八章:弱点−6

思いもしない危機。けれど昔から、命がけは慣れっこだ。


 効かない。

 心の奥で歯噛みする。
 正悪魔が消えるほどの力を何度も打った。
 けど、少し止まるだけで消滅しない。
 巨大な蜘蛛の形をした悪魔は。全く私の力を受け付けなかった。
 ぜえぜえと息が切れるのを感じる。まさかここまで苦戦するとは、っていうか全然効いてないし。
 なんで、なんで、なんで。どうして!?
 落ち着け、落ち着け私。
 思考が螺旋状になって繋がる寸前で冷却水を掛ける。混乱しては駄目だ、今までだってこんな事、死ぬほどあった。
 それが異世界に来て初めてだってだけ。悪魔に対して無敵に近いんだと思っていただけで実は違うとしてもおかしくない。
 だから、落ち着いて状況把握。『心に静を』今こそ、その時。
 悪魔なのに力が通用しない。でも、完全にと言う訳ではない。
 少し足止めは出来ている。事実――
「失せろ!」
 念を込めて叩きつけると数拍程だけ止まるから、走る時間は稼げている。
 ただ、そろそろ体力が危ないが。
 そう言えば、と前にボドヴィッドから聞いた事を思い出す。
 私の力は悪魔を消す。その力は精神力を吹っ飛ばすようなものらしい。
 初めて力を行使した日。シスター達がへたり込んだのは魂ごと持って行かれそうな衝撃で動けなくなったかららしかった。
 この蜘蛛……それに近くないだろうか。
「あ」
 思わず呻きが漏れる。相手が悪魔だと思うから混乱していた。
 もしかして、相手は悪魔ではない。そうすればこの現象にも説明が付く。
 だが、こんなでっかい蜘蛛が現実に存在して良いのだろうか。黒いし。
「止まれ!」
 時間を稼ぎながらもう一度脳みそをフル回転。
 ヒントが欲しい。今までの日常での僅かな答え。さっきのような悪魔を思い出したようなやり取り。
 
 ギルド。

 ふと、今日行った悪魔用のギルドが浮かんだ。意味ねぇだろと打ち消し掛けて止める。
 とっさに思い浮かべたのなら何か関連がある。焦るな、まだ体力は大丈夫。
 ギルド、悪魔、そしてファンタジーな冒険者の、ギルド。
 そうだ!
 大声で自分を罵りたくなる衝動を堪える。
 私の馬鹿。バカバカバカバカ、大馬鹿者ッ。
 黒いから悪魔って短絡的すぎだ。そして異世界で違和感のある異形の物体って魔物しかいないじゃないか。
 そうだよ、この蜘蛛は魔物だ。恐らくその類。黒くて紛らわしいが生物なのだ。悪魔に効く力が効果無いのは当たり前。
 だって悪魔じゃないし。
 悪魔ばっかり見てきたからその可能性を捨てていた。冒険者が居ると言う事は魔物が居てもおかしくない。
 オーブリー神父に渡された物騒な代物と、ボドヴィッドの言葉がしっくり当てはまる。
 武器。そうだ、武器!
 左手に掴んで、ただの重しだと感じてもいた手斧を意識し。捨てなくて良かったと安堵した。
 相手は魔物。正面から斬りかかるのは得策ではない。悪魔じゃないから叩かれれば死ぬかもしれない。
 ならば。
 今までで一番の集中。消えるのではなく吹き飛ばす力を強める。
 そして、叫んだ。
「止まれ!」 
 今までと同じく動きが止まる。違うのは、私が蜘蛛に向かい、跳んだ事。
 銀髪が踊り跳ね上がるのが確認出来る。本当に邪魔だ。
 右掌に持ち替えた手斧を勢いよく振り上げ、遠心力と自重を使って蜘蛛の頭上に叩き落とす。
 ガシィン、と鋼鉄に当たったような響きと骨まで浸透する腕の痺れに思わず手を放す。
「いっ……」
 尻餅をつきそうになりながら、慌てて身を引くと、振り下ろされる鉄のような脚。床が砕ける。
 私の渾身の一撃は確かに当たった。ちゃんと眉間辺りにめり込んでいる。
 手斧の先端が少しだけ。
 うわぁ、どうしよう。
 どう考えてもダメージを与えたとは思えない。ちょっと痛い程度じゃないか今のは。
 しかも手放してしまったから武器もない。
 絶体、絶命。
 力一杯振り下ろしたのに、全然めり込んでない。少し変じゃないか。
 効かない武器をわざわざ貰えるとも思わないし、私でもとどめが刺せると思ったから渡されたのだろう。
 なのに、身体に穴を開けたとも言えない程のかすり傷。
 もしかしたら、もしかしたら。嫌な予感が胸を覆う。考えたくない事だけれど。
 私、もしや十歳以下の腕力じゃないのか。ナーシャの腕を振り解けない事もあったけど、ナーシャって力が強いと思っていた。
 シリルは男の子だからなぁ、で済ませた。体力がないのも子供になったからと考えていた。
 そうではなくて、自分はこの身体になって力が増すのと引き替えに――体力面を大幅に引かれたのではないか。
 腕力とか、体力とかそう言うのを。私は、ナーシャにすら勝てる気がしない。
 そうだとしたら。ヤバイ。
 まずい。死ぬ。殺される。
 最悪五歳以下の力しかない私では到底太刀打ち出来ない。
 良かった、巫女姫って万能じゃないのね。なんて考える余裕なんぞ無い。
 後方からぬ、と現れる影にゾッとする。
「き、消えろっ」
 上擦ってしまったが一応威力はあったらしく蜘蛛の足が止まる。
 とにかく、走って走って走って逃げよう。
 勝てない。
 合流しなくては。
 誰でも良いから、助けて。助けて。助けてーーー。
 正真正銘の悲鳴を心の中で上げながら、異世界で初めて私は力で叶わない恐怖を背負って逃げた。


 はあはあと自分の呼吸音が五月蠅い。
 時折呼吸困難になりかけてげほげほと咳き込む。
 ああ、なんか昔を思い出すよこの状況。この危機感、あの時殺され掛けた時ぶりだなぁ。
「き、きえろ」
 息も絶え絶えになりつつ蜘蛛の足止め。我ながら余裕があるんだか無いんだか分からない。
 声はまだ出せるけど、思念が弱くなっているせいか蜘蛛の復活が早い。
 逆に私は疲れと息苦しさ、スタミナ切れで足も遅くなっている。ああもう髪の毛邪魔っ。
 長い髪が足枷で、酸欠で目の前が霞んでいる。
 危ないんだよこういう時。転んだりしたら。
 とは思うものの今まで転ばなかった事が奇跡だ。足はもう棒のようになっていてふらついている。
 ぐらりと身体が傾いだ。体勢を立て直したくても体力が切れている。
 「ふぐっ」情けない悲鳴を上げて地面に接吻してしまう。
 後ろからワサワサと気味の悪い足音が聞こえる。何処のB級ホラーだと言いたくなる。
 映画じゃなくて本物なので笑えもしないが。
 蜘蛛に喰われるくらいなら、悪魔に喰われた方がマシだったんじゃないかとちょっと思う。
 巣も張っていない蜘蛛に喰われるなんて洒落にもならない。聖女様蜘蛛に喰われる? 勘弁して下さい。
 影が被さってくるのが分かる。鉄のような脚が大きく振り上げられて。
「嬢ちゃん無事か!?」
 声と、甲高い絶叫を上げて後ろに倒れる蜘蛛の様子で、私は命拾いした事を知った。
「ボドヴィ……」
 助けに来た人物に礼を言おうと名を呼ぼうとし。
 がち、と噛んだ。痛い。思わず悶絶する。
「ボドウィンで良い。なんだこの有様、武器はどうした」
「すひません。ありがとうございまひた。ボドウィンひゃん」
 噛んだ舌がまだ痛くて呂律が回らない。武器とは手斧の事か、倒れた蜘蛛の眉間を示す。
「なんだありゃ。ナーシャが軽く振ってももすこしめり込むぞ。手を抜くな」
 突き刺さった斧を見て呆れたようなボドヴィンの台詞に、疑念が確信に変わった。
「いえ。どうも私、悪魔を倒せる代わりに腕力とかそう言うのがないらしいです」
「そう言う事は早く言えっ!」
 ボドウィンが珍しく怒鳴る。
 そうは言われましても。さっき気が付いたのだから責めないで欲しい。
「悪魔は」
「アレは別に全然」
 尋ねられて肩をすくめた。悪魔の方が楽だった。命の危機を味わったのはこの蜘蛛だけ。
「魔物が苦手たぁ、予想外だ。普通は逆なんだがな」
 そうだろうなぁ、と考える耳に複数の足音が入り込んだ。
「な、なにごとですか!?」
 驚愕の色を隠さないシリル。座り込んだ私は明らかに疲弊し動けなくなっているだろうし、倒れた蜘蛛を見ればどんな状況かだったなんて教えられなくても分かるだろう。
 叱られる。悪い事はしていないのだけど、向けられたスミレ色の瞳に何故かそんな予感を抱いた。

 

 

 

 

 

 

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