神に祝福された聖水は大した効果も与えず、それよりも効果が高い祝福のケーキ(仮名)も全く歯が立たない。
劣勢。そんな文字がよく似合う状況だ。
そして何より、彼が危ない。何が危ないかと問われるならば全部が危ない。気絶するなら良いのだけど、スミレ色の瞳を大きく開いたまま、動かない。
息してるかどうか不安になってくる。彼の家族は今日悪魔によって消された。普通ではない方法で。
彼も殺され掛けた。
憎いだろう、怖いだろう。その感情が危険だ。
憎悪、恐怖、絶望、悲しみ。全て悪魔が好む感情である。それが彼からまき散らされているのが分かる。
神父、シスター達が気力を振り絞っている中で彼が生気を与え続けている。本人に自覚はないだろうが、確実に悪魔を回復させている。
効き目のない攻撃に、更に回復なんてされたら勝てる見込みが無いに等しい。
声を掛ければ悪魔がこちらを向く、だから、懸命に口だけ動かした。
おちついて。
僅かに瞳がこちらを向くのが分かる。必死に訴える。
心に静を。
口パクでこんなややこしい言葉が伝わるかは疑問だが、伝わってくれないと困る。いや、無理でも感じ取れ。
叩きつけるような願いが届いたか、見開いた瞳が徐々に落ち着いていく。彼が自分の胸元におぼつかない腕を当て、息を整えるのが見えた。
心に静を、悪魔に屈しない強い精神を。決して動揺することなく立ち向かえ。
日々自分に呟いた呪文。他人にも効果があったらしい。
「お姉ちゃん。こころにせいをってなに」
隣にいたナーシャにも口の動きで伝わったのか。と言う事は唇の動き、ここの世界の発音になっているんだな。
「悪魔に負けないおまじない」
そう答えると、ナーシャがにっこり笑ってそっかと頷いた。
「ならお兄ちゃんは大丈夫だね」
「そうだね」
絶対に大丈夫だ。彼はきっと強いから。悪魔に侵されても抵抗できるほどには立ち向かう力があるのだから。
マーユは紅の瞳を細め、強く両手を握りしめ。神への言葉を高らかに唱えた。
「神様神様現在汝が愛する子羊達がとても大ピンチですのでお助け下さい」
淡い光が悪魔の肩を焼く。聖水よりも効き目があるらしく、悲鳴と共に僅かな煙が上がった。
……効果はともかくどうにかならんのかその詠唱というかお願いは。
緊迫感があるのか無いのか分からない声を聞きながら、不良神父が動いた。胸に軽く手を当て、ゆっくりと腕を掲げる。
「我が心の聖印よ刃となりて邪を滅せ」
赤く燃える実体のない槍を手に、彼は呟く。
神父らしい! でも不良神父が言うと説得力に欠けるな聖印という厳かな響きが。
私の心の中の失礼な台詞を無視し、事態は進行していく。彼が軽く指先を動かすと、悪魔のこめかみに太い槍が突き刺さる。
水の中で固まった墨を落とせばモヤのようなものが出来る。悪魔の血は空気に滲んで黒い霞にも見えた。
血が滴る前に蒸発する音が聞こえる。額の槍を抜こうとするが、深くめり込んだそれは熱を持っているのか持とうとした両手が爛れ、嫌な音を立てる。
辺りに黒い霞が溢れる。悪魔の血が流れ続ける。
率直に言わせてもらうと気持ちが悪い。とてもいたいけなお子様に見せられる光景ではない。ナーシャは唇を噛んで堪えている。
その姿に涙が溢れそうだ。しかし、神父様達は思ったよりも強い、けれど致命傷にはなっていない。
「我が主の慈しみの涙、汝への刃となる。我が主の優しさ汝の血を溶かす」
私と同じ事を感じたのは悪魔への対抗策を持っている彼女だった。先程までと比べるとかなりまともな……いや、正式な祈りの言葉だ。
今までの効きから感じて、略するのは危ないと思ったのだろう。
「其の穢れた胸に聖なる慈愛の印を。いけ!」
大きく十字を切り、ようやくシスターらしく祈ってからマーユが声高らかにそう告げる。
黒い身体が大きく仰け反り軋んだような悲鳴を上げると同時背中が膨れあがり、弾けるように四散した。
ぺたん、とマーユが膝を折って座り込む。肩を上下させながら睨む虚空には霞のような闇が薄れて消えていった。
死んだ? いや、浄化……なのかな。
「もーだめ。はあ、きっつ。何あの化け物。どうしてこんなの来るのよ明らかに給料に見合ってないわよ!」
へたり込んだまま文句を言う彼女は汗だくで、青ざめた顔をしている。
「おい、大丈夫かマーユ。高位の正神官の術なんか使うからだろ」
「使ってないと死んでたじゃないのさ!」
不良神父の揶揄にマーユが噛み付く。うん、多分燃料不足で全員お陀仏だったと思う。
しかし、あの人強いんだな。正神官と言う事は結構難しい術だったんだろう。高位の術だとも言っていたし。
私の手を握っていたナーシャがほー、と息を吐く。
「マーユーーッ」
感動の再会ならぬ、勇者へのご褒美か。小さく笑って手を離す。
待ってましたとばかりにナーシャが舞台へと駆け寄った。さて、私も行きますか。
流石にこのクリームのままはマズイよなあと、苦笑しながら歩む私の足が凍った。
何だ。
今何か、聞こえた。
笑い声じゃない、唸りが聞こえる。寒気に走っていたナーシャに追いすがり腕を掴む。
「わ、なにお姉ちゃん!?」
扉のある背後から寒気がする。しまった、後ろか。そして、前方が凍るように冷えた。
移動した!
とにかくナーシャを安全な場所に。
口を開こうとした私の気持ちを嘲笑うようにソイツは姿を現した。
「嘘、二匹目!? どうすんのよあたしもうあんなの使える体力無いわよっ」
漆黒の羽、濁った瞳。笑う口から覗く牙。
ナーシャの腕が震えている。後退る肩に右手を置いた。
悪魔二匹で私の事を大歓迎? ありがた迷惑すぎるね。
「逃げて!」
舞台の向こうで我が身を構わず叫ぶ彼のスミレ色の瞳が見えた。
逃げる。何処に? 背を向ければ……躊躇いなく腕は振り下ろされる。
何よりも、目の前にはナーシャが居る。逃がすのは若い者とお年寄りと決まっている。
それも私のマイルール。
細腕を掴んで引き寄せるよりも早く、少女が行動を起こした。
「えいえいえいっ!」
半泣きで椅子に置いてあった聖水を三瓶掴んで乱暴に投げる。
「やめろ! コイツには効かないのは見てただろッ」
不良神父が悲鳴のような声を上げた。ナーシャは彼らとは親しいようだ。
忠告通り、聖水は全く役に立っていない。悪魔の身体を濡らすだけ。
それを見せつけるようにわざと被っているのが分かる。
行動力のある彼女は更に武器と認識したそれを手にした。
酒瓶の側に埋もれるように置いてある白い固まり。
「あ、それ」
制止する間もなく、ケーキが飛んだ。クルクル回転するその側面に私の付けた筋が幾つも見える。
悪魔は聖水と同じく今度は羽で受け、
「ギッ!?」
今までで一番の悲鳴が上がった。じゅぅっ、とフライパンやアイロンを水に浸したような音。
もうもうと立ちこめた煙が傷の深さを物語る。
ケーキは効かないはずじゃなかったのだろうか。
「なっ、この馬鹿が! ナーシャ下がれ!」
ボドが悲痛な声を上げた。暴漢にあった時の対処法に、中途半端な痛みを与えない事があると聞いた。
逆上させるからだ。勿論、悪魔もそうだ。
怒りに一層瞳を光らせる。ああ、これは本当に……困った。このままでは、確実に虐殺される。
私だけならまだしもこれまでを考えるとナーシャが一番酷い殺され方をする。抉られた喉、眼窩、跳ねられた首。どれもが鮮明に思い出せる。
させるか。それが嫌だから私は今まで手を尽くそうとした。あの忌まわしき悪魔に目の前でこの子を殺させてたまるか。
握りしめた左手に感じる自分の髪。そしてナーシャを止めきれなかった右掌に固い感触。
「何」
右手をゆっくり開く。薄い本がそこにはあった。
危なくなったらこれを見ろと言われたなと思い出し、右手で苦戦しつつ捲る。
浮き上がった文字を見て、私の口元に笑みが浮かんだ。
炙られるように出現した文字は、私に読める言語。
書かれてあったのは一言のみ。
これは私に対しての嫌みに近いと思った、それと同時にこの状況が回避できる手でもある。
失敗すれば死。
ハイリスク・ハイリターン。――だけどアオ。その挑戦、受けてやる。
博打続きは生まれた時からだ、今更臆する事はない。何より、私は勝利の破片を僅かながら握っているのだから。
|