プロローグ/わたしの春

 

 

 

 上履きをしまい込み、とんとん、と軽く靴を直して靴下の位置を正す。
 外に出ると夕日が大きく傾いて空にはうっすらとした星の影。
 今日は人生最良の日。泣いた後赤い目が何時までも治らなくてトイレの鏡と長期格闘。
 そのせいで先生に『いつまで残っているんだ』としかられてしまったけど、幸せな私にはそれすらも軽いスパイス。はしたないので鞄は振り回さない。けど嬉しさはついつい出したくなって小さな小さな鼻歌なんかを歌いながら校門まで歩んでいく。
そう言うときは前後不注意になっていることが多くて。更に上空なんて全く気にも留めていなかった。
「あーーーーーーぶな」
 後頭部に刺さる悲鳴。
「はい?」
 機嫌が良いのも困りもので、私は言葉の中身に気が付かず満面の笑みで振り向いた。
刹那の衝撃。
 何とか顔面には訪れなかったモノの、額にマトモに何かがぶつかる。
 一瞬意識が吹っ飛んで悲鳴を上げるヒマもない。こめかみの左側が痛い。ひりひりする。
 さっきのうれし涙と違った意味でちょっと涙がにじむ。
 左手で痛い部分を軽く触れる。たんこぶは出来てない、みたい。血も、出てない。
 掌がいつの間にか固い地面に付いている。何かが当たった衝撃で私は尻餅をついたらしい。鞄が遠くに吹っ飛んでいた。ここ連日天気が良かったため、鞄も濡れてはいないみたいだ。借りてもらった本も平気、かな。
「だ、だだだだ大丈夫ですか!?」
 どたばたと騒がしい足音。土を削りながら猛然と誰かが駆け寄ってくる。
 えっと……あー。
 頭を揺らされたせいでちょっと記憶が吹っ飛んでたのか、自分のいる場所を思い出すのに時間が掛かった。  
近くにあるのはグラウンドで。ころころと私の近くを転がっているのは見覚えのある丸い物体で。で、さらになんだかこの声も聞き覚えがあって。
 あぁ。そっか、また避けられなかったんだ。
 今度は痛みではなく、自分の反射神経の鈍さに泣きたくなった。
 ずっと思い出せなかった事も思い出す。刺激を受けたスイッチみたいに混ざり合う今日の映像。記憶の破片が繋がり合って欠けていた情報を形成する。 
 マナの馬鹿者。親友の罪状が記憶と共に叩きつけられて旅立ちたい気分になる。
「…………先輩。先輩。先輩ーー!? 頭、頭大丈夫ですか。
 モロ喰らってましたよっ。だいじょぶですか平気ですか!?」
 心配そうな声と、眼前で仰ぐみたいに両手を揺らされはっと我に返る。不安で揺れる瞳がやや真上にあった。
「え、あ。ははは……へ、平気。です。また当たっちゃった」
 相変わらず力が強いのかな。ちょっとクラクラ。
 立ち上がるとふらついて心配かけそうだから、少しこのままで休憩。
 対する相手は今にも平伏して土下座せんばかりの勢いで頭を下げる。
「スイマセンスイマセンゴメンナサイ。ほんっとーにゴメンナサイ。わざとじゃなくて、なんかもう毎回言ってますけど誓ってわざとじゃないです。毎日ぶつけといて何言ってるんだって感じですけど、先輩が通るたびに何故か狙いが。先輩天然のサッカーボール引き寄せ機か何かですか!? もしくは磁石を仕込んで引き寄せてたりッ」
 これはあやまって、るんだろうなぁ。混乱してるのかも。
 何だかさっきの私みたいで親近感を覚える。そんな気持ちが顔に出てたらしい。
「な、なんですか。オレの顔、何か付いてます?」
 頬がまた緩む。ますますさっきの私に似ている。違うと言えば相手が自分と違ってずばずば素直に口を開くところだ。
「え、と。確か貴方…… 桂木(かつらぎ) (ひびき)君。だったっけ」
「は!? え、あーはい。何で知ってるんですか」
 驚いたように口を閉じ、黒い瞳をまん丸くする。
「え!? あ、そ。それは……えっと」
 次は私が口ごもる番だった。私の親友が貴方のこと盗撮してアルバイトしてたから。とは言えない。絶対言えない。
 そう、彼が哀れな写真の被害者。絶対黙秘かつ悟らせてもいけないマナのターゲット。
 同情の眼差しで見つめたくなるけど、がまん。我慢だ顔に出しちゃ駄目。
「わ、私の友達が。貴方のこと話してたから。えと、サッカー部、期待の新人って」
 ちょっと人差し指を立てて、無難な方で話を進める。アイドルとかスターとか、写真を連想するモノは不味いだろう。人見知りで口数が多いとは言えない私だが、話せないわけではない。それに目の前の相手とはよく喋るのでスラスラと言葉が出てくる。
 先輩は特別。そう、特別。ああ、でもこれだけ話せていれば私はどんなに楽だったか!!
「期待の新人。そ、そうかなー」
 聞きかじりの情報をごまかし混じりに真顔で伝えると、彼は照れたようにはにかんで頬を掻いた。
「桂木さんは……」
「一個下ですし。もちょっとかるくで」
「軽く……ひび……響……さん」
 やっぱり人見知りが激しいのは筋金入り。
 気楽に、とか言われても異性の人を呼び捨てなんて出来ない。特に名前は。
 前、出来るだけ頑張ってみたけれどマナには『ごめん。もー無理しなくて良いから』と何だか悲しそうな顔でお願いされてしまったし。 
「君」
 にこやかな笑顔。あふれる期待感。それがびしびし突き刺さってくる。
 先輩として頑張って答えないと駄目かな。頑張ってみよう。
「ひび…き…ク」
 やる気を付けていた私の唇がまた何かに乗っ取られた。ガチゴチに固まって動かしづらい。彼が首を傾けた。目がキラキラしている。
「……君」
 粘る。
「桂木…君」
「下の方で」
 結構粘る。このねばり強さが勝利の秘訣かな。
「響く……く……無理です」
 とうとう私からギブアップ宣言。ごめんなさい。
「やっぱり」
 がく。と項垂れる。なんだかガッカリさせてしまったみたいで申し訳ない気分。
 確かに名前で呼んだ方が親しみ感も倍増だけれど、とてもとても恥ずかしくて私には無理。
「じゃ、先輩。桂木君で手を打ちましょう。でも心の中では響君と呼ぶこと」
「了解です」
 びし、と突きつけられた指先にこくこく頷く。主導権はあちらの思いのままだ。
 あれ? 私、謝られてたんじゃなかったっけ。
 折角なので心の中ではちゃんと響君と呼ぶことにする。
 ボールを何度もぶつけられている、と言っても謝られたり謝ったりでよく考えたら今まで名乗りあったりもしていなかった。
「あ、わ、私は音梨(おとなし)。音梨果林(かりん)です。以後宜しくお願いします」
 考えると同時。立ち上がってぺこり、と下げる。自己紹介の時の習慣で条件反射だ。
「えと。桂木響です。以後宜しくー……って先輩。あんまり以後宜しくは良くないような。
 ボールまたぶつけても良いんですか?」
「ボール方面はナシで宜しくお願いします」
 首を少し傾けて、真顔で頼んでみる。
「はー。よ、よろしくおねがいします。えー、音梨先輩」
 余りこういう堅苦しい挨拶に離れてないのか、今度は響君の方がかちんこちん。
 ……面白い。
 面白い、なんて失礼だけどやっぱり面白い。くるくる変わる表情とかわたわたしている足取りとか、何だかイタズラ盛りの子犬みたいで愛嬌がある。
 マナがどうしてアイドルアイドルと何時も騒ぐのか、ちょっとだけ分かった気がする。
 確かに追っかけてずーっと眺めても飽きないような感じだ。 
 じっ。気が付くと鞄を持った響君が私を見ていた。
 私の瞳に穴が空きそうな位、熱心に。
「先輩、イイコト、ありました?」
 続けて言われた台詞に心臓が跳ね上がる。
「へ。あ……わ、私。そんな緩んだ顔してます!?」
 心当たりは、ありすぎるほどある。今私は宝くじの一等者より幸せだから。
 でも出来る限り平静を保っていたはずだ。ちょこっと、ちょこっと頬が緩んでたり目尻がさがってたかもしれないけれど! 溶けかけたチョコみたいにユルユルな表情はしてなかった……はず。はずだと、思う。 
「いえー。ぜんっぜん。何時も通り真面目一直線な顔です。オレの気のせいかー」
「そ、そうですか………」
 ん?
 と言うことは。
「ちょっと私をからかったりしました?」
「爪の先位」
 言って人差し指を立てる。相変わらず人好きそうな笑顔。
 でも言ってることはちょっと酷い。思わず頬が少し膨れる。
「遊んで顔見ていじったりしたんですか」
「少しだけなら」
 私の半眼の問いに、彼は悪びれもせずに十円玉位の大きさの輪を形作った。
「年上からかって遊ばないで下さいっ!!」
 マナとのやり取りで慣れてしまったやり方で思わず反撃。反射的に腕を突き出したけど手応えはない。現役選手になまりになまった私が攻撃できるわけがない。
 彼は楽しそうに万歳をしている。あっさりかわされてしまったらしい。
「うーっ」
 何か悔しい。悔しいのでもう一度。
 ぱす。鈍い手応え。で、見覚えのある黒光りする革の鞄。
「私の鞄を盾にしないでーーーー!!」
 私に鞄を軽く受け取らせると、
『わー。先輩が切れたー』
 なんてけらけら笑いながら響君は行ってしまった。何処かの誰かを彷彿とさせる。 
 そして『響ッ!! ドコで遊んでいたーーー』と先生の檄が飛んでいるのも既視感。 
「何だか……疲れた」
 私は重くて軽いという複雑な気分を背負いながら帰路についた。
 行動はともかく、良い後輩には違いない。きっと。

 

 

 

 

 

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