七章/いつもの違う日常

 

 

 

  

 まだ少し冷たい風が頬を撫でた。だけど、向こうの世界よりも暖かい。暑いほどだ。
折り曲げた膝に顎を付けたまま眼下に広がる風景を見る。暗緑色の編み目のフェンス、綺麗に整地されたグラウンド。
 緑が僅かに見える灰色が敷き詰められた町並み。
 つま先の下にある、重い鉄製の扉がゆっくりと躊躇いがちに開かれた。
「カーリンちゃーん。って居るわけ無いか、こんなトコ」
 脇にファイルを挟んだ彼女は、自分に言い聞かせるように小さく笑い。頷いた。
 私の掌に力が軽く掛かったせいか、壁の欠片が足下に落下する。
「って、居たよ」
 微かな音がしたのだろう、彼女が空を見上げて、呻く。目があった。
「あぁ。マナ」
 笑顔を返そうと思ったけど、上手く笑えなくて曖昧な表情になったのが自分でも分かる。
 前の私なら、絶対に上ることすらしないだろう所に私は居た。 
 コンクリートで出来た屋根の上。隣には貯水タンクがある。
 細身の梯子を軋ませて、親友が上ってくるのが見えた。
「あのさ、カリン。あんた何かあった。日曜」
 すたん、と固い足音を立てて着地する。ぎしんと梯子が大きくしなり、赤茶色の粉が舞い落ちる。手の平に付いた錆を払いながら、マナは眉を寄せた。
「…………」
 私は答えない。ただ、折り曲げた膝に視線を落とす。肌とスカートの裾を緩く風が撫でていく。少しだけ、彼女は躊躇って息をのんだ後、口を開く。
「変だよ最近。それに、賀上君を避けてるって聞いたしさ。噂だけど」
 噂じゃなくてそれは真実。私は、逃げるようにあの日から彼と接触しないように心がけていた。合わせる顔がないのも事実。だけどホントは会いたい。
 会いたい。でも、帰る前に聞いたシャイスさんの言葉が耳にこびりついていて、安易に彼、マナにさえ近寄ることが出来ないで居た。
『時間は出来る限り引き伸ばします、ですけど、こんな状況ですし。
 どれ位かは分かりませんが、呼び出す時間や日がずれる可能性もあります』
 告げられた台詞。時間軸がずれてしまったあちらとこの世界では、僅かな歪みがひどいズレを引き起こす。もしかしたら明日か、今か。あの戦場に引き込まれる可能性だってある。
 それに、もし彼の前で消えてしまったら。もしマナの側で消えてしまったら。
 不安はつきなくて、留まるところを知らない。
 いつ来るか分からない召還。それはタイムリミットの分からない時限爆弾。
 恐怖に駆られ、私は出来る限り一人で居るようにしていた。
 マナと喋って笑って、ふざけあっていた日々を思えば現実離れした事だ。嘘だって、思いたいのに。広大な誇大妄想ああ私の馬鹿なドリームワールドでした、って。気のせいだって、したかったのに。
 薄汚れた服やバッグと無くなったお弁当の中身は、夢でないと告げている。
 確認したとき。怖くて、しばらく震えが収まらなかった。布団を被って恐怖が過ぎるまで目を瞑っていた。 
 今だって泣きたいのに、横にいる親友に曖昧な微笑みを向けるあまのじゃくな自分。
 なんてイジッパリなのか、そして、どうして笑顔を捨てられないんだろう。
 泣いて喚いて駄々をこねて全部全部投げ出したいのに。
 投げ、出してるかな。逃げてる時点で。 
 あの人と会わない時点で。きっと、私は逃避してる。
 ――いくじなし。
「んー。これも聞いたんだけど。怪我して中止になったの」
 気遣うような。きっと気遣われて居るんだろう柔らかな問いに、小さく頷く。
 嘘ではない。
 足、捻ったのは本当だから。
「そっか。そりゃ残念だったけどさ、その位で怒らないって。心広そうだし。
 アタックあるのみ!」
 拳を握るマナ。重い溜息が私の口から漏れた。
「あいたくない」 
 抱えた膝に唇をうずめる。マナが渋い顔になったのが分かる。
「……確かにカリンは後ろ向きだったけど、何よ。ホント何事よ。
 雨の日に猛スピードバックでスピンし掛けた車みたいな後ろ向き加減は」
 なんだかよく分からないたとえだが、うじうじするなと言いたいらしい。
 布地が呼吸を邪魔して息苦しい。少しだけ顔を上げた。
 マナは躊躇い気味に何度か私と地面を見比べ。
「賀上君のこと、嫌いになった」
 座り込むと、ぽつりと零す。
「ううん」
 首を軽く横に振る。そんなはずない。
 嫌われたとしても、私が嫌いになるわけがない。こんなにも。 
「じゃ、まだ好き?」
 心の内を見透かしたみたいに、マナが顔をのぞき込んでくる。瞳に踊る光は太陽よりも明るく、生命力にあふれてる。
 しばらく私は彼女の目を眺めて、こくん、と頷いた。
「別の人でも好きになったとか」
 首を振るとぱっとマナの顔が明るくなる。そして、すぐさま頬を膨らませて腕を振り回す。
「で、どうして躊躇うのよ〜。こないだはすっごい張り切ってたのに!」
 彼女にとっては数日前だけど、私にとっては一ヶ月以上前の話。
「あのね、カリン。前も言ったよね。カリンのカリンらしいやり方でカリンのやりたいように後悔しないようにすればいいって。続きあるんだ、あれ」
「続き?」
 ぼんやりと尋ねた私の台詞は解けそうなほど弱かった。マナは大きく頷いて。
「そ。確かにあたしはいいかげんで適当な理由で人好きになるの。あんね、実はさ。
 マジになっちゃうこともあるワケよ。ほら。追いかけてく内に好きになると言うか。
 仮想恋愛というか思いこみが本物になるっつーか。ああどう言うかな」
「…………」
 親友の言いたい事が上手く飲み込めず、口の中に僅かに含んだ空気を転がす。顔に出ていたのだろう、マナはグリグリと自分のこめかみに指を当て、じれったそうに眉をひそめる。
「つまり、あたしもマジ泣きしたり湿っぽくなったりするワケよ。だから言うわよ。
 考えてよカリン。まだ恋愛緊急停止のボタンは押されてないでしょ。
 まだ彼の心という壁は崩れてないのよ。埋まってもないの。
 だから、諦めたら駄目よ。玉砕したら三日三晩。一週間だって付き合ってあげるよ。
 あたしたち、そう言うときの、ための、親友でしょ」
 諦めたら駄目。親友。いつでも付き合って貰える。前向きなマナの台詞に感情が混ざり合って心の中が曖昧になる。不透明すぎる自分の感情が分からなくて、向けた笑顔は中途半端な笑みになった。
「マナ。明日私が死ぬかも知れなくても友達かな」
「な、何言ってるの。当たり前じゃない。つーか何、飛び降りでもするの!?」
 突拍子のない台詞に肩を掴まんばかりに彼女が慌てた。いきなりすぎた。
「え、その。違うけれど。たとえばで」
「いろいろあるっぽいわね。修羅場?」
 修羅場と言えば修羅場で。戦場とは言えば戦場で。
「あ、ううん、うん。ある意味」 
 間違ってはいないが正解でもない答えに端切れ悪く頷いてみせる。
「ふむふむ。で真っ青で深海の雰囲気なのね。前向きに行けばいいじゃない」
 ポジティブに? 獣王族が闊歩していつ死ぬとも知れない異世界で。無理だよ。
 そんな事彼女には打ち明けられない。きっと、信じて貰えない。信じて貰えたとしてもマナには教えたくない。万が一にでも僅かな確率でもこんな変な事態に巻き込むのが嫌だから。だからずっと大好きな人からも執拗に身を避けていた。上手い言葉を探して、異世界召還事故のかわりにマナが一番嫌だと思われる事態を想定して言葉を紡ぐ。
「でも、テスト当日の一時間前に勉強してない位なのに」
「たとえよね」
「うん」
「う。それはツライ。けど物は考えよう。テストだって一時間前にアタリが見つからなかろうが少しは頭に叩き込めば、ゼロは免れる。更に手段を考えなきゃ解答用紙を拝借して丸暗記すればいいの。カリンの置かれてる状況次第」
 マナは一瞬渋い顔になったけど、人差し指を立てて私を見つめてきた。明るい瞳に太陽の光。
「私の状況次第」
 ワタシの状況次第。言われてみるまでそんなこと、考えたこと無かった。
 確かに置かれている。ううん、居た状況は最悪だったけど、役に立てなかった?
 飛ばされていきなり、最悪の状況だったけど。偶然の産物だったけれども。悪魔としか思えない獣王族に私は深手を負わせられた。
 黄色く濡れ光る牙を眺め、床を抉るツメを見。死を覚悟した。
 両手を広げて、薄い太陽光に透かしてみる。赤い、血潮が流れている。
 止まってない。痛みも、暖かさも。
 ごう。透明な腕が鼓膜を撫で、去っていく。グラウンドの土が舞い上げられて、辺りが僅かに黄色く染まる。
 風も感じられる。
 生きている。
 藻掻いて、死にたくないと心底感じて。私を庇い続けるアニスさんを見て。
 何もしないで居るのは嫌だって強く思った。ちっぽけな、貴重なプライドが固い鎖を無理矢理弛めて、私を突き動かした。
 護身術も出来なかったけど。一般人だけど。私は、今も生きている。
 勝ったから。
 そうだよ。勝てた。あの状況下でも勝利できたんだ。
 悩むのはいつでも出来る。次に呼ばれる日がわからないもの、行動するのは今しかできない。
 今しか……ないんだった。
 は、ははは。心の中で乾いた笑いが漏れる。なんて馬鹿なんだろう。こんなに簡単な事を一番初めに気が付くはずの答えから通り過ぎてしゃがみ込んでいたなんて。マナの一言で、肺から空気が漏れると同時、緊張感とか無駄に張りつめていた心が緩む。
 どっと、腕から力が抜け。肩が外れそうな程にだらんと垂れ下がって、靴底がずりずり音を立て、床を擦る。ふにゃふにゃだ。
 あはは。今の今まで凄く悩んでたのに。どうしてこんなにからだが軽いんだろ。 
 重たくて、抜け出したくても重圧で身体が挟まれていたのに。今は凄く心が軽くて、身体が青空ととけ込んで居るみたい。
「カリンが出来ることやって駄目だったら泣きついてきてよ」
 親友の力は偉大だ。今こそ神に、いや。この力強い私の友人、女神様に感謝を捧げよう。
 昨日からずっと恐怖と混乱くわえて絶望で泣き崩れたかったのに。今度は感謝と感動で涙がにじむ。
 うう。マナ。ありがとう。本当にありがとう。
「……うん。そう、だよね」
「カリン。やっと立ち直ったのね。嬉しいわよあたしは!」
「出来る手を使って出来る事を考えて私の出来る範囲で精一杯を、全部じゃなくて出来ること、すればいいんだよね」
「うん。カリンはカリンの範囲がある。全体的に、あたしよかテストの点もカリンが高いしね」
 本当に親身になってくれて嬉しい。テストじゃないけど。
「そう、そうだよ。分かった!」
「え、あ。どしたの」
 晴れやかだ。気分が軽くてくるくる回転する私を呆然とマナが見ている。
 世界が回る。くるくるまわってる。けど、楽しい。もう苦しくなくて、影は私を見て笑っては居なかった。お日様は穏やかな微笑みを辺りにまき散らしている。ぎゅ、と地面を擦って回転を止め、空を見上げた。
 透明で青い、向こうの世界よりも薄い色。私の世界。私の居場所。隣には私の友人もいる。腹はとっくに括り切れていた、と思っていたのは勘違いだったらしい。
 だって今、こんなにも心が晴れやかだ。
「分かった。ありがとうマナ。私頑張る。精一杯生き延びて生き延びて駄目だったら力尽きる。決めた。そうする!」
 うん、決めた。頑張って諦めないで這いつくばって高い崖をよじ登って。でも駄目だったら、最高の微笑みで最後を迎え撃てる。そんな気がする。
「いや、そこまでヘビーに考えてくれなくても」
「後、マナ。さっきのマナの質問取り消し。全部取り消し!」
 雲は晴れ渡って影はない。遠い遠い異世界よりも薄い青空の下、微笑んで見せた。
「賀上君嫌いになったって?」
 親友は私の心の変化に付いていけないできょとんと瞳を瞬く。さっきまではハッキリ紡げなかった言葉だって今なら言えるよ。息を吸って身構えなくても自然と言葉を形を作る。
「私は、彼が好き。うん、大好き」
 意味を持った台詞を噛み締めて、私はもう一度笑って見せた。マナがなんでかちょっとだけ泣きそうな顔になる。
「カリン。あんた……うう、そうと決まったら」
「今は、駄目。まだ駄目なんだ」
 彼女の次の言葉は分かってる「告白」かそれに似たもの。
 だから、うん、駄目なんだ。
「何で。カリン」
「まだ私は他にすることあるから、落ち着くまで保留」
 異世界からの勇者候補としてなんてご大層なものじゃない。ただ、私が生きてあの世界での猶予を全うしたら伸び伸びと彼に気持ちを伝えられる。それがどんな結果になっても。
 生きていたなら満足できるよ。
「……分かったわよ。そんだけキッパリ言われたらあたしも何も言えないわ」
「うん。心配してくれてありがとう」
 苦笑してみせるマナに笑みを返す。理由はもう一つある。今告白なんかしたら心残りが減ってしまって、もしもの時に薄い糸が切れるかもしれない。
 たとえどんなに細くて頼りなくても足がかりは多い方が良い。
「マナにお願いがあるの」
 ちょっと意地悪だけど優しい私の友人に御免ねを言うかわりに私は躰を少しだけかがめ首を傾けた。
「ん? あたしに出来ることなら何でもするよ」
 大きな瞳をぱちりと瞬いて、彼女が言う。
「私。賀上君の、写真が欲しい」
「おー、了解。やっとその気に」
 次の言葉は紡ごうかどうか迷ったけど、結局思い切る事にした。
「難しいコト言うけど、いい?」
「ん、うん」
「ネガごと頂戴」
「なぬ!?」
 ごめんねマナ。難しい事頼んでるのは分かってる。
「お願い。一生のお願いだから」
「しゃあないわな。で他にもある」
「賀上君とマナと一緒に映りたい」
「……無理しなくても良いんだよ? あっ、あたしが居ると気が楽だったらそれはそれで端に」
「違うの。マナも居なくちゃ駄目。お願い」
「カリン。カリンちゃん……う、嬉しいけどあんたいいのそれで。あたしも混ざっちゃって、いいの?」
「うん。賀上君と、マナと、私。三人で並んだ写真が撮りたいの」
 大好きなマナ。大好きな彼の姿はきっと、ううん。絶対に私の心の支えになるから。
 だから、マナじゃなくちゃ駄目だ。他の誰でもなく、私の親友じゃないと駄目だ。
 いつもは強引な親友の見せた躊躇いを振り切る為に、語気を強めた。
「マナもいないと駄目なの」
「うん、わかった」
 真っ正面から見据えると、マナは少し照れたように俯いた。
 ありがとう。大好きだよ私の親友。

 

 

 

 

 

 

 

 

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