幸いにも教会内で行き倒れた私が餓死する事はなかった。
慌てて持ってこられた残り物の固いパンを受け取って活力を振り絞る。
「お、驚かせやがって」
オリーブ、じゃなくてオーブリー神父が汗を拭うような仕草をする。
空腹でとはいえ、いきなり倒れたものだからかなり心臓に悪かっただろう。
数日日干ししたようなパンをこそぎ落とすように囓る。いい加減口が痛くなってきたが背に腹は替えられない。
倒れるよりは! その思いのままに歯を動かす。
フランスパンのような大きめの固まりは顎に入りきれずにぞりぞり音を立てる。
私は十歳程度の姿なのだ、口も小さい。うう、顎が疲れてきた。
「ぷは、なんとか目眩が収まりました」
そこそこお腹に収まったところで息をつく。食べたのは三分の一くらいかな。
なんとなく机に置くとこん、なんて可愛らしい音ではなくガチンと着地する。
よく歯が折れなかったな、私。
乾燥したパンにかなり唾液を吸収されてしまったので潤っていたはずの喉がまた渇く。なんと不毛な事だろう。
お金は助かるけど食べられないんだよね。アオ、食料入れてくれれば良かったのに。
神は食事を取らないのだろうか、アオは食べそうな気がするんだけど。大鍋でドラゴンをぐっつぐっつ煮たりとか。
……それは魔法使いか。黒い方の。
「腹が減ったなら減ったと先に言やいいものを」
ボドヴィッドがしなびた煙草をテーブルから拾い上げて口に戻す。
汚いぞ、というか冷静そうな顔をしておいて慌てていたのか。煙草を落とす位には。
「自覚したら一気に来たんで。お騒がせしました」
「姫巫女様も疲れているのですわ。お食事の用意、致しましょう」
なんと渡りに船。キラキラとした期待の視線を送ってしまう。
セルマが僅かに頬を染めて横を向いた。なんだろう。
はっ。
自分の姿を思い出して慌てて俯く。あの金の双眸に見つめられれば多少ときめくかも知れない。迂闊な素振りは危険だ。
「礼拝堂は?」
あの惨状を思い出してうっ、と呻きたくなる。ぶちまけられたワインが絨毯に吸い込まれ、更に投げられまき散らされたクリームにケーキの破片。
後片付けなんて綺麗さっぱり忘れていた。はあ、私がかなり汚した気もするし手伝わないといけないだろうな。
「後で良いでしょう、姫巫女さまはお疲れですもの」
マーユの鋭い一言に、穏やかながらにどことなく脅すような色を含んだセルマの声。
大声を出された猫みたいにビクリとマーユの二つ括りにされた赤髪が跳ね上がる。
実は怖い人だったりしますかセルマさん。
「そ、そうね。ご飯食べましょ」
平然とした顔をしているが、声が震えている。紅い瞳なんてセルマを思いっきり見ないようにしている。
「ということですので、姫巫女さま、お食事に致しましょう……大した物は出せませんけれど」
にっこり微笑むセルマに曖昧に頷いてみせた。
姫巫女って言うのを止めて下さい、なんてマーユの姿を見てどの口が言えよう。
呼び名を改めて貰うのは次の機会にして、まずは空腹を癒す事にした。
セルマさんは多分、裏の主だ。そうに決まってる。
確信めいた事を胸の内で呟いて、私は転がったパンを抱えなおした。水に浸せば食べやすくなるはずだ。
この世界で初めて口にした食料なんだから、頑張って食べきらねば。ぐっと掴んだパンで掌が痛くなったが、私は気にしない事にした。
スプーンを持ったまま、私とシリルは硬直していた。
先程までお茶の席だった年代物の机には白いテーブルクロスが掛けられて、立派な食卓へ変貌した。
その上には木のカップと平たいお皿に入れられたスープ、そしてパン(私は持参)。慎ましやかなディナーが人数分並べられていた。
いきなりの訪問者にこの歓迎、質素なんて言うつもりもない。歓待に喜んで微笑みたいのは確かなのだ。
しかし、しかし、贅沢だとは分かっている。それでも。これはないだろうと思う心が抑えられそうにない。
チラリと隣に座ったシリルを見た。彼の手も全く動かず、皿の中を凝視している。
と言う事は私がおかしい訳ではないよね。左隣でナーシャが普通に口に運んでいるから自分を疑いそうになってたけど、これは突っ込んで良いはずだよね。
一呼吸置いて冷静さを取り戻し、出来るだけ静かに尋ねた。
「食べれるんですかこれ」
「ご免なさいね。こんな物しか出せなくて」
いやいや、そう言う訳でもなくて。いや、ある意味それも答えの一つなんだろうか。
「これでもマシな食いモンなんだぞ。そりゃ多少不格好だけどよ」
不格好ですませるものなのかコレ。つん、と皿の中の液体をつつく。
逃避しかけている意識を強引に留める。紫だ。
何が紫って、このスープの中身がに決まっている。どろりとした中に荒い粒が見える。
それは何故か黒い色をしていて、マーブル模様のようにどす黒い緑まで入っている。
中に入っている具はキノコ。傘の部分は極彩色の黄色で白い斑点模様。
緑だったり赤いキノコもあるが、そのどれもが斑点付き。
不格好とかまずそうとか言う以前にこれは明らかに毒物系の色だ。
全く躊躇すらせずに出して貰えた物だから、どういう反応を返して良いのか分からない。
パンを浸そうかとも考えたが、勇気が出ずにそのまま放置してしまっている。
毒だろコレ。具なんて明らかに毒キノコじゃねぇかと突っ込みたいがナーシャはにこにこ食べている。
こんな害意しか感じられない風貌にかかわらず実は無害という落ちなのか。
「お嬢ちゃん、大丈夫だ。量さえ間違えなきゃこのキノコは旨いんだぞ」
スープを一掬いし、ボドヴィッドが口の端を上げてみせる。
やっぱり毒かい!
いや落ち着こう。総合すると、食べ過ぎなければいいという話だ。
猛毒のフグだって調理すれば美味とされる。食べ過ぎると命に関わるとも聞いた事がある。
要するに加減して食べられる量にしてあるのだ。おかわりをしなければいい。
決意してキノコと一緒にスープを掬い、はぐっと口に含む。
「え、あ」
驚いたような顔のシリルが、釣られるように口に放り込む。
そして同時に眉間に皺を寄せた。キノコは確かに歯触りも舌触りも良い。
だが、それの旨みを覆すほどの苦みが押し寄せ吹き散らす。
なんだこの、凄く苦くてくどくて言葉にしにくい微妙な味。
まずい、と言えば早いのだけど。まずさに僅かな旨みがあって、はっきり否定が出来ない。
何この生殺しな味。ムズムズする。
「あの、やはりお口には合いませんよね」
思わず目を合わせられなくなる。
合う合わない以前に毒じゃないのが奇跡で、微妙な旨みがあるのも信じがたい。けど、客人に出す料理としてコレは……無いだろ。
テーブルを倒す事はしないが、こんなの出したら嫌がらせ以外の何者でもない。
シスターセルマの目線が痛いのでむずがゆい感覚を堪えてもう一口。
ううう。泣きたくなるほどに中途半端な味だ。
「いえ、そうですね。かなりの珍味かと」
自分で言って納得する。珍味。
これは珍味だ。口で表現しにくい物だったり、人を選ぶ食べ物は珍味で片づく。
便利な言葉に感謝してキッパリ珍味だともう一度告げた。嘘は言ってない。人を選ぶ料理だコレは。
「あ、えと。そうですね、珍味です……ねこれ」
私の台詞に戸惑って声も出せなかったらしきシリルも乗っかる。声が固いぞ。
「……マズイといわんだけ大したモンだな」
最近は素直すぎる奴が多くてなぁ、と神父が笑った。言って良かったのか、マズイって。
「でも、マズイとは思いにくいですよ」
もう一口食べてから考え直す。マズイと一括りにするには何か惜しい。この料理、何品か足せば確実に変貌する気配がある。
「まあ、そんな。神父様にだってこの料理を出すのは僅かに心苦しいと思っていましたのに。
姫巫女さまに出すなんてあまりに……と思いましたが、台所事情が思わしくなく。
叱責も覚悟の上でしたのに、そんなお言葉が頂けるなんて」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら話すセルマ。その覚悟を見るとほとんど毒なんだな、コレ。
「待てセルマ。俺は良いのかよ」
「良いのです」
キッパリ頷かれて項垂れる不良神父。
神父様威厳ゼロ。
「まあ、まずかろうと野草だろうとなんか口にいれときなさい。アンタちっこいものね」
食べて大きくなるのよー、とマーユが悪戯っぽく笑う。
もう一口よく味わって飲み下し、スプーンを置いた。あれ、からかいすぎた。とマーユが不安そうに首を傾げた。
大きく、ね。
「ご馳走様でした。その心遣いだけで私は満足です」
パンを食べる気も失せて口元を近くに置いてあったナプキンで拭う。
「ゴメンもしかして気を悪くした!?」
「いえ、お腹は一杯になりましたから」
「もっと食べて良いのよ。味は良くないけど栄養だってあるもの、コレ食べればすぐに大きく――」
ああ、口は少し悪いけどこの人もいい人だな。心の中で苦笑する。
腹持ちするように出来ているらしいスープで、お腹は充分に膨らんだ。
「私、大きくなれないんですよ」
そして無駄だから言ってみせる。どうせついでに言うつもりだった。
「なん、ですって」
「正確に言うと成長が遅すぎるんです。後十年かそれ以上はこのままです」
アオは十年なんて言っていたけどもっと遅くたっておかしくない。
ある程度成長はさせるつもりなんだろうけど、私はしばらくこのままなんだろう。
「なんでよ聖女だからなの」
「あのド阿呆な神に呪われたんですよ。頼んでないのに良い迷惑です」
神の祝福? そんな綺麗な台詞なんて使ってやるもんか。
「そ、そうなんだ。でも若いままってお得よね」
「私、元はあなたと同じ位だったんですけどね」
励ましてくれるが刃にしかならない言葉に、そう答えてしまった。
沈黙が痛い。
「永遠の若さなんて虚しいだけじゃないですか」
静けさに思わず零れる本音。
長く生きる、それは私がこの世界の時間からはみ出してしまう事を意味していた。
ナーシャも、マーユも、セルマも、ボドヴィッドだって年を取る。
そして何時か寿命を迎えて消えてしまうだろう。その時も私は余り変わらない姿で居る。
私という存在を知る人間がいなくなっていくのを見つめていくだけなのだ。
こうして話していた相手が消えていくのを眺め続けるだけ。祝福なんてありがたい言葉で片付けられない苦痛。
そんな祝福は欲しくない。ただ、普通に天寿を全うするほうがずっと良い。
唇を噛んでから、息を吐き出す。肩を叩かれて顔を上げた。
「僕は、あなたと……一緒です」
スミレ色の瞳をしばらく見つめて、思わず微笑みを漏らした。
そうか、彼は私とおんなじ。だから、離れない限り一緒に記憶を共有してくれる。
彼の側が私の得られる絶対ではないのだろうけど、少しだけ気持ちが軽くなる。
―― 一人じゃない。
闇の中に取り残されるような不安が和らぐ。永遠に近い時間でも、一人でないのならきっと、狂う事はないんだろう。
瞳を閉じてからもう一度辺りを見回す。青ざめたみんなの顔が見える。
考えている事があった。だけどどうするか決めかねていた。
彼らは悪意を向けてこない。向こうの世界で両親にすら長年疎まれていた私が少しでも役に立ったのならば、もう迷わなくて良い。
そうだね、そうしよう。私をあげよう。
もう一度見つめたあの綺麗な瞳は、少しだけ不安で揺れていた。
ごめんなさい、ちょっとだけど私は我が侭を言う。ずいぶんと不安を与えるだろう。
だから、私は顔を正面に向けて気持ちを引き伸ばした。多分後悔はしない。
神が決めたのでもなく私が選ぶ答えだから。
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