八章/選択肢というもの

 

 

 

  


 小柄な身体が跳躍し、猫のようなしなやかさで身体をしならせ鋭く腕を振り下ろす。
「カリン隙ありっ!」
 がぎんっ、とすさまじい音が空気を震わせた。腕が折れそうな衝撃に身体も揺れる。
「うあ、ちょ、マイン力強」
 過ぎ、と言おうとした言葉は吹き飛ばされた武器の風切り音にかき消された。衝撃で後方に倒れ込み「むぎゃ」と情けない声を上げる私。
「あ、ははー。ゴメンやりすぎた」
 地に落ちた亀裂の入った元私の武器を見つめてマインが首を傾ける。
 加減はしてくれているらしいけど、たまにこういう事が起こる。本人が悪気もないので始末に負えない。
 座り込んだ私を引っ張り起こし、困ったような顔が一転ふくれっ面になる。
「でも動きが鈍いよ。カリン向こうに帰ってサボってた?」
「そ、そんなこと無いですよ! 出来る限り訓練しましたよ。買い物とかで時間あんまり取れなかったけど」
 慌てて首を振って否定する。しかし、昼間にあんな修行なんて出来るハズもなく、朝方しかしてなかったからこっちで言うところの軽い訓練しかできなかったんだけれど。
 一週間も間が空くとそれなりに動きが鈍るらしい。こっちの一日は私の世界で三分。でも送還されて一週間してもこちらの世界と時間は余り変わらない。
 マインとの一週間ぶりの稽古となる。シャイスさんとフレイさんが召還の陣を弄くって(フレイさん曰くだまくらかして)時間を調整してくれているらしい。私の世界に居る時間とこちらの世界が同じになるように。
 ……そんなに簡単なのかな。どちらも元凶で手を尽くしてくれる理由だって分かる。シャイスさんはともかくフレイさんはどうも……苦手意識だけで怪しむのは良くないのは分かっているけれど。なんとなく胸の内がもやつく。
 濃霧のような不快感をマインの明るい一言が吹き散らす。
「あ、そうか。カリン調味料とかありがとね! おかげで美味しい物が食べられて甘い物が食べられるよ〜」
 幼げな顔をほころばせ、とろけそうな笑顔を向ける。うう、可愛い。あの万力さえ見ていなければ天使だと思える。
「塩と胡椒があるだけで大分食事の味が変わりましたよね。戦いには役に立てないので、こんな時は役に立っておかないと私の面目が保たれませんし」
 特に敵視されてる人には多少の牽制になるだろう。そう考えたい。
「大丈夫だよ。この調子なら逃げるのには支障ないくらいだし。カリンが帰ってきたのも、美味しいものが食べられるのも嬉しいから」
「はあ」
「ようし。美味しいモノ食べて元気でたし、カワイイ弟子の為、みっちり教え込んであげるね」
 私より数段愛らしい微笑みで、体術の師匠はそう告げてきた。
 夜中近くまで頑張るぞーと子供らしく元気に拳を掲げる姿は和む。
 きっと彼は本気だろう。師匠、優しいんだか厳しいんだか分かりません。
 元の世界から帰還して数日も経たぬ内、私はまた地獄のスパルタを受けるはめとなった。



 人間の限界というモノは勇者候補にとっては些細な壁らしい。
 いや、あの人達おかしい。絶対おかしい。生物的にと言うよりもうある意味生命の神秘。
 徹夜明けに明るい笑顔で挨拶した後素振り五百本と腹筋三百回とか。夜中近くまで武術訓練の後に走り回って「ごはんごはーん」とかどうなんですか。
 静かな廊下を歩みつつ、本当に夜中まで訓練され、摩耗しまくった脳みそで勇者候補と自分の違いについて延々と愚痴ってみる。
 あれでも勇者じゃないなんてこの世は無常だ。非情だ。ていうか既に身体能力異常ですからもうさっさと勇者決めて下さい。
 ――ホントに。何でまだ勇者は選ばれないのだろう。
 せめて、選ばれてしまえば。異世界から召還される不幸な人は出てこない。
 なのに、この長き戦争は。書物に連なる時間から見ても永劫とも思える程の時の中まだ勇者を見つけられないで居る。
 勇者が選ばれればきっと勇者は不幸になる。候補者より重い肩書きと期待によって。だけどそれでも私は願うのだ。もうこれ以上候補者なんて作らないで欲しいと。
 端から見ればこれもかなり身勝手なんだろう。
 戦争なんて終わればいいのに。魔物が悪いなんて、分からないのに。話をすることが出来れば何かが変わるかも知れないのに。何か、聞けるかも知れないのに。
 私は魔物と対峙する勇者候補にならなくちゃいけない。召還された間だけでも。
 どちらにしろ、魔物の言葉はまだ分からないんだ。あれこれ考えても仕方がない。
 はあ、陰鬱な溜め息を吐き出す。
 遠くの方にあるバルコニーから月の光が漏れているのが見えた。
 辺りを見回す。シャイスさんもフレイさんもマインもプラチナもアニスさんも居ない。
 そう言えばマインとアニスさんでお茶を飲むとか言ってたなぁ、訓練中聞いた言葉を思い出す。
 後の人は私室か仕事でもやっているんだろう。
 誰も居ないのを確認して足音を忍ばせバルコニーに近寄る。
 一応召還当日窓辺にも寄るなと言われたのだけど、バルコニーに少し近寄って新鮮な空気を吸うくらいは許されるはずだ。
 心情的に。
 月の浮かぶ闇にほのかに輝く星の光の元、輝虫が廊下を舞い踊る。少し離れた場所からでも見えた幻想的な風景に一瞬見とれる。
『ん? 輝虫、か。めずらしいな』
 鼓膜に滑り込んできた声にぎくりと身体が強張るのを感じた。
 聞き覚えがある。
『城の側に来る訳がないはずだが。誰か居るのか』
 甲高くはなく、低くもない。私と同年代の男の子より少し高めだけど、冷たく澄んで落ち着いた声音。
 アベルだ。紛う事なきアベルの声だ。
 隠れる場所、隠れる場所はない!? 慌てて辺りを見回す。
 ババッと左右を確認する。テーブルの足下を覆うくらいに垂れた、薄闇にぼんやりと浮き上がる白いテーブルクロス。
 ここだ!
 出来る限り素早く振動を立てずに広いとは言えない空間に転がり込んだ。
 かつ、ん。バルコニーから歩み出てきたらしい硬い響きに身がすくむ。
 鐘のように大きな、心臓が脈打つ音が聞こえる。そして数度息を吐いて。
 ……ちょっと待った私。何で隠れてるの!?
 自分のよく分からない行動に心の中で突っ込みを入れた。和解というか多少仲良くしようとか思っていたのに何故隠れて居るんだ私。
 とはいえ今更顔を覗かせば物陰に潜んでいることに気が付かれ、もの凄く気まずいというか、今より大幅に関係が悪くなる可能性がある。
 息を詰め、そっと出来る限り机と同化するように努める。私は机、音梨果林、あなたは机。そう机なんだから。静かに、ひっそりと佇む。それが私。
「人の気配がする。候補者の気配ではない、な。まだ、使用人でも残っていたか」
暗示をかけ続ける私の気持ちを知らずにアベルらしき声が不審そうに呟くのが聞こえた。そんなにあからさまに気配がだだ漏れだったのかと少し落ち込む。
 カチン。微かな金属音に身体が震える。
「――嫌な夜だ」
 そっと布の隙間からのぞき見る。輝虫が時折照らし出す彼の目はいつものように冷たく、声だけが愁いを帯びていた。
 翡翠色の瞳は手元に注がれている。円形で銀色のペンダントのようだった。銀の鎖がユラリと揺れる。
「長い、な」
 響いた音で閉じたのだと分かった。
 ――ロケット?
 人を寄せ付けないアベルが持っているのが、何となく意外な気がした。
「獣の声、人の声。悲鳴しか聞こえない。誰が喜んでる。勇者候補なんてまっぴらだ」
 不快そうにこめかみに指を当て、吐き捨てるとバルコニーを振り返り、足早に自分の部屋だろう方向へ消えていった。
 完全に音が消え、静寂と輝虫が辺りを時折照らすだけだという事を確認して小さなテーブルから這い出した。
「戦場……酷い所なんだろうな」
 アベルが吐き捨てた台詞が耳奥に残っている。悲鳴、喜びのない声達。彼は常にそこにいる。
 指先に暖かなものが触れる。
 輝虫だ。数匹の輝く光は私を取り巻き暗い廊下で舞い踊る。綺麗だけど、さみしい。
 悲しむ人の慰めになるだろうこの小さな光達は、負の感情を嫌うから。
 ふと、輝虫とは違う冷たい輝きに視線を向ける。紅い絨毯に銀の鎖が横たわって、まるで初めから飾られていたかのようだった。
「アベルのロケット?」
 掌におさまる銀のロケットをそっと指先でつまみ上げる。絨毯の上に落ちたせいで音がかき消されて気が付かなかったのか。
「……明日返そう」
 話す良い切っ掛けになるかも知れない。そうでなくても、きっと大切な物なんだろう。ずっと見ていたことからその位は察せる。
 上品な銀が月夜に照らされているがそれは少し曇っていた。落ちた拍子にだろう。薄く埃が付いている。
 大切だろう品が汚れているのは何だか放っておけなくて、拭う物を探す。
 ええっと。ハンカチハンカチ。……は、自室の中。一日の大半訓練が大幅をしめる私はこの世界では汚れることが日常茶飯事、泥だらけになった服や髪はハンカチなんて汚す為にしか存在しないようなものだった。
 幸か不幸かまたもや泥まみれになったせいで服を着替えて衣類は清潔そのものである。
 放っておくよりは良い、よね。
 出来る限り材質の柔らかい羽織っていたミルク色の貫頭衣のゆったりとした袖口を右腕を引っ込めることで引き伸ばす。
 おばけのものまねーって小さい頃ちょっとやったなぁ。左手で楕円系のロケットをそっと握り、静かに磨いていく。
 うん、やっぱりこういう大切そうな品は綺麗にしなくちゃ。それに、埃を拭うと銀が月光と輝虫に照らされてとても素敵。
 月光もだけどバルコニーから進入し、側に寄り集まった輝虫の群れが手元を照らしてくれているおかげで磨きやすい。ランプ要らず。
 魔法の使えない私にはとてもありがたい光源だ。
「やっぱり継ぎ目は汚れやすいのかな」
 開閉することが多いせいか薄い埃の線がちょっとだけ目立っている。
 こうなれば徹底的に磨いてしまおうと頑固な汚れが気になる側面も磨こうとして少し力を込める。
 カチ。硬質な音がして左手におさまっていたロケットが熱湯に放り込まれた貝のように弾けた。
「ッ!」
 指先に感じる微かな振動に辛うじてあげかけた悲鳴を飲み下し、息を吐き出す。
 お、驚いた。
 開閉部分を強く押したせいで閉まっていたロケットが開いてしまったらしい。
 ああ、見るつもり無かったのに。彼の事情に深入りする気なんて全くないから見なかったことにして早く閉めよう。
 溜息をついてゆっくり閉じようと蓋に指をかけようとし、私は止まった。掠めた視線が銀の髪を捉える。
 たおやかに微笑む銀髪の美しい女性は腕に小さな赤ちゃんを抱きかかえ、幸せそうな顔をしていた。
 まるで聖母のよう。周りに居る彼女の子供らしき年の近そうな少年少女。そして平凡な父親らしき男性。
 幸せな家族が小さなペンダントの中で肩を寄せ合っていた。
 どう、しよう。
 私はパンドラの箱を開いてしまった気がした。見てはならない物を見てしまった。一瞬そんなことを考える。
 赤ん坊を含めて子供は六人。その長男らしき人物を私は知っている。
 心の中で確信してしまう。これはあの人なのだと。
 この瞳の色と髪、利発そうな顔立ち。でも、雰囲気が全く違う。
 今感じている彼とは全くの別人に思える程、楽しそうにその絵の中で瑠璃色の瞳の銀髪の少年は微笑んでいた。
 面立ちだけアベルと酷似している、全くの他人だと言われてもおかしくないくらい。印象が違う。
 全然、違うのに。私はどうしてもその少年がアベルだとしか思えなかった。
 静かに左手の指先を動かして、蓋をゆっくりと閉める。
 知らず知らずのうちに唇をきつく噛んでいたことに気が付いて息を漏らす。
 このロケットの中身の意味は考えないようにして、明日。彼に返してあげよう。
 見てしまったけど。忘れてしまおう。その方が良い。
 これはきっと、私が持っている写真と同じように、もしかしたらそれよりも、とても大切な物なんだから。
 ペンダントを懐に仕舞い、薄暗い闇の中、バルコニーに出る気も起きず私は自分の部屋にそっと引き返した。

 ――この時すぐに返しておけば、歪みかけた私の歯車が勢いよく回り出すなんてことはなかった。人生に分岐点があるとすればまさにこの時のことだったんだろう。


 

 

 

 

 

 

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