十一章:若気の至り−2

シリルは怒ると怖い。ムチャクチャ怖い。『逃げて良いですか』なんて言えないほど怖い。



 シリルがにこにこしながら私の側に歩み寄ってくる。足下のナイフはそのままで。
 ボドウィンがもう苦虫を大量に噛み潰したような顔をしている。
 シリルの笑顔は好きだ。だけど今は、何かが怖い。脱兎の如く逃げ出したいのだが、威圧感に足が固まって動けない。
 穏和そのものの表情だが危機感がますます募る。
 軽く小首を傾げ、彼が自分の胸元に手を置いて口を開いた。
「僕は貴女の守護者(マーシェ)になります」
 思考がしばし活動を止める。視界が暗い。
 脳細胞が一気に壊滅したと思ったが、危ういところで復活したのかすぐに目眩は収まった。
「ア、アオの言葉を真に受けては駄目です。いけません。
 それにああは言っていたけれど、私はやっぱり姫巫女ではないんです。
 そうだとしてもギリギリまで隠し続けますから守護者は必要ありません」
「あー」
 事のなりゆきを見守っていたボドウィンが何故か絶望の呻きを上げた。
 またなんかまずい事を言ったのかもしれない。
「関係ありません。貴女が聖女であろうと無かろうと守護者になります」
 真剣な瞳に唇を噛む。うう、困った。
 悪魔から助けた事が彼にとって枷になっているのかもしれない。
 異世界まで強制的に連れてきて束縛したくはない。自由に生きて欲しいのに。
 ならば、徹底的に幻滅させるべきか。嫌われるかもしれないが諦めては貰えるかもしれない。
「……悪魔を抜いた事に恩を感じているのかもしれませんけど、あれは通りすがったからなんです。
 そうでもなければ助けてません。特別喜ばれる事もありませんし気にしなくて良い事です」
 芯まで冷えた声で淡々と告げる。ここまで突き放せば良い感情は芽生えないはず。
 スミレ色の双眸が少しだけ細まった。
「構いません」
 ふわりと微笑まれ、唖然となる。ここで一気に相手が落ち込むか悲観に暮れるかと思っていたのに。
 返された声は優しかった。
 構いませんって、私は今突き放すどころか蹴り飛ばすような気分で刃のような言葉を放ったのに傷ついた様子も見えない。
 というかシリルから放たれる威圧感がますます増している気がする。守護者は良いんだけど。本当に気を使わないで良いんですよ!?
「姫巫女でも聖女でもないです! 立場上追われる事も多いし、なるだけ疲れるだけです」
 辛うじて声を出すと、ぐっと身体全体に重みが掛かるようなプレッシャー。
 ぎり、と鈍い音が聞こえた。視線を落とすと瞠目したシリルの指が握りこまれ、拳を形作っている。
 シリルの頬が僅かに引きつっている。と言う事は、歯ぎしり。
 本能的に悟る。今ので彼を決定的に怒らせた気がした。
 喋れば喋るだけ墓穴を掘りそうで口を開くのすら躊躇う。ゆっくりと彼の目蓋が開かれた。
「守護者になります」
「いや、でも。守護者って言われましても」
 会話がループしている。絶対気のせいではなくわざとループさせられている。
 シリルは気が利く。相手の表情、口調、状況。全て総合して考えられるからだ。
 そんな彼が私の言いたい事に気が付いていないわけがない。
 どうして守護者なんて面倒な事抱えたがるんだろうか。
「言ったじゃないですか。シリルには自由にしてて欲しいって。だから――」
「だから自由にしています」
 喧嘩腰になりそうな口調を無理に押さえつけ、言おうとした言葉が穏やかな声で吹き飛ばされる。
 ――自由にしている。
 何度も頭の中で反すうして、ざっと青ざめた。
 短い一言だったが、含まれた意味は重い。
 彼は、好きで私の守護者になろうとしている、なのに自由にしている……つまり義務でも何でもなく、自分の意志でやっていると言いたいのだろう。
 
 私は言うべき言葉を間違えた。

 己の甘さを呪う。言うのなら、こう言えば良かった。「私に関係ないもので自由にして下さい」と。
 アルノーと言いシリルと言い、意訳する範囲が広すぎないか。柔軟性を発揮するにも程がある。
 失敗、失敗、また失敗。
 これ以上の失敗はありませんように、願う私の腕が静かに掴まれた。アオの時と違う振り払えば振り払えそうな優しい掌。
 思考に没頭していたせいで目の前に意識を向けるのに少し時間が掛かった。
「悪魔から救われ貴女と同じ時を歩んだ瞬間から、貴女の盾と剣に。守護者になっています」
 微笑まれる。
 いろんな意味で思考が拒絶反応を起こした。
「な、なな……なんと言われました今」
「おいおい。アレをもう一回って」
 混乱で反射的に問い返すとボドウィンが苦笑した。
 確かにもう一度言いにくい言葉だと思う。気のせいにしたいので口を噤むのを期待したが、シリルはすっと静かに微笑んで唇をもう一度開いた。
「何が起きても側にいます。身分も姿も関係ない。
 鼓膜が声を捉えた瞬間から、僕の命は貴女のものです。
 勿論、自分の意志で盾にも剣にもなります、何を言われてもずっと側に付いています」
 先程よりも台詞が凶悪になっていて絶句する。
 アオの時もアルノーの時も衝撃はあったが、これは……下手な告白より凄くないか。
 シリルは私の――聖女の姿になる前、漆黒だった私を知っているのに。
 なのに、私を守って散るのすら本望と言っている。
 一瞬今の姿に、と考えたが違うと心で否定する。
 彼の態度はずっと変わらなかった。前とずっとずっと同じ。名前があったときも無くなったときも一緒。
 聖女でなくても同じ時間を進む。アルノーにも言ったけれど相当の覚悟がないと無理だ。
 永遠に近い生は苦しみが多く感じられるはず。簡単に言える事ではない。
 真剣な眼差しに気付く。これは、誓いだ。
 恐らく私が否と告げても揺るがない。
 冗談ですよね、と喉元まで出かかった言葉を飲み下す。シリルはこの手の冗談はしない。
 数週間しか過ごして無くても性格位は掴める。彼は真面目な性格で、こんな悪質な冗談は言わない。
 スミレ色の瞳を見つめ返す。本気だ。
 やんわりと握られているから振り払おうと思えばいつでも出来るのに、腕が動かない。
 今のシリルには、私の動きを止めるほどの迫力があった。
「貴女の生は僕の生。だから、守護者になります」
 掴まれた場所が熱く感じる。貴女と共に生きて、共に死ぬ。疎まれ追われても良い。
 永劫の苦しみでも側にいる。裏切ったりもしない、そう言われた気がする。
 結婚式でも聞けそうにない台詞だ。凄まじい殺し文句に頬が熱くなるのを感じる。
 えー、つまりこれもその。アオと同じで……ぷろぽーずでしょうか。
 歪んでない分違う意味で心臓に悪い。視線で抉り殺されそうだ。
 えー……と。シリルが、私を。いつから?
 今までの事を思い出して、頭を抱えたくなった。
 初めからずっと変わらない。それはつまり、最初からそう言う事だったという事で。
 過去を振り返ってこの行動に納得する。私は自由に振る舞いすぎた。
 よく考えなくてもシリルの好意にはすぐに気が付けたはずだ。殺され掛かって必要以上の叱責を受けた。
 好きな人が死にかけたら誰でも肝が冷えるしパニックになる。それは当然。
 アオやユハ、アルノーとお喋りするたびに視線が怖かった。
 アレはそうだ。嫉妬だ。つまり焼きもち。
「…………」
 そこまで回想して自分の放った決定打を思い出す。
 
 自分の身は自分で守る、守護者なんて要らない! 気にしないで自由にして下さい。
 
 シリルがナイフを覚えはじめたのは絶対に私の為であり、その本人から徹底的に拒否され否定されれば立つ瀬がない。
 時間が経てばまだ違ったのかもしれないが、今回の件と先程の発言で太めに出来たシリルの堪忍袋の緒とか忍耐がキレた。
 鈍すぎる私のデリカシーのない一言によって。
 で、この強引な手法に打って出たという訳か。ここまでやられればどんなに鈍くても気が付ける。
 困った状況は状況だけど、シリルの忍耐力に拍手を送りたい。普通あれだけ色々やってればとうの昔にキレている。素晴らしい精神力だ。
 体が熱いのを自覚したまままた考える。
 つまり、この事態を引き起こしたのも、切っ掛けはどうあれ。
 ――私の自業自得、なのである。
 やっちまった、と言いたげなボドウィンの様子で今まで気が付かなかった自分の鈍さを痛感した。
 流石に全部が全部アオのせいとも言えない。
 火照りの収まらない頬を空いた手で押さえ、瞳を伏せた。

 

 

 

 

 

 

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