昔の心を無理矢理引っ張り出されたようだ。頭の中では柄にもない賛辞の言葉しか流れない。
 誰もが夢を見、数百年の間数え切れないほどの人間が寿命を終えるまで待ち続け恋い焦がれた麗しの姫。それがすぐ側にいる。 

 神よ。盗賊家業に染まった身の俺にすら奇跡を見せるというのか。

 既に神は飾りだと思っていた俺は、無意識に神への賛辞を口にするほどには擦れていなかったらしい。
 そして娘が金の瞳を細め、ゆっくりとした動きで指を伸ばす。ワインに染められた服でもその美貌は失われない。
 どんな言葉が聞けるのか、心待ちにしていた俺の心境は端的な声で吹き飛ばされた。
「失せろ」
 この上なく忌々しそうな呻きと共に悪魔の身体が捻れ、潰されて容赦なく消される。
 聖なる姿とは違い、怨嗟にも似た低い台詞に寒気が走る。声はとても美しい。
 なのに、なんだこの寒気がするほどの恨みのこもった言葉は。にやりと、俺から見てもお世辞にも良くない笑みを浮かべ。
「ざまみろクソッタレの神共が!」
 聖女様はそう曰った。

 クソッタレ?

 呆然とする俺達にようやく気が付いた様に、聖女の姿をした娘が埃を払う仕草をして、走り寄ってくると静かに頭を下げる。
「あの、今晩泊めて貰えないでしょうか! 雑魚寝でも物置でも良いのでっ」
「はあああ!?」
 オーブリー、マーユ、セルマ、勿論俺も盛大に聞き返していた。
 正悪魔を軽々屠って神を罵ったあげく、何事もなく接するか。
 なんだこの聖女。いや、なんだ、この娘は。
 

 それが多分聖女が現れた、始まりの話だ。そしてのちにマナと名前を付けられる少女とシリルと呼ばれる事になる少年に俺が――いや、俺達が出会った記念すべき日でもある。

 

 

 

 

 

 

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