木霊しているのか、それともそれ程の数が居るのか咆吼が響く。
ビリビリと身体が震え、冷や汗が流れる。
……獣は出ないんじゃなかったっけ。
ここには居ない御者に心で問うが、あの悲鳴を聞いた限り戻っては来ないだろう。
遠くに離れていった声からすると馬に引きずられていったらしいが、残された私達はとてもピンチだ。
「狼」
「え」
微かに震えるシリルの声に視線を向ける。
「この遠吠え、聞き覚えがあります。狼が来たみたいです。
魔物の可能性もありますけれど。とにかく馬車の中に戻って扉を閉めましょう」
そう言えばシリルの村は狼が沢山居たんだった。遠吠えだけではなく現物も見た事があるのだろう、拳を握って立ち上がる彼の顔が青ざめて見える。
狼を見た事はないが、危険なことくらいは知っている。面倒な事になってきた。
ふ、と息を吐いて月を見た。こちらの気持ちなんかどうでも良いというようなすまし顔だ。
彼の提案はとても現実的だと思う。確かに馬車内なら内側から鍵を閉めれば余程大きな魔物が来ない限り安全だ。
しかし、無理。
「いえ、ここから離れないほうが良いです」
火に薪を放り込んで、告げる。ちらちらと火の粉が舞う。
「何でですか」
噛み付くような問いに無理矢理反らし続けていた視線を馬車に向ける。
淡い光に照らされる獣の姿。我が場所とばかりに馬車の天井を踏みつけて悠然とこちらを見下ろしている。
「馬車の上に、もう、居ます」
シリルが言ったようにとっさに馬車に逃げ込もうとは考えた。先回りするように陣取る獣を見てたき火の近くから動かない事に決めた。
相手は獣。今、炎から離れて動くのは無謀だ。
「……囲まれました、ね」
私の隣に移動していたシリルの呟きは、現状を一言で表していた。
前後左右、挟み撃ちどころの話ではない数で狼が私達を狙っている。逃げ出す場所も見つからない。
火はあるが、獣避けとはいえこれだけの獣がこの程度で撤退するとも考えづらい。一匹が向かってくればそれを皮切りに雪崩れ込んでくるのが容易に想像出来る。
たき火から薪の一本を引き抜いて、シリルが私を見つめる。
「囮になります」
多少予測出来た言葉に静かに首を振る。
「無意味です。囲まれていますし、道も分かりません。
それに、私は強制的に戻されるんですからここで襲われても別に構わない。
シリルが逃げるならともかく」
「逃げません。置いてなんて。それに、死んでも生き返るからと割り切れません」
告げると、弾かれたように彼が答える。
即答に苦笑しながら、辺りを見回した。暗闇に無数の目がぎらついている。
アオが居る気配もない、か。
「でしょうね。生き返れる保証がありそうな分、私よりはシリルが逃げたほうが良いと思っただけです。シリルの生は一回限り」
もしかして人間以外だと見殺しにした後生き返らせるつもりなんだろうか。
アオ。お前が分からない。
経験値的にまだ足りないだろうから蘇生はさせるだろう。しかし、私の性格言動を好むなら、出来る限り記憶は保っておくはずだ。
記憶は私の一部でもある。と言う事は、狼に襲われ絶命するまでの記憶も残される可能性が高い。
想像するだに恐ろしい。
死にたくねぇな。
痛み苦しみ恐怖を覚えているって何の拷問だろう。
しかも死は一度ではない。殺されようが事故で命を落とそうが、私は何度でも蘇る。
どこのゾンビだ。
聖女姿の人間が何度も何度も生き返るって性質の悪いホラーか。
本当に神に寵愛されているのか疑問だ。痛みや死ぬ直前も覚えるなら一種の地獄だと思う。
「まあ、希望は希望です。どちらにしろ猫一匹通さない感じの唸りですし」
死にたくはないが、どうも何回か死ねそうな空気が漂っている。
逃げ場無し。生存確率限りなくゼロに近い状況。
なんとしてもシリル位は助けたいが、それも出来そうにない。
他の教会のメンバーを連れてこなくて正解だった。
戦い慣れしている人間が居たとして、獣の群れに囲まれて突破出来る見込みは余り無いだろう。
「ですが……諦めるなんて」
潤んで揺れるスミレ色の瞳を眺めながら、長めの薪を一本引き抜き肩をすくめる。
「そうですね。諦めるのは性に合わないので徹底抗戦はしますよ」
「で、でも。状況的には」
「絶望は慣れています。流されるのは嫌いです。
そうやって生き延びてきましたから。この程度で根を上げる位だったらずっと昔に死んでます」
諦めが悪いのが取り柄だ。命の危機は毎度の事、悪魔が獣に替わっただけ。
「勝てると思います?」
「無理じゃないですか」
不安そうに問われて首を振る。これだけ囲まれている、勝機は皆無に近い。
「じゃあ、何で」
理解出来ないといった彼の表情に思わず笑いそうになった。
まあ、確かにそれが普通の反応だろう。勝てる見込みも無いのに戦うなんて無意味だと。
私は無意味だと思いたくないからそうするだけ。
「抵抗出来ないのとしないのとは随分違いがあると思うのですよ。
奇跡をくれる可愛い神様は居ません。なら、奇跡を鷲掴む根性のある人間になるしかないですよね」
神は祈っても私に手を差し伸べる事はしなかった。だから、自分の出来る範囲で生きる術を探した。
生き残れたのだって逃げ続けた成果だ。それを奇跡というのなら、人は自力で奇跡を創れる生き物なんだろう。
「でも、奇跡は神が」
「神は恐らく与えてくれません。
奇跡は創り上げるものです。神に奇跡と評された私が保証します」
祈るような台詞を冷たく塞ぐ。奇跡は簡単に与えられないから奇跡だ。
そして、聞き違いでなければ私は確かに耳にした。
世界が凍り付く瞬間、アオが私を見て『奇跡だ』と呟くのを。
死の審判を逃れた私の存在は、神すら予想出来ない抵抗の結果。
アオは寿命が見えると言った。私の寿命はさぞかしおかしな事になっていただろう。
何しろ、とうに死んでいるはずの人間なんだから。
シリルが薪を握る手に力を込める。
もう異論はないらしい。今回も、足掻けるだけ足掻いて奇跡か地獄を見させて貰う。
悪魔だろうが獣だろうが、反撃出来るなら容赦しない。
こちらの動きに反応してか、先程よりも長い遠吠えが周囲を震わせた。
長い遠吠えが途切れる前に、鈍い音が鼓膜を揺らす。
シリルの手元から火の粉が舞い、焼けた鉄板が水に触れたような音と獣の悲鳴。
「僕の後ろに来て下さい」
ず、と大地を擦り消える影を見つめていると声を掛けられ急いで背中合わせになった。
何かが飛びかかってきたのだけ目視して、視覚と感を使い手元の薪を殴りつける。
焦げ臭い匂いと濁った絶叫が響く、金色の瞳が闇の中逃げ出す獣の姿を捉える。
月光に照らされていたのは痩せこけた犬のような灰色の生物。
倒れた仲間を見て躊躇している。
「たき火の効力があっても長くは保ちそうにありませんね」
「……っ。そう、ですね」
薪に噛み付いた狼を振り落とし、答えるシリルの息が少し上がっている。
かく言う私も腕が痺れそうだ。脚力と顎の力がかなり強いらしく気を抜けば薪を飛ばされてしまう。
火に臆する狼の中でも、無謀なものは飛びかかってくる。
「そのまま襲われる気も全然無いんですけど、てい!」
それらを振り払い、殴り、火で炙り、焼き焦がしながら言葉を紡ぐ。
「なんか、増えてませんか。数」
数匹ほど蹴散らしたはずなのだが、減るどころか闇に浮かぶ双眸が増えている。
「増援、かな。人間二匹にここまでしなくても。
何が狼たちを駆り立てるんでしょうね」
切れる息を自覚しながら頷く。
「冷静に分析している場合でもないと思うんですけど」
「そうですけど、そろそろ腕が、ですね」
呑気な私の感想に咎めるような睨みが来て、乾いた笑いを漏らしてしまう。
平静を装っているが、もう心臓がばくばく。初めて見た獣の臭いと唸りだけで現実逃避したいところだ。
ついでに何度もの交戦で腕の感覚が無くなりそうな痺れが広がっている。
今現在、薪を取り落とさないようにするだけで精一杯。
「交代します!」
「駄目です。挟まれているので場所を変えても同じ事です」
焦りの混じったシリルの声に呻く。気持ちは嬉しいが、そんな事をしたってほとんど無駄だ。
「で、でも」
シリルの方が襲われている回数が多いのに、こちらを心配してくれる気持ちがありがたい。
「腕が囓られるのが先か、相手が引くのが先か。ホント、きりがなくて嫌ですね」
ふう、と溜息が零れる。痺れた指先を見つめ、ふと思った。
「……声をぶつければ足止めなら出来ますからシリル先に逃げてみません?」
思念をぶつければ生物である狼の足は止まるだろう。ずっとぶつけ続けていればシリルが逃げる時間位は保つかもしれない。
「絶対嫌です!」
提案は秒速で却下される。
「言うと思いましたけど」
元より自分を天秤に掛ける事も考えないシリルには問うだけ無駄だった。
そろそろ薪が炭になりはじめている。余裕があれば新しい薪を取りたいが、警戒の雄叫びがそうはさせないと言っている。
何度目とも知れない顎門の攻撃に薪が悲鳴を上げた。炭化した部分が固い音を立て、砕けていく。
真ん中まで削られ、持ちにくくなった事と腕の痺れが相乗し身体が押される。
「大丈……このっ」
背後の異変を感じ取ったらしいシリルが振り向こうとするが、がつ、と鈍い音が響く。
獰猛な瞳が反り返った私を睨み付ける。重みに耐えられず、ずるりと足下が滑り、座り込んだ。
倒れ込んだ身体に圧迫感。噛まれた薪を何とか突きだして留めているがそれも長くは保たない。
「ぐうぅ」
奥歯を噛み締めて渾身の力で相手の攻撃に耐える。
あ、まずい。死ぬかも。
このまま数時間守備を通せる自信がない。元々体力腕力がないのだ、かなり善戦した方だと思う。
だが、諦めてなるか。狼に貪られて絶命は避けたい。
混ざり合う獣の雑音に混じり何かが聞こえ、視界の隅に流れ星のような光が見えた。余裕があればお願いを三度ほど素早く唱えるが、腕が痺れて喉が狙われている状態ではそんな悠長な事は出来なかった。
ぱきり、と乾いた薪の表皮が砕け散る。
腕も限界に近い。
もう、無理かと押し負けはじめた腕を見て唇を噛む私の耳に、甲高い少女の声が響いた。
『フレム!』
強い光が闇夜に瞬き、空気が唸りをあげる。
もう一度流れ星が降り注いだかと思った。今度は流星群規模。
そう思ったのは一瞬で、数秒経たずに違うと気が付いた。
辺り中から獣の絶叫が響く。馬車の屋根にいた狼が炎に包まれ地面に落ちた。
正面からも悲鳴が上がり、飛び退いて背中についた火を消そうと転げ回る狼の姿が見えた。
流れ星ではなく炎。
「……まほう」
呟いて、座り込んだまま呆然と様変わりした辺りを眺める。
「たす、かりましたね」
背後から疲労と安堵の混じった声。
「もっかいフレムー!」
元気の良い声を合図に火が宙を舞い踊る。
次々と着火剤のように燃やされていく狼の群れを放心し掛けたまま見つめた。
ここは異世界だと、改めて思い出させるに充分な光景だった。 |