一章:秤−5

夢のない異世界旅行に出発。


 今から異世界に行く前の試練を頂けるらしい。らしい、と言うのは目の前の試練を課した人物がとても楽しそうな顔をしているからだ。
 絶対に、試練ではなく遊ぼうとしている。自分さえ楽しければ問題ないを見本にしたようなこの青年からすれば、そりゃあ異世界に人を連れ込めるんだから色々試練と名を付けて遊びたくなるのかもしれない。
 命と引き替えにとんでもない人物に頼み事をしてしまった。後悔するだけ無駄な気もするので諦めて試練を受ける事にする。
 溜息の代わりに疑問を吐き出す。
「そう言えば異世界に行く前に持っていく物はあるんですか」
 例えば着替えとか。食料とか。
「荷物はいらない。いるのは君の身体一つ。
 この世界の物は全て置いて、君は向こうの世界で生き延びなければならない。それが決まり」
 イヤに素早い答えに口元を指で覆い、考えこむ。説明書を読むような口ぶりからすると、つまり異世界旅行には原則異界の物質は持ち込み不可という事か。
 着の身着のまま異界へ突入するしかないと。……不安だなぁ。
 まあ、悪魔によってたかって囓られるより神様に近そうなこの門番の青年に遊ばれながら連れて行かれる方が万倍マシだろう。
「分かりました。ええと、あなたのお名前は聞いて良い事ですか?」
「名前ねぇ、気が付いたら色々堅苦しい名前がついているから適当なのは……どうしようか」
 神様だとすれば幾らでも名前があるんだろう。炎一つにも何種類もの名前が付く世の中だ。
「僕の名前は、そうだね。仮に――アオとでも名乗っておこう」
 不思議な蒼の髪を持つ彼は特徴的な自分の髪の先端に指を絡めてそう名乗る。
 まんまだ。
 でも本人はそれで呼んで欲しそうなので良しとする。
 明らかに偽名だけど、呼べる名があるだけ進展だ。神様らしき人物を、この先あなたと言い続けるのは非常に気が引ける。
「今更ですが、私の名前は名乗ったほうが良いですか」
 日本人として名乗らなかったのは不作法だったかもしれない。人と喋る事自体久しぶりだったので礼儀作法を忘れていた。
「いや、良いよ。どうせすぐに忘れる事になるから」
 あっけらかんと笑って言われてショックを受ける。
 ひでぇ。いや、酷い。思わず地が出るところだった。

 何気ない、青年――アオの一言を後で身をもって知る事になる。それに含まれる様々な意味も。

 荷物はいらないらしいので鞄を地面に置く。出来る限り身を軽くする為にポケットの中身も鞄に詰め込んだ。
 ポケットには大したものは入っていない、せいぜいティッシュやハンカチ。そして飴玉に変わり種があるとすれば聖水とお札だ。
 せめて聖水と札ぐらいは持っていきたいので目線をアオに向ける。にっこり微笑まれて静かに首を横に振られた。
 駄目か。
 諦めてそれらも鞄に詰め込んで蓋を閉める。身分証明書も携帯も全て鞄の中。
 服以外、本当に何もなくなった。身を守るものも綺麗さっぱり鞄に入れた。こんな軽装で旅行に行く事に多大な不安を覚えるが、現実逃避をかねて無視する。
 これで準備は整った。行き先は、外国よりも地球の裏側よりも遙か彼方の異世界だ。きっと戻って来る事も出来ないだろう。
 確かめられるように見つめられ、静かに頷く。アオは満足げに頷いて私の鞄を取り。
 何するんだろうと思う間もなくぶん、と天高く放り投げた。

 わーお。

 唐突な奇行にぶったまげる。何しやがりますかこの人は。
 鞄はお星様になる事はなく重力に従い落ちてきて、アオがくるりと指で円を描くと空にぱっくり口が開く。
 音も立てずに鞄はその中にゴールイン。パチンと彼が指を合わせると穴は飲み込まれた鞄と共に忽然と消え失せた。
 私の存在の一つである鞄を消したかったのか。それならぶん投げる必要性は全くないのだが、アクロバティックな演出が好きな性格なのだろう。
 もしくは私の突っ込み待ちか。多分突っ込んで欲しいんだろうけどつとめて平静な顔を装う。
 神みたいなものと言われたが、今までの言動を考えるに純真無垢な性格では断じてない。下手に突っ込みを入れれば良いように弄ばれるのが落ちだ。
 ますます彼が出そうとする試練の中身があらゆる意味で気になってきた。流石にドラゴン退治は頼まれないだろうけど、物騒な試練だったらどうしよう。
 生かすのが条件だからそうそう命に関わる事はさせられないはずだ。……多分。
 心の中で葛藤していると、彼が歩み寄ってきた。左手に広げたまま持っていた本を私にかざす。
 正直言うと、私はずっと本の中身が気になっていた。神様が読む本はどんなものだろうと。
 気のせいかその本の形に見覚えがあり、思わず頭を捻る。数拍程悩んで思い出した。

 聖書だ。
 教会で何時も見ていた分厚い聖書。それより少しだけ薄く、小さいが確かに聖書のような形だった。
 
 思わず胸の内で呻く、似合わねぇ。すっごい不釣り合いだ。
 神が聖書をという範囲を飛び越えて、このアオという青年が持ってる事自体が違和感だ。
 悪魔辞典の方が似合うんじゃないか? と思った私に気が付いたのか気が付いてないのか。
 微笑んだままアオは広げた聖書を私の頭から被せようとしていた。
「うえっ」
 逃げようとして襟首を掴まれ動けなくなる。神様だから術でも使えば様になるが、彼は普通に腕力で片付けた。
 幾ら相手の見かけが華奢でも、女と男の力の差は歴然である。じたばた暴れる間にも、お仕置きなのか聖書が開いたまま振り下ろされる。
 角の方が痛そうだが、開いたのは優しさだろうかと一瞬考え。ばさりと聖書が振り下ろされた。
 身体に広がる違和感。

 刹那思考が固まる。開かれた聖書は――白紙だった。

 なんで。と上げようとした声は吸い込まれ、景色が歪んだ。
 先程感じた身体に浸透する違和感がはっきりと感じられる。被せられた頭から足の裏まで冷たい管が通されたような変な感触に鳥肌が立った。
「足上げて」
 アオの台詞に釣られるように下を向くと、靴の下に開かれた聖書があった。何故かは知らないが、ご丁寧にも背表紙を両足で踏んでいる。
 慌てて飛び退くと、彼は笑って本を取った。
 継いで、むわりとした違和感と寒気に口元を抑える。さっきとは違う本能的な嫌悪感に近い何かだった。
「着いたよ」
 土埃を落としながらの台詞に辺りを見回す。確かにアスファルトも無いし車も見つからない。
 その場所には様々なものが落ちていた。
 あちこちに散乱するのは折れた柱だと認めるのにしばらく時間を掛ける。どう考えても上から潰されたとしか思えない木製の住居を凝視するのに更に時間を掛けた。
 目一杯色々な意味で逃避したい。先程から感じる嗅覚を潰しそうな悪臭。それは辺り中から漂っている。
「明らかに平和とはかけ離れているようですが」
 胸のときめきではなく甘酸っぱいものが込み上げそうになる。
「うん、試練だから。ここは寄り道みたいなものだよ」
 微笑む彼の後ろの壁にペンキをぶちまけたような赤い染みが広がっていて気が遠くなりかけた。
 全壊に近い辺りの様子は、元は異世界ののどかな村だと感じさせた。
 目眩を強くさせるのは、壊れ方だった。
 酒場のような場所、家。人家が徹底的に切り刻まれ潰されていた。地震にしては故意的すぎる。
 人に対して敵意がある生物が蹂躙したと考える方がスッキリ来る。で、この場所に連れてこられた私。
 それらを総合すると【人家を破壊できる力を持つ生き物の討伐】が私に課せられる試練だとしか考えられない。
 アオ、なんという無謀な試練か。お前は鬼だ悪魔に相違(そうい)ない。もうお馴染みとなった恐怖を感じる。
 もう一度握力だけで潰されたらしき私の胴体程の柱を見る。勝てるかっつーの。
「大丈夫。群れは引き上げているよ」
 人家を破壊するだけでもイヤなのに、かわいげのない事に群れをなすらしい。
「残りは一匹だけだから安心すると良い」
 不安しか募らんわ。思わず吐き捨てかける。
 私の険悪な視線を受け流しながら、アオはスタスタと迷い無く先を進む。
 立ち止まって、こちらを振り向いた。
「魔物じゃないよ。君にも対処できる、さあここだよ」
 彼が目で示したのは、周りのように徹底的に潰されては居ないが酷く損傷の激しい民家だった。右半分が潰れ掛け、斜めになっている。
 扉を開こうにも扉自体切り裂かれて板切れになっている。黙したまま腰の引ける私を置いてアオは中に入ってしまった。
「……お邪魔します」
 土足以前の問題の家に入り込み、礼儀として声を掛ける。やはり返答はない。
 溜息をついて私は家の中に足を踏み入れた。
 まず感じたのは異臭。腐臭なんて表現が可愛い程の臭い。生ゴミと腐った魚、臭いのするものを全てかき混ぜて発酵させたようなそんな香り。
 なんだこれ。この臭いは酷すぎる。
 喉奥から込み上げそうになる胃液を押しとどめる。
 そして、平然としたアオの側にある物と薄暗い中でも分かるそれを見て、息が詰まった。
 赤。赤だ。赤が一面に広がっている。どす黒く光る赤い液体は家中にまき散らされている。
 そして周りに何かが倒れていた。
 知覚は出来ている、ただ認めるのに時間が掛かった。
 一つ二つ、三つ。それらを人と認識して私は耐えきれずに膝を突いて胃の中のものを吐き出した。
 胃液の臭いと腐臭……血の臭いが混じって更に何もない胃の中身を吐き出した。涙が溢れる。
 悪魔達に夢の中で死体を敷き詰められる事もあった。臭いも感覚もこれに近い。
 だけど、現実の方が遙かに凄惨に感じられた。多少の抗体を付けられていたせいでじっくりその死体達を見てしまったのだ。
 一人は喉を一掴み程ちぎり取られ、もう一人は心臓の部位を貫かれ……後はうつ伏せになっていて見えない。ひっくり返してまで確認する気はないが、恐らく眼窩(がんか)をくり抜かれている。
 ようやく落ち着いて、この惨状が何によって行われたか理解した。汚れる事も構わずに制服の袖で口の端を拭う。
「悪魔」
 奴らだ。夢の中でも執拗に目をくり抜いた死体を見せ、目の前で人の首をはね飛ばして見せたりした。
 えぐり取ったりはね飛ばすのがお好みらしい。
「そう。奴らがやった事」
 よくよく見渡せば、死体は一様に聖書を手にしていたり、十字架を持っていた。そして血痕は這いずった跡が見える。
 神を信じる人間をゆっくり虐殺とはなんとも悪魔らしい。他の潰れた家の下には首無し死体もあるだろう。
 せめてワンクッション置いて欲しかった。立ち上がってアオを睨みつける。
「全部、死んでる、じゃない」
 空気を吸い込むたびに吐きそうになって途切れ途切れに抗議する。
「後一人」
「悪魔が居る?」
 先程そんな事を言っていたが、倒せたとしても虚しいだけだ。死体しかないのに悪魔一匹締め上げたところで完全な静寂が残るだけ。
「それだけじゃなく。生存者が一名、死にかけているけれど」
「どこ!?」
 それを早く言えと心で突っ込んで尋ねる。薄暗いリビングの奥、ソファの側にもたれ掛かるように、彼はいた。
 血の海で膝を折り曲げて瞳を閉じたまま微動だにしない。血にまみれた服、握りしめられた十字架。
 傷がないのは多分彼が、周りの人達から庇われたからか。なんとなくそう感じた。
 早く駆けつけたいところだったのに、足が止まってしまった。
 目蓋が時折痙攣するように震えるが、目を開く気配はない。血の気のない白い肌、薄暗いが肩程まで伸びた髪が金髪だと分かる。
 どす黒く変色しかかった服は簡素な、糸ではなく植物で編まれたもの。
 服装からして異世界だけれど、私の歩みを躊躇わせたのは彼の背中から伸びたものだった。
 闇すら飲む漆黒。たとえるならコウモリの羽。奴らの背に生える悪魔の象徴とも呼べるもの。
 天使の羽の方が似合いそうな少年の背には、何故か悪魔の羽が生えていた。

 

 

 

 

 

 

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