二章:スミレ色の瞳−3

おお、神よ! なんて言ってやらん。


 掬っていた水が両手の隙間からボタボタとこぼれ落ちる。
 冷たい。
 水ではなく、向けられた声も、目も冷たく感じる。
 衝撃に声が出なくなる。川の中に無理矢理身体全てを押し込まれた気分だった。
 あの綺麗なスミレ色の瞳が太陽の元で輝いている。闇の中願った事だ。
 だけどこんなのは望んじゃいない。だってその目が私を……まるで知らない物を見るように見ているんだから。
「や、やだなぁ。名前は確かに言いませんでしたけど」
 冗談にしてはあんまりな台詞に口元が微かに引きつる。


 名前は言わなかった。そして今は言えなくなった。誰、と問われても答えに使う単語が無い。


 私は彼に何か悪い事でもしたのだろうか。少し泣きそうな気分で見つめると、彼が慌てて目を逸らす。
 顔に朱が差している。そこまで怒らせてしまったんだろうか。
 拒絶された気がして凄く悲しくなってきた。

「まあ、落ち着いて。彼女は間違いなく彼女ですよ。ほら声、声」
 アオが合間に入って喋ってくれた。少しホッとする。
「で、でも」
 なにかもごもご言い合っている二人。アオが何か言い含んでくれるのを期待して、気分を静める為に冷たい水に腕を根元まで沈ませた。

 ――落ち着け。

 何事にも落ち着きを。どんなときにも判断を鈍らせずに。そして、人の心は忘れずに。
 悪魔と隣り合わせの日々でマイルールとなった言葉達。
 ゆっくり腕を引き抜くと、ばちゃり、濡れた音が響く。もたつく動きで川から這い出した。
 長く浸かりすぎた身体が寒気を覚える。日の差す場所に移動して、途中何度か髪を引っかけながらも川岸に座り込む。
 思考は正常、落ち着いてきた。
 はしゃいでいて見つめる事を忘れていた水面をぼんやり見て川へ屈み、引き寄せられるように腕を伸ばす。
 綺麗な白い、人形のような華奢な腕が視界に映る。子供が割り込んできたんだろうか。
 振り向く。後ろでアオと彼がまだ話し続けている。きょろきょろ辺りを見回しても誰も居ない。
 ずいぶん近距離にいる気がしたけれど、気のせいだったか。
 静かに腕を伸ばし、水面に指を当てる。私と同じように、眼前に伸びた白い腕が透明な水を掬った。
 なに? 疑問が胸の内から湧き上がる。恐る恐る腕を自分の顔の側に持ち上げた。
 白く綺麗な知らない指先、細く掴めば折れそうな腕。子供の華奢な腕に、小さな手の平。
 誰の腕これ。気が付けば、心臓が自分でも分かるほど激しく上下していた。
 震える指を握りこみ、私はゆっくりと水面に顔を近づけた。ちゃぷ、と肩から髪が流れ落ちて水面を乱す。
 だけど、水面に映った姿は網膜に既に焼き付いていた。揺れる水面が平らになり、一瞬のうちに描かれた先刻の姿と一致する。
 華奢な身体に、白に近い銀髪は緩やかな曲線を描き、整った顔立ちを更に強調する。極めつけは、太陽と月を合わせたかのような金色の瞳。
 ゆらゆらと不安定な自然の鏡に映っていたのは全く知らない少女だった。
 明らかに常軌を逸している絶世の美少女がだ、何故か私と同じ動きをしてくれている。
 気を抜けばがくがくと揺れてしまう腕を引き締め、静かに髪を掬い取る。
 長い長い髪は、水面に映っているものよりも美しい輝きを放っていた。
 とうとう私の冷静な思考と理性が悲鳴を上げる。
 人間であれば感情は揺れる。その感情に悪魔達は非常に敏感だった。
 笑っても、怒っても、感情を上下させるだけで寄り集まってきた。だから、私は常に自分の感情に蓋をして。感情に激しい波が出ないようにコントロールした。仮面を何枚も被せるように、私は心に膜を張った。
 悪魔には寄りつかれにくくなったけれど、その行為は人間らしさを捨てる結果となった。
 そうやって長年掛けて培われた理性もそろそろ限界だ。
 悪魔に付け入られないように静かに、波立たせずをモットーにしていた感情がうねる。
 自分の姿が違うのだ。
 流石に、これは……無理。もう無理。動揺するなってのがおかしい。
 もはや理性は木槌で撃ちぬかれた脆いガラスのように木っ端微塵に砕けていた。

 なんじゃこりゃぁっ!

 同時に心で悲鳴を上げる。

「なんっだこれえええええ!?」
 
 生まれて初めてと言っていいほどに感情的な絶叫を発する。
 多少別の理性が残っていたらしき私の脳みそは、少しだけ言葉を変更してくれた。

 

「どうしたんですかーお下品ですよー」
 近寄ってきたアオはニコニコ笑いながらそう(のたま)ってくれた。


 分かっているのにからかうつもりだな、おのれ!

 蛇よろしくキシャーと牙を剥いてみせる。
「うっさいわ! なにこれなにこれあり得ないから。なんで私の髪が銀髪になっちゃってるの」
 つーかですね、私こんなに髪長くなかったよ! とある事情から、ベリーショートだったんだよ。
 なんだこの地面に着いちゃってもまだ余るほどに長い銀髪は。私は黒だったのに。
 そのせいで悪魔と勘違いされて深い傷を心に負ったのに!
「なったからねー」
 ふざけるな。
「しかもどうして縮んでるの!?」
 妙にアオがでかく見えたと思ったら、私が縮んでいたのだ。と言うより子供になったと言うべきか。
 歩幅が狭いので遠く感じたのも当たり前。転びやすかったのは髪の毛が邪魔だったからだ。
 確かに世界は捨てるとも言ったし、名前はまあ捨てるのでも良いけれど。
 姿と顔捨てた覚えは一度としてないわ! 生まれ変わりみたいなもの、ではなくここまで来れば完全に生まれ変わりじゃないか。
 少年が誰と尋ねるのもおかしくない位丸ごと変わってしまっている。幸いな事に声だけは元のままだ。
「顔と姿を返せ。あと年齢も返して」
「駄目。それに若くなれてお得だ」
 なにその押し売り的な感謝しろオーラ。誰が感謝するか。
「前のままでもじゅぅぅぅっぶん若かったですから。この姿はあり得ない。元に戻せ」
 慣れない視点のせいで近くに来たアオの姿を捉えるのに苦労する。
 私の今の年齢は十かそこらか。前の高校生の時の身体と比べるとおうとつがない。
 これでもかと言うほどに真っ平らだ。
 ああ、栄養与えて育てた私の身体が! 伸びた身長が! 全て白紙に戻って項垂れる。
 落ち込んでいる私を見て、アオがとても不思議そうな顔をして髪を揺らし首を傾けた。
「こっちの方が美人でしょう」
 なんと酷い神だ。それを私に言うか。確かにこの身体は綺麗だ。
 とてつもない美少女だ。生まれ変わるのなら一度は、と考えたくもなる。
 だけど嫌だ。
 私は完全に生まれ変わった訳ではない。記憶がリセットされていないからこの身体は違和感でしかない。
 気のせいだと思っていた感覚は間違っておらず、私が歩こうとすると立ったばかりの赤子のような動きになってしまう。
「そうだけど、元のが良いの。生まれた時の私を返せーー!」
 ともかくこんな状態では歩くだけで体力を余分に消費してしまう。
 馴染んだ器。私の身体を何処にやったのだこの男は。
「はいはい、騒いでも無駄」
「どうしても駄目だって言うのね」
 微笑ましそうに私を見つめる蒼い瞳に、決意のようなものを感じて覚悟を決めた。
 詐欺も良いところだが、変えられたものは仕方がない。
「そう」
 頷くアオにびし、と隣の少年を示してみせる。
「じゃあせめて彼と同じ目の色にして。スミレ色っぽいの!」
 ここまで変わってしまったのだ、瞳の一つや二つ変えて貰ったところで問題ない。
「えぇ!?」
 スミレ色の瞳が大きく見開かれる。激しく驚かれた。
「そのままの方が良くない」
 アオはとても不満そうだ。価値の分からない神様である。
「あの目が良い! 綺麗だもの」
 どんなに素晴らしいか力説してみせる。顔の造形うんぬんではなく、あの眼が良い。
「え、あ……ありがとうございます」
 何故か赤く顔を染めて、礼を言われる。
「ほんとの事だから!」
 自信を持って良い。その眼は素晴らしい。
 と言う訳で今ねだっているところだ。
「仕方ない、じゃあ――」
 口の中で軽く何かを呟いて両手を合わせる。
「かわった?」
 アオと彼が頷く。アオは余り顔では分からない、彼を見てガッカリする。
 何というか、微妙な空気を醸し出している。きっと似合わないんだろう。
 それも少々という言葉で収まらない位は。
「うう、いいよ戻して」
「素直で宜しい」
 溜息混じりの私の言葉に、にやりとアオが笑った。ぱちんと指が弾かれる。
 
 こやつ、わざと似合わないような色合いで私の目に当てはめたな。
 
 確かにスミレ色系統で指定したが、濃さは問わなかった。マーブルが悪いとも言わなかった。
 お前はそんなに私の瞳を自分で指定したいのか。
 まあどうせ、アオの事だ。姿を変えたのだってロクな理由ではない。
 面白そうだったからとか、そんな感じの台詞が聞けてしまうんだろう。
 濡れた髪を掴んで引き寄せ、私は小さく溜息をついた。
 今の姿だと、物憂げな吐息に見えるのだろうか。どことなく少年の視線が痛い。
 目立たない姿形が懐かしい。前の自分の姿が欲しい。

 ……土くれになりたい。

 落ち込んだ私は八割方本気でそう思った。

 

 

 

 

 

 

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