九章/足手まといは要らない

 

 

 

  



 打ち倒された敵は涙目で私を見上げ、呻く。力加減したはずだが、掌にジンとした痺れが残る。
「い、いいい痛いですカリン様」
 反論する元気を見ると、見かけによらず頑丈なシャイスさんはコブくらいで済んでいるらしい。
 武器に包帯を巻いた効果もあっただろうが。
「これ位で済んだだけで良いほうです! アベルなんてさっきからシャイスさんごと斬るつもりでしたよ!?」
 そのたび蹴りを入れて攻撃から逸らしていた私の苦労を口の中に突っ込んでやりたい。
 みんなより私の方が庇われる回数が多かったので何度も無意味に死にかけた事とかももの凄く根に持っている。
「え。ですけどカリン様。勇者候補は戦場で味方を傷つけては罰則が。特に城の者を傷つける事は許されないと」
 多分その罰則覚悟でやっていたのだろう。気持ちは分かる。
「カリンちゃん。一匹倒したわね。偉い偉いお手柄っ」
 同じくシャイスさんの援護に見える攻撃を受け続けていたアニスさんが褒めてくれた。
「え。私魔物扱いですか!?」
 散々味方を窮地に叩き込んでおいてこの言葉。自覚がない人間は恐ろしい。
「でも囲まれちゃいそうだわ。マインちゃんもシャイスが怖くて寄れないし」
「アベルに頼んだら私達も斬り刻まれますね」
 獣のようなぎらついた翡翠の瞳がこちらを見ている。アレは獲物を見る目だ。
「そうねぇ」
「あ、アニスさん火炎得意ですか?」
「ええ。かーなり得意よ。火炎と鞭は得意分野なのよ」
 微笑んで武器を揺らしてみせる。似合いすぎます鞭。そう言えば初めて見た時も鞭が火を噴いていたっけ。
「じゃあ私の合図で広範囲に火炎って出来ますか?」
「出来るけど、丸焼きにしようにも火の入りが浅いのよ」
 頬に手を当てて、ふうと溜息を吐くアニスさん。やったんですか。
 ふて腐れている様子を見る限り、何度か挑戦したようだ。
 ナップザックからありったけの壺を取り出し。
「浅くても良いんです。ちょっとやってみてください」
 持つと言うより抱えながら辺りに投げつけ、合図を出す。
 煙幕代わりに使って、在庫が僅かな、なけなしの油壺。
 が、引火するには充分な量。辺りは戦いのせいで木々は切り倒されて居て、余り火事の心配は要らない。
 アニスさんが呪文らしき物を呟いてから、唇に手を当て。ふわっと手を翻す。
 え。投げ、キッス? でしょうか。髪を掻き上げる色っぽい姿に反射的に硬直する。
 甘い仕草とは違い、辺り一面が一気に炎で覆われる。火炎放射にも見えて、樹が芯まで燃えるようには感じない。
 確かに火力が凄いとは言えないけれど、シャイスさんのアレとはずいぶんな違いだ。これぞ魔法って奴だ。
 強力とは言い難くとも、確実な火種は油の染み込んだ辺りを焼き尽くすには充分すぎた。
「あら、凄い威力ね」
 瞳を瞬いて、アニスさんが口元に手を当てた。あちらこちらから悲鳴のような咆吼が聞こえる。
「燃料があると良く燃えますね。今のうちに囲みを破ってアベルの側から離れましょう」
「そうね。あぶないものね」
 ええ、アベルが。というかもう火ごと斬られそうな目で睨まれている。主にシャイスさんが。
 敵が少なく、炎が邪魔しない場所を選んで突破する事にした。問題は、囲みの切れ目が小さい事。
 後、三人同時に通る事が出来ないのと、切れ目が二カ所だけで、その上場所がやや離れている事だろうか。
「あまり分かれないほうが良いんだけれど。仕方ないわね、あっちはカリンちゃんが通って。シャイスは」
「カリン様は私が〜」
 多分お守りしますがうしろの方に付くんだろうけど、絶対守られていないので無視する。
 歩こうとして不本意ながら足を止めた。
 ……重い。私の上着の袖を溺れる者のような縋りっぷりで鷲掴んで微動だにしない。
「腕を掴まれてますので私が連れて行きます」
「良いのよそんなの、シャイスだって腕の一本位折っても死にはしないから。カリンちゃんが危なくなるから連れて行くわ」
「い、いえ。流石に折るのはちょっと」
 本気の目をしたアニスさんを抑える。笑っているが怒って居る、絶対に! シャイスさんの腕を折る気だ。
 一方シャイスさんと言えば、私の腕を放す気はないらしい。恐怖か覚悟か掴む力がますます強くなっている。
 痛い。ちょっと痛いですシャイスさん。服ではなく腕ですそこは。
「シャイスさんと一緒に行きます。うずくまってないで立って下さい。私は成人男性を持ち上げる力は無いですから」
 馬車内で潰された記憶が蘇る。せめて引きずる事は出来ないだろうか。
「しょうがないわねぇ。シャイス、余計なコトしないのよ?」
 優雅とも言える動きで身を翻し、アニスさんが去った。よし、私も行かなくちゃ。
「きついかも知れませんが走りますよ。死にたくないのなら」
「カリン様。それ脅迫」
 何か泣き言を言っているが聞かない振りをした。シャイスさんも疲れているだろうが、私の足もそろそろ限界だ。
 走ったり、逃げたり、避けたり、蹴ったりと酷使しすぎた。
 ぜいぜいと肺から漏れる息が我ながら苦しそうである。
「うぅ」
 走り続けで目の前がぼうっとする。でも頑張らなければ殺られる。
「カリン様……大丈夫ですか。少し休んだ方が」
 私の様子に気が付いたらしいシャイスさんが心配そうに顔を伺ってくる。
「こんなトコで、休んだら、即座に死にます」
 言いながらも脱力しそうになる。もうシャイスさんに追いつかれる程体力が落ちてしまった自分が情けない。
 あとちょっと。あと少しで囲みを破れる。
 限界、と思いながらも足を進め薄く口を開いた炎の切れ目に飛び込んだ。
 軽く炎がなぶったが、それ以上はなく。熱さも感じなかった。
 ……で、出れた。 
 安堵感でへたり込む。地面に槍の残骸とかあるが、もう知らない。
 振り向けば炎がまだ揺らめいて、煙幕代わりになってくれていた。
「ええ。あの本当に大丈夫ですか」
 話しかけないで欲しい。過呼吸で息が上手くできない。
「げほっごほっ」
 告げようとした言葉まで咳に変わる。
 目眩がする。これは、しばらく落ち着くまで待たないとろくに話も出来ない。
 一分も掛からないかも知れないが、体力が少し戻ったら移動して休めるところ、探そう。
 見つかったら、終わりだから。
 くらくらする視界を頭を振って定める。滲む黒と、やけに光る人影。ぞ、と寒気がした。
 見つ、かった。逃げよう、彼を連れて。足に力を込めて立ち上がろうにも、ガクガクと震えて動かない。
 限界、だ。
「カリン様。立ち上がったらダメです。足が動かないのでしたら私の肩を貸しますから」
 彼はまだ気が付いていない。相手がジワジワと近寄るのは、私が動けないと知っての事だろう。
 この世界に来て、絶対言いたくなかった台詞を言わなくてはいけないか。溜息を飲み込む。
「シャ、イスさん」
「はい」
「先に、逃げてて貰えますか。私、動けないので」
 見捨てろ、と言えば彼は動かなくなる。
「少し休んだらすぐに行きます。だからあっちの方に行ってて下さい」
 魔物が居る反対方向を示す。
「でもカリン様。私はあなたの側にいるって決めて居るんですよ」
 ああもう、普段は気が弱いのに、妙なところで頑固者だ。
「じゃあ。私と一緒に死んでくれるんですか」
 足は上手く動かない、思考も朦朧としている。手段も策も尽きた。
「え、あ。その覚悟できましたから!」
「シャイスさんのおひとよし。甲斐性無し。大馬鹿者ー」
 決意を滲ませた灰色の瞳に、私は心底泣きたくなった。
 人が決死の覚悟で聞いたのに返事はそれですか。普通の人間の為に一緒に死ぬ覚悟を持つなんて、真性のお人好しだ。
「分かりました。一緒に死んで下さい」
 泣きたいけれど、涙を飲み込んで地面を手探りで探る。ただではやられない。 
「い、一緒に死んでってなんでまた」
 そこでようやく鈍い彼も気が付いたらしい。枝を踏むように折れた槍を踏みしだきながら進む何かに。
「見捨てて逃げるなんて、言う気はもう無いですよ」
「当たり前です! わ、分かりました。じゃあ私が盾になりますのでそのうちに」
 頬を膨らませて怒るのが子供のようだ。
「残念ながら足が使い物になりません」
 気持ちはありがたいけれど、立つのはともかく走るのは無理だ。
「どうするんですか」
「せめて一矢報います」
 折れた槍を集め、何とかよろめきながら立つ。
 マナに言われた通り、私は私のやり方で。全力で、生きればいい。
 黙って殺されるくらいなら相手に痕を刻んで散ってやる。
「カリン様死ぬ気ですか!?」
「死にたくはないですけれど。生き残る術が見つからないので」
 だから、徹底的に抵抗する。綺麗じゃない死に方大歓迎。黙って殺されるのが綺麗なら、私は醜い死体で良い。
 私の覚悟を感じてか、シャイスさんが息をのむ。でも、逃げる事はしない。逃げればいいのに。
 懐に仕舞ってある武器が効かないのは分かっている。砕かれた槍の先端だけ集めて、持てるだけ左手に握る。
 ざく、音が近寄る。ばきんと枝が折れるような音が近くで聞こえた。
 身体が上手く動かない。何とか体勢を整えている状態で、猫背みたいになっていて、多分お世辞にも強そうには見えない格好で私は相手を見据えた。
 心臓は静かに跳ねている。妙に辺りが静かに聞こえる。死の境地と言われればそうなんだろう。
 そうなっても、私は強くはなれず。相手が近寄る感覚が強くなり、呼吸の音が五月蠅い程に響くだけ。邪魔なノイズ。
 来たのは一匹。対峙して初めてゆっくりと魔物を見る事が出来た。二本足で歩き、五本の指を持つ。人のような生き物。
 身体は青銅色の鱗に覆われ、太い尻尾が地面すれすれで揺れる。簡単に言えば歩く、蜥蜴人間。
 違和感があるとすれば、五本の指には水かきのような物が付いていて、黒光りする凶悪なかぎ爪を持っているくらいか。
 ごくりと唾を飲み込んで、手元にあった槍の穂先を数本投げつけた。固い音が響いてそれらが弾かれる。
 相手は何もしていない。分かっていた事だが改めて気分が重くなる。何度投げても結果は同じ。パラパラと鋭い切っ先が地面に散る。
 幾度か遠目で見ていたからこうなるのは分かっていた。人間の兵士が投げつけた太い槍が相手の身体を貫通せず、折れて落ち。 
 殺された兵士の槍を拾い、逆にこの魔物達が使用するのだ。武装した兵士でも紙のように切り裂かれる。
 認めたくはないが、そうなるのは時間の問題だった。
「……カリン様無駄ですよ。止めましょう!」
「嫌です。せめて、せめて傷の一つでもッ」
 ムキになって投げ続ける私をシャイスさんが止めようとする。なんで、どうして、一筋の傷も付かない。
 力を込めて投げても、同じ。
 もう相手は間近にいて、気が付けば正面から切っ先を振り下ろし続けていた。
 指が痺れる。金属が軋むような嫌な音。
 なのに、傷は付かない。魔物は面白がるように私を見ている。いつの間にか、ぽたぽたと涙が落ちていた。
 渾身の力を込めて振り下ろす。ぎし、と鈍い音を立てて刀身が砕けた。金属の破片が掌から零れる。
「なんで、なんで、私は」
 ――こんなに力がないのだろう。 
 ゆっくりと掲げられる爪を見て唇を噛んだ。刃こぼれした槍の穂先と、傷一つ無い刃が同時に魔物の足に踏みしだかれ、砕け散る。
 それが酷く滑稽に見えて、呆然と立ちつくす。目の前は、白か黒かさえ分からなかった。
 『カリン様危ない』
 何度も聞いた台詞と共に、シャイスさんが私の前に割って入ろうとするのを、静かな気持ちで突き飛ばした。
 今彼が割って入れば、多分同時に切り裂かれる。それくらい魔物の刃は鋭い。
 悔しいけど勝てない。振り下ろされようとする爪を見てまた涙がにじむ。 
 私の命はあと三秒くらいか。
 三、二、一。
 肉と骨を砕き、裂く嫌な音がした。ほら、もう死んだ。思ったよりは痛くない。
 余程綺麗に貫かれたのか、血が滴る音もしない。
 どくどくと心臓が跳ねる音まで聞こえる。
 心臓が、跳ねる、音?
 恐る恐る顔を上げる。前が暗い。さっきと同じように魔物が私の頭上に爪を掲げて居た。
 ……違う。爪を掲げている魔物が氷付けになったように動かない。
「私。生きてます?」
 声に出したことでソレが現実味を帯びる。何で魔物は止まって居るんだろう。
 さっき貫かれたはずなのに。貫かれたと思った胸を触る。
「あれ」
 思わず疑問の溜息が漏れる。傷の一つも付いてない。
 絶対何かが刺さった音だったのに。平凡な私の脳みそを出来る限りフル回転させる。
 なら、別の何かに刺さった? 魔物はまだ動かない。
 ゆっくり魔物の姿を捉える。恐怖の残っていた視界では捉えられなかったものが見えた。
 煌めく鱗、五本の指。親指程の長さの角。先程まで獲物をいたぶる楽しみに光る双眸は、虚ろで。生気を感じない。
 全貌を見、違和感を感じた。何かがおかしい。
 角。つの。
 反射的に額を凝視した。鈍く光る銀。つのじゃない! 
「カリン様。お怪我は……」
 額の後ろ。そうだ、後頭部から何か、ナイフみたいなのが貫通してるんだ。
 心配するシャイスさんの声を遠くに聞きながら、へたり込む。
 動けない上に、驚いて腰が抜けた。
 ぞぐっ、と嫌な音が響いて魔物の身体が大きく反り返る。生きていた、と息をのんだのはほんの数秒。
 魔物の喉からもう一本、角にも見える刃が顔を覗かせていた。
「殺そうとしたな」
 低いうめきで我に返る。
 初めはその台詞が誰のものかが分からないくらい、感情を感じさせない声だった。 
「マイ、ン?」
 掛けようとした言葉は、喉が枯れて上手く出せない。
 片手に三本程の細いナイフを持ち、私の方を見つめるマインは。まるで狼のような目をしていた。
「今殺そうとした。お前カリン殺そうとしたーーっ」
 鈍い音がして骸となった敵の身体から刃が生えた。遠くから投げ放たれた短剣が心臓、腹を貫いていく。
 そ、そこまでしなくても良いんじゃないだろうか。放っておくと剣山になりそうな勢いでもある。
「カリン殺したらダメーーー! 殺そうとする奴ナイフで全部頭蓋骨から眼窩までぶち抜いて心臓えぐり取るからね!」
 た、助けて貰ったけど。マイン怖い。
「マイン様って過激なんですね」
 過激というレベルなのだろうか。
「間に合わなかったけど、助かったみたいで良かったわ」
「助かったは助かりましたけど。マインが」
 何かマインが怖くなっている。
「あらあら。マインちゃん怒ってるわね。でもカリンちゃんに手を出すのが悪いわね。ふふ」
 困ったわね、と言いたげなアニスさんの目も笑っていない。
「アニスさん。何する気だったんですか」
 呟いた私に、アニスさんはにこと微笑みかけ。
 纏うオーラよりも笑顔に恐怖を覚え、余計にその答えが聞けなくなった。
「良かった生きてた! 大丈夫!?」
 小走りで駆け寄ってきたのはマインで。いつものマインで。
 思わずマントを掴んで握りしめ。普段なら嫌がる抱きつきを逃げずに受け入れた。
「へ。あのカリン? 気持ち悪くなった?」
「……ありがとう、ございます」
 もう泣かないと決めているのに、怖い時泣きたくなる。悔しい時も。そして感謝にも。
 見せたくないのもあって、顔をぐいっと押し付けた。
「う、うん。あのね、カリン僕子供じゃないからぎゅっとしても嬉しくないんだよ」
 うー、と拗ねた声が聞こえて私を引っぺがそうとする。
 力を込めてそれに抵抗した。
 何かアニスさんの子供扱いと間違われているらしい。ただ、私は。
「怖、かっ、た。です」
 死を覚悟して。飲み込んだ恐怖。それらが今になって押し寄せる。
 マインが引きはがそうとしていた手を止める。ボタボタ流れる涙と共に、しゃっくりが出そうになる。
「叩いても、斬っても。全然効かなくて。死ぬ前に傷つけたかったのにそれも無理で」
「うん。助けるのが遅くなってゴメン――」
 そこで、マインの言葉の上に声をのせる。
「何も出来ない自分が、凄く。悔しかったです」
 怖いのもあった。けれどやっぱり一番感じたのは悔しさだった。
 頑張っても、傷つけられない自分。魔法も扱えない自分。
「カリンちゃんは頑張ったわよ」
 優しくアニスさんが頭を撫でてくれて、ようやく落ち着く。う、マインの服がグシャグシャだ。
「泣くなみっともない。立て、もう戦いはこれで終わりだ。結果が全てだ」
 剣の血を振り払い、アベルが告げる。
「アベル兄が、死んでなければそれで良いって言ってるよ」
「どういう解釈すればそうなる」
 マインの説明に憮然とした声が響く。
「……私もそう聞こえました」
 ぼんやりした頭でそのやり取りを聞いて、私は涙を拭って小さく笑った。 

 
 帰還中の馬車の中、「カリンは無力じゃないよ」という力強い言葉と共に、
「カリンの攻撃って凄いモンね。アレは当たりたくないよ〜」
 と、嬉しいんだか悲しいんだか分からない感想を貰った。




 黒い法衣に似合わない、穏やかな微笑みを浮かべ。フレイさんがそっとカップに琥珀色の液体を注ぎ入れる。
 うわあ、良い香り。
「どうぞカリン様。疲れが取れるようにブレンドしておきました。お口に合うと良いのですが」
 湯気の立つ紅茶(のような飲みもの)に口を付け掛けて途中で止める。火傷するかも知れない。
 ふーっと息を何度か吹きかけて口の中に含み、飲み下す。
 芯まで凍える身体に、暖かなお茶が染み渡る。う〜ん、美味しい。
「あの、カリン様。それでしたら私がお淹れします。何時も私がやっていますし」
 新しい法衣に着替えたシャイスさんが擦り傷に絆創膏を貼りながら何処か詰まらなさそうに呟く。
 この世界では薬も貴重品なので、私が持ってきた医療品(包帯や絆創膏)を使っている。
「良いんですよ。シャイスさん忙しいですから」
 カップを置いて、おでこのかすり傷に絆創膏を一つ追加してあげた。
 どうやったら顔面から転ぶ事が出来るのか。しかも槍の残骸だらけでかすり傷だけとはもはや奇跡。
「そうですね。シャイスは忙しいですから」
 フレイさんが楽しそうにシャイスさんのほっぺたに絆創膏を貼り付けた。ビンタの勢いで。
 あ、シャイスさんが半泣きになっている。思わず笑いかけて飲みものと共に声を飲み込んだ。
「いえ、そんな。仕事がつまっている訳でもないのにそこまで気を回して頂かなくても。
 カリン様も帰ったばかりでお疲れでしょうし」
 頬をさすり、答えてくる。
 やはり自覚症状がないらしい。平静を装ってお茶を飲むのも結構大変なのに。
「いえ、今から忙しくなるんですよ」
 そう、彼は今から忙しくなる。例えばこの世界の死神さんのように。
「そうですね。ですから、カリン様はこちらに任せて頑張って下さい」
 事情と場の空気を察しているフレイさんはもう準備万端だ。
「え。あの、どういう、意味ですか」
 当事者だが、全然察すことなく、首を傾けるシャイスさん。
 答えの代わりに、しゅる、と音を立て。彼の胴体に鞭が巻き付いた。
「ひえっ、な、な、な」
 瞬時に地獄に引き寄せられて彼の顔が蒼くなる。
「こういう意味よ。覚悟は良いわねシャイス」 
 先程の戦地での反省を含めた会議という名の勇者候補が詰める地獄の中心で、アニスさんが微笑んだ。
「本当の足手まといというものを良く味合わせて貰えた。お前が真の足手まといだ」
 アベルが小さく呟いて目を細めた。足手まといというのは撤回して貰えるらしい。シャイスさん以下だったら私は泣く。
「そうだな。私も判断を誤ったようだ。戦場に連れて行くべきではなかった」
 プラチナの瞳が冷たく輝く。
「え、そ。それはその……カリン様をもう連れて行かないという事で」
 のほほんと、まだ一人平和に浸っていたシャイスさんが曖昧な笑顔を浮かべる。
「シャイス〜。ほんっっっとうに自覚無しだね。もう、シャイスのせいで一杯危ない目にあったんだから、お仕置きしないと気が済まないよ。僕」
「いえ、あの、マイン様」
 ぷうっと頬を膨らませて怒る幼い勇者候補にシャイスさんも多少事態を重くみたのか、慌てだす。
「そうねぇ。どういうお仕置きが良いかしら」
 アニスさんの手には鞭が握られたままで、唇の端を上げる。その様はまさに獲物を締め上げた蛇。
「カ、カリン様ーーー!!」
 泣き声をBGMにお茶を一口。暖かい。
「シャイスさん。私ちゃんと言いましたよ。シャイスさんをどうこうするのはまたあとでって」
 どうこうとは、まあ暴力表現が多々含まれるので言うのは止めておく。
「そんな!?」
「でもしばらくは勘弁して上げます」
 脅えるシャイスさんににっこり微笑んで見せた。なにしろしばらくは無理なのだろうし。
「カリン様……」
「私、最後に回されるでしょうから。それまで気絶しないで下さいね」
 勘違いして瞳を潤ませている彼に、もう一度笑みを返した。恐らく邪悪な方面の笑みを。
「えっ」
 気のせいかシャイスさんの驚きの声が酷く遠くに聞こえた。
「無理でしょうけどねぇ」
 くすくす笑うフレイさん。この人本当に良い性格をしている。
 恐らく攻撃範囲になりにくい場所でお茶の準備をしているのを見た時は呆れた。
「でも一発殴りたいのは確かです」
 最後の一度はともかく、何度死にかけた事か。
「お、落ち着いて下さい」
 また何か聞こえる気がするがとことん無視。あれは音楽だ。クラシックBGM。
「ふう。でも美味しいですね。荒んだ心が多少癒やされます」
 びし、と高い鞭の音が聞こえて。クラシックは高音域に入った。
「それは良かった。お役に立てて何よりです」
 叩きたいけど、まあ無理だろうなぁ。
 輪の中にアベルが居る事を思い出して溜息を吐いた。
 二杯目のお茶を注いで貰った辺りで、クラシックのようだったBGMが一気にハードロックと化したのは言うまでもない。


 

 

 

 

 

 

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