九章/足手まといは要らない

 

 

 

  


 誰も言葉は発しない。時が凍っているかのように、マインも動かなかった。
 そんな中、アベルだけが指を弾く動作をする。
 泡。シャボン玉。
 音もなく眼前に現れた物体。それを見た初めの感想はそんなところだった。
「洗えば血の臭いが取れる。手を入れろ」
 彼の台詞でようやく空中に球体の形状で留まっているものが水だと気が付いた。
 自分の両手を眺める。塗りつけて広がったせいで目を背けたくなるくらいに右手も左手もどす黒い赤に染まっていた。
 手は洗いたい。でも見たことがない魔法。出した相手は自分を好ましく思っていない相手。助けられたことを差し引いても、躊躇うのには充分。
 恐る恐る指を伸ばしてちょんと触れてみる。痛くはないようだ。
 見た目はグミのようなのに触ると水面だった。不思議なのでもう一度触ってみる。
 やはり微かに触れた感触は水。これなら指先くらいは大丈夫かも知れない。
 意を決して突っ込もうとした両腕が背後から掴まれる。
 え? 誰ですかこれ。
 ゆっくり振り向く。硬く掴まれた腕は振り解ける見込みがない。
「何をしている」
 無表情に苛立ちをプラスさせ、アベルが背後に立っていた。何故か私の両腕を掴んで。
「え、あの。今からちょっとだけ指先を洗おうと」
 何か悪いことをした時のように声がおどおどしてしまう。
「全部入れろ」
 そう言うが、全部と言われても見知らぬ物体に手を入れるのは抵抗が。
「急げ。もたもたするな」
 こちらの事は知ったことかとばかりに、言いながら腕を水の玉に近づける。勿論私の手ごと。
 ちょっ、待って。そんないきなり心の準備が!?
「臭いで新手が来たら迷惑だ」
 ずぼ、と無理矢理入れられる両手。反射的に硬直する。
「軽く擦って洗え。すぐ取れる」
 固まる私に気が付いていないのか、気にしていないのか、それだけ言って幌に付いた血も水で流した。
 テキパキと辺りの片づけをするアベル。水の玉に両手を突っ込んだまま止まっている私。
 何か自分だけ脅えているのがシャクに障る。もう手は入れてしまっているのだから今更毒か薬か考えた所で意味もない。
 言われたとおりそっと指先で血にまみれた手の甲に触れる。擦った訳でもないのに赤く染まった部分が消えていく。
 正しく言えば洗い流されているのだろうが。何だか少しだけ楽しくなり普通に手を合わせて石鹸を擦るように手をもんでみた。
 一気に消える血の色。おお、凄い。こんな水が発売されたら一躍有名商品だ。最後に爪先の血を消して終了。
 この水では、洗い流すよりも消しゴムのように消してしまうと言う表現がしっくり来る。
 引き抜いて、何となく自分の手を見つめ、更に驚いてしまう。
 臭いがない。体臭じゃなくて、血の臭いが消えている。
 指先を鼻に近づけて、確かめてみるが、やっぱり臭いはしない。
 大量の血液が付着していた訳でもないので、水の色も少し濁った程度で赤くなった様子はない。
「臭いも消えたな」
 アベルの言葉に思わず素直に頷いた。
「カリン様ぁぁぁぁ。足ーーー!! あしがあああ」
 足下で女の子のような悲鳴になり始めたシャイスさんの声。
 そう言えば斬り飛ばされた魔物の足、穴から落ちたよね。
 密室で魔物の足と二人(?)っきりらしいシャイスさんは泣きそうな声を出している。もしかしたら本当に泣いているのかも知れない。  
「あの」
 流石に今度ばかりはお礼を言うべきだと気が付いて口を開こうとしたら、アベルの姿が消えた。慌てて左右を見渡し、
「ぎゃーーーー!? 出た出た出たあああ!? って、アベル様脅かさないで下さいッ 」
 シャイスさんの悲鳴で幌の穴を覗いた。
「う」
 魔物の腕らしき切断部から滴る液体と、異臭に思わず口元を抑える。
 ぼうっとしていたときは分からなかったけれど、あんなに凄い臭いがしていたのか。
 血だけじゃなく足が落ちているのも原因の一つだろうけれど。
「黙れ。その辺に登ってしがみつけ」
 冷たい金属音。
 脅したのか無意識だったのか携えた刃を揺らしたらしい。元々従順なシャイスさんは更に従順さに磨きを掛け、口元を覆ってソファにしがみついた。
 馬車内が暗くて見えにくい。そっと頭を穴に差し込む。頭に血が上るが仕方ない。
 ギッ、と鈍い音がする。アベルは当然のように馬車の扉を開き、これまた当然のごとく先程私の手を清めた水を地面に叩きつけた。
 ホースの水量を強にしたときのような水音がして、床の血痕ごと獣の足は走る馬車の外にはじき飛ばされた。
 腐臭に変わり始めていた臭いが消える。どうもあの水には強力な消臭効果があるらしい。
 何事もなかったかのように扉を閉めて、アベルは面倒くさそうに息をついた。
「掃除が終わった。もう降りて良い」
「は、はひっ。で、でですけど何でいきなり魔物の足が落ちてくるんですか!?」
 涙声に近い声で頷いて疑問を落とす。何の脈絡もなく魔物の足が降ってきたら誰だって驚くしパニックになるだろう。
 それを考えたらシャイスさんは落ち着いている部類かも知れない。
「一匹追いついてきたのを斬り落とした」
「カ、カカカカリン様は無事なんですか!?」
 歯の根が合っていないが心配してくれている。
「一応」
「一応って何ですか、一応って!」
「噛まれそうになって死にかけた程度だ。問題はない」
 さらりと流すアベル。
 え。噛まれそうになってたんですか私。
 全く記憶にない。というか視界にすら入らなかった。
 悶々と考える私の鼓膜に、どさと鈍い音が響いた。そっと下を覗く。
 ソファから前面へ倒れこむ形で動かない白い法衣。冷たく見下ろすアベル。
「シャイスさーーーん。起きて下さい、そこで気絶しないでーーー!!」
 相も変わらずがったんがったん揺れる馬車内で気絶なんてしたら打ち身し放題だ。幾らショックだったとしても本人より先に気絶しないで欲しい。
「シャイスさーーーん!」
 魂が抜け出て仮死状態にでもなっているのか起きる気配がない。後で捻ったりアザが出来たりするだろうけど放っておこうか。
 心の何処かで冷めた自分がそう囁く。いや、駄目だ。一応シャイスさんも戦場行きなんだから手傷はないほうが良い。
 意を決し、覗いていた穴に足を差し込んでそろそろと降りる。
 登るときも苦労したけれど、降りるのも一苦労。見えない分降りる方が大変かも知れない。
 一回降りたことは降りたけど、あれは落ちただから参考にならない。ゆっくりゆっくり馬車内に入ろうと。
 したところで足首が何かに掴まれた。もの凄い既視感。
 ぐいっと地へと引き寄せられる。
「ひわぁっ!?」
 今度も悲鳴を上げることが出来た。可愛い悲鳴とは行かなかったけど。
 衝撃を覚悟して身体を丸めるけど特に痛くはない。
 首元が絞まってちょっとだけ、息苦しい。地面を踏みしめようとして足先の感覚がおかしいのに気が付く。
 踏めない。
 何度足を下に向けても地面に届かない。何、何事!?
「暴れると窒息するぞ」
 耳元で冷たい声。恐る恐る横を見る。
「何でアベルが隣にいらっしゃるのですでしょうか!?」
 混乱してまともな日本語にならなかった。かなりの至近距離にアベルの顔がある。
 私と同じ目線。彼はこんなに背が低かっただろうか。
 駄目だ。現実逃避は駄目だ。気をしっかり持って現実に向き合うの、音梨果林!
 ぶらぶら揺れる自分の腕と足。苦しい襟元。
 答えは背中、首の後ろを子犬か仔猫のように掴まれてる。それしかない。
「放して下さい。ていうか何するんですか!?」
「もたついてて見ていて腹が立っただけだ」
 うっ。確かにもたもたしていただろうけど。
「だからって足掴んで引っ張らないで下さい。落ちたらどうするんですか!?」
 落ちたら痛い。非難の眼差しは届かないので言葉に怒りを混ぜて浴びせる。
「掴まえてやっただろう」
 そう言って私を軽く降ろし、五月蠅げに眉をひそめる。
 これは掴まえると言うより掴むと言うんです! と言おうとして思い直す。
 落ち着け私。結果的には早く着いたから良いとしよう。大人の、寛大な心で受け流せば良い。
 馬車内で口論したところで楽しくもないし、これ以上関係を悪化させたくない。
 気持ちを切り替え大きく息を吐き出して、シャイスさんを揺する。
 全く起きない。取り敢えずソファの上に引きずり上げ転がして、上に重し代わりのナップザックを置く。
 これで転げ落ちることはないだろう。少し苦しそうだけど。多分気のせい。
 ミシ、馬車が揺れた。
「て、敵襲ですか!?」
 慌てて扉を見る。ミシミシと音を立て、今にもはじけ飛びそうだ。
 密室状態で襲われてはひとたまりもない。
「違うよ! プラチナの」
 マインの台詞と共に扉が割れ、欠片が今までシャイスさんが倒れていた場所に降り注ぐ。
「カリンちゃーーーん! 会いたかったわぁっ!!」
「ぐぎゅ」
 何時になくハイテンションな台詞と共に私は毎度の如くアニスさんに抱き潰された。
 違う意味で、死ぬ。
 呼吸困難で霞みそうになる意識の中、一足先に夢の中に漂っているシャイスさんを呪った。


 

 

 

 

 

 

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