三章:ようこそパスタム教会広報部署−6

感動の再会? お断り。


 背後で影が出来る。怖い。
 草で腕が切れてひりつく。
 転びそうになって恐怖が膨らむ。涙が出そうになっても走り続けた。
 泣けば酸素を大量に必要とする。そしたら、走るのも困難になる。
 今まで見てきたものと明らかに違う異形は絶対にそれを見逃さない。
 だから、あの時私は走り続けた。背後で鋭い爪が木々の梢を切り刻む音を聞きながら。


 辺りが死んだように静まっている。観衆が望んでいるのはつまみ程度のインプ退治。
 間違っても血の惨劇を好むような好戦的な悪魔を見たい訳ではなかっただろう。
 壁から下半身を抜き出し、吐き捨てた袋を踏みにじる。闇夜を飲んだ羽が大きく広がった。
 口を縛っておくことで漏れ出なかった生贄の血臭が空気に浸透していく。
 
 出た。
 
 背丈は成人男性ほどの、漆黒の異形。
 幼かった私の脳裏に死を何度かちらつかせた鋭い爪を持つ悪魔。
 髪を抱えている左手を強く握る。奥歯が軋む。
 アオが告げた審判の時。私の魂を狩りに来たあの悪魔が、ここに来た。一番会いたくない相手が笑っている。
 あの狂気と笑みを悪魔の言葉に訳すのならば、獲物が沢山居る。といったところか。
 狭い教会に固まった無力な人間達、石すら貫通する奴には武力も役には立たない。
 何よりも、幼い私が見た悪魔より、そいつは凶悪な顔つきをしていると思った。
 聖水が効くか不安になる。なにせ、アイツは聖水が大量に置いてあるここに近寄ってきたのだから。
 一瓶の聖水で逃げ出したあの悪魔達とは明らかに質が違うと感じた。強く右手が掴まれて、ゆっくりと握り返す。
 
 何も頼れない。泣いても何もならない。振るわれる爪に脅えるだけしかできない。
 
 もうあんな思い、私だけで沢山だ。隣にいるナーシャを安心させるように軽く引き寄せながら、私は濁った黄色い目を睨み続けた。



 ――悪魔だ。正悪魔が出やがった!
 
 誰かがそう叫んだのを切っ掛けに恐怖と混乱が辺り中を満たす。悪魔が嬉しそうに口の端を上げ、鋭い牙を覗かせた。
 とても嬉しいのだろう。奴にとって恐怖と絶望は美酒。命を乞う涙と血は麻薬。
 そして爪を振るう時に感じる神への失望は快楽。
 最低すぎて笑えもしない。静かに扉に近寄り、開く。五月蠅いはずの扉の音は悲鳴にかき消されて聞こえない。
 夜気が流れ込んで噎せ返るような酒と煙草の香りを逃がす。
「お姉ちゃん?」
 扉を開いても逃げない私を不思議に思ったのかナーシャが首を傾ける。
 別に逃げる為に開けた訳ではなく、夜気を入れて空気を入れ換えるつもりだった。
 僅かに酔いが回っている人間もいる。冷たい水とまでは行かなくても冷えた空気で幾分冷静さを取り戻してくれるだろう。
 今までの人生で覚えた対処法の一つ。
 悪魔に対しての対応には冷静さが不可欠。混乱、恐怖、絶望。それらは全て悪魔達を喜ばせるだけ。
 先に何とかするのは悪魔ではなく教会内の連中の熱を取り去る事だ。
 悪魔は引いてくれないだろうから、中の人々には扉をから速やかにお引き取り願いたい。
「扉を開けてやがる先に逃げるつもりだな!?」
 多少酔っぱらっている一人の男性が私に殺気に近い目で詰め寄ってきた。
 ああもう、これだから追いつめられた人間は厄介だ。
 特に扉を塞いでいる訳でもないのに私を攻撃しようとする。逃げたいなら逃げればいい。
 だけど逃げないのは外に出るのが怖いからだ。
「ちが、うよ。お姉ちゃんそんな事」
 必死に私を庇おうとするナーシャに唇を寄せる。
「ナーシャ、蝋燭をありったけ持ってきて。一本ずつで良いからこの人達に渡して」
 彼らは恐怖している。悪魔、そして闇を。外は視界が効かない。だから出られない。
「え、あ。うん!」
 私の言葉にその事に気が付いたのか、頷いて慌てて蝋燭を取りに行く。
 その間にも視線を悪魔から逸らさない。大丈夫だ、奴は少女を無視している。
「おいテメェ顔を見せろよ!」
 外野が五月蠅い。流石に頭に来た。
「黙って。悪魔は負の感情を好む、静かにしなさい」
 騒ぎ混乱するだけ悪魔を楽しませるだけだ。何故分からないと睨み付ける。
 ひくりとしゃっくりのような声を上げて相手が黙った。
 苛立ちの混じっていた私の声は、迫力がそれなりにあったのか辺りのざわめきが静まっていく。
 やりすぎたかとは思ったが、過程はどうあれ収まるならそれで良い。
「きん、の目だ」
 ……いかん、自分が特殊な目をしている事を忘れていた。
「助かるかも知れねぇ。この人の言う事聞きやがれ」
 群衆の一人が言う。なんとなくだが面倒な事になってる。
 嬉々とした声が聞こえる。目が、ありがたい、なんと言う事か。と聞こえてくる。
 どうも金色の瞳は吉兆を表すようだった。私は別に警察でもないのにこの人波を整理して外に出さなくてはならなくなっているらしい。
 
 めんどくさい上に目立つだろうよ。

 腕一杯に小さな蝋燭を抱え、走り寄ってきたナーシャが止まる。
「お姉ちゃん魔法使ったの?」 
 群衆の静けさに驚きながらも蝋燭を渡して来た。首を振って否定する。
 軽く指摘を入れただけだ、別に術は使ってない。安定した場所に蝋燭を置き、一本一本手渡してやる。
 勝手に取って貰っても良いのだけれど、多めに取られたり乱暴に奪われて折られたりする可能性がある。
 なにより、私が渡した方が……というか私が渡すのを待ちわびている。そんなに縁起物なのかこの目は。
 気分的には幸福の泉のようなものなのだろうか。まあ、私のような小娘の渡す蝋燭だけで幸福になれるなんて思わないが、皆がそれで落ち着くならそれに越した事はない。
 無言のまま一本ずつ蝋燭を消費する。炎は側にあるので各自で付けて貰う。
 流れ作業だが淡々とこなす。急がないとこの状況に気が付かれる。ちらちらと悪魔を観察しながら焦りを押し込め冷静さを保つ。
 蝋燭を他の人と同じく渡そうとして、突き出された手の平に銀色の輝きが見え疑問を浮かべた。
「これを、俺の今の持ち合わせ全部だ」
 籠に投げ入れられた銅貨を思い出す。三つで三ベクム。で、高額な十五ベクムでも多分銅貨。
 銀貨となると五十か、それか百ベクムは行く。
 銀の輝きを無視して蝋燭を握らせる。無理矢理押し付けられそうになって意地で押し返す。
 相手は四十近いみすぼらしい格好をした男性だった。だからこそ、このお金を受け取る訳にはいかない。
「何で受け取ってくれねぇんだ。別に見返りは要らないんだ。その眼を拝めただけで俺はこの金を惜しまねぇ。金が要るんだろう」
 この教会はともかく私は要らん。お金は必要だとは思うけど、全財産近い金額を貰ったって嬉しくない。
 それに今はそんな押し問答の時間すら惜しい。
「お金は大切にして下さい。奴に気が付かれると命に関わるので蝋燭を速やかに受け取って家族の元に」
 押し出す力が弱まり、ようやく蝋燭を受け取って貰えた。何故かおぉ、とか歓喜の涙らしきものを流しているがもう放っておこう。
 なんか神か仏のような扱いを受けているが、私は一応人間なんである。お金は欲しいが今は命が惜しい。だから断って時間を短縮した。
 私のキッパリとした態度に自分たちもと懐を探っていたらしい人々が、硬貨を手を載せずに蝋燭を受け取ってくれた。
 先程よりスムーズに受け渡しが完了する。動かなかった人達は、さっきの男性のような事を考えていたらしい。
 蝋燭を見る。後十本位、私を抜いて何とか人数分は足りるか。
 ふう、と息をつく。蝋燭を渡す位は疲れないが握ろうとする手を振り払うのに労力を使う。
 なんつーか、この人達状況考えてないだろう。悪魔が居るんだよ、凄い凶暴なのが。
 幾らありがたかろうと握手なんぞしてる暇があるか!
 そして後数人になった頃に悪魔が動かなかった理由を知った。
 扉から出て行く人々に気が付いた神父やシスターが抵抗しているのだ。
 よし急ごう。勝つか負けるかは分からないけれど、ここに民間人を詰めておくのはやりにくいはずだ。
 お礼を言う彼らの背を押しながら蝋燭を渡し続け、最後の一本を渡して扉が閉まる。
 
 振り向けぱ、シスター達が聖水を投げ続けている最中だった。
 うわぁ、効いてねぇ。聖水をシャワーのように浴びても微かに羽ばたきを止めるだけで悪魔は笑っている。
 奴の目は完全に聖職者達の方に向いていた。一気に広がった絶望は堪能したので、一般人より力のありそうなシスター達を獲物とみたか。
 ケーキはどうなんだと思ったが、地面に落ちた幾つかの白い固まりを見て溜息をつきたくなった。
 多少肩の荷が下りたとはいえ、問題は解決していない。彼はどうしているだろうと視線を向ける。
 スミレ色の瞳を見開いて、壁際で固まっていた。
 あちゃー。胸の内で舌を打つが、しょうがない事でもある。彼の村は今日悪魔によって壊滅された。
 悪魔が来る気配を感じても神父やシスターを突き飛ばす勇気が残っていただけで充分だ。
「ナーシャ。外に出て誰かにかくまって貰ってて」
 数本残っていた蝋燭を握らせようとすると、強く首を振られた。
「お姉ちゃんは」
「私は」
 逃げるよと言えば納得するだろうけど、彼女に嘘は見抜かれそうだ。
 観念して正直に告げる。
「もう少しここにいる。彼をまだ連れてきていないから」
「だったらいる。お姉ちゃんとお兄ちゃんといる」
 半日も経たないうちにずいぶん懐かれたものだ。意志の強そうな焦げ茶色の瞳に溜息を付く。
 私が諦めた事を察したのか、彼女の瞳がキラキラ輝いた。まったく、度胸のあるお子様だ。
 そう言う私も彼女と大差ない姿なんだけど。

 ナーシャもいる事だし、舞台に近寄る事はせずに彼らの戦いを遠くから眺める事にする。
 本音を言うのならば、少年の事だけは少し不安だった。どうか錯乱しないで欲しい。

 

 

 

 

 

 

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