七章/いつもの違う日常

 

 

 

  

 



 一瞬の微睡みと浮遊感。体が傾く。
受け身も取れなくて私は固い地面に体を打ち付けた。
「いつ……」 
 あっちでは、受け身が上手くいかなくても土がクッションの代わりになった。
 けど、鉄板のようなコンクリートは私を包んではくれない。
 異世界での生活は、私の日常の記憶を霞ませる程長かった。
 立ち上がろうとして呻いた。捻ったらしい足が痛む。
 普段なら絶対に整えられていた体勢。初めての感覚と。絶望が尾を引く今の状況では、体が上手く動かなかった。
 そこで、私の思考が一寸止まる。
 フダン? 
 私は今、何を基準にしたの。本来の音梨 果林は相当の運動音痴で、真正面から飛び来るボールも避けられなかったのに。
 現在の音梨 果林はどうなんだろう。
 いきなり生け垣ほどもあった高さから落とされても、足を捻る程度。
 確実に、元の自分ではない。昔の私ではなくなっている。
 いつから、私。変わったのかな。
 ぼんやり壁に寄りかかり、なんとか立ち上がる。
 見上げる空は、向こうの空よりも淀んでいた。
「戻ってきたんだ。私」
 それは一時の夢。そして安らぎ。休息とも言えぬ時だ。
 一週間も経たずに、私は戻される。あの戦場へ。
 でも、いつまでも絶望に引きずられているわけにも行かなかった。私にはやらなければいけないことがある。滲む涙を拭って、上手く動かない足を動かす。
「謝ら、なきゃ」
 そうだ。
 私は、このために戻ってきた。
 このときのために、生き延びたんだ。
 約束を破ってご免なさいって、彼に言うために。



 汚れてしまっている服を整えて、髪を直して。そして笑顔で居られるように自分に活を入れようと、したときだった。
「音梨」 
 背後から掛かる懐かしくて優しい声。神様はどこまで私を嫌えばすむのだろう。
 何もないような振りをして、笑顔を向ける時間さえくれないのか。
 振り向きたかった。でも、振り向けなかった。泣きはらした目を、ボロボロの格好を見られたく無かった。近寄ってくる足音。
 近づかないで。お願い。
「どうした、の」
 諭すような声音に、肩が震える。俯いた顔が上げられない。黒くてざらついた地面が見えた。滑稽な状況に、自分の影が笑っているような錯覚を覚える。
 ずっと願っていた彼との再会。でも私はやっぱり意気地無しだ。
 あんなに帰りたいと願っていて、ご免なさいの謝罪も出ない。唇が開かない。
 彼の顔すら、見られない。
 夢の中の声と被る。『音梨――君は、僕を殺すのか』悲しみと嘲りの台詞。
 違う。違う、違う違う違う。夢のあの人と彼は別人だ。
 なのに罪悪感と恐れがぬぐえない。今、私の手は赤くない? 真っ白なの?
 分からないのが怖い。そのうち夢と本当の境界線がぼやけて、現実にしてしまいそうな自分に恐怖する。
「具合でも、悪い?」
 余程脅えていたんだろうか。子守歌のように穏やかな声音。
 そこまで言われて、私はゆっくり首を振った。
「事故にでも遭ったんじゃ」
「違う。違うんです」
 彼は、私を責めなかった。予定を全て狂わせて、ずらして。壊してしまおうとしている私の身を真っ先に案じてくれた。
 優しい手が腕に微かに触れた。反射的に身をひいてしまう。
「ごめ、なさい」
 震える唇で何とか声を創り出す。
 地面に滴が落ちる。雨は降っていない。
 頬を涙が伝う。私の心がもたらした雨。膝を折り、服が汚れることも気にせずに座り込んだ。固く冷えたアスファルトの感触。真昼なのに、寒い。
「ご免なさい。約束破ってご免なさい。私……」
 その先は言葉にならなかった。漏れ掛けた嗚咽を飲み込む。見上げると、彼が困ったような顔をしていた。焦げ茶色の瞳が不安げに揺れている。
 最低だ。なんて最低なんだ。
 待ちぼうけさせた上に勝手に泣きじゃくって彼を困らせている。
 嫌な娘、自分勝手。でもそれで良かった。今の私は、嫌われてくれた方が楽だった。
「いいよ。そんなに待ってないから」
 優しすぎる。彼は優しすぎた。なんて残酷なんだろう。
 私はまた一週間も経たずにあの世界に強制的に連れて行かれるのに。
 希望を見てしまう。夢を見てしまう。
 ―――貴方が好きです、って。台詞を吐き出したくなる。
「ごめん、なさい」
「怪我大丈夫。歩ける?」
 私を宥めようとする彼に、微笑むことも出来なくて。
 運命を呪うでもなく、事実を話すこともなく。
 私はずっと、泣き続けた。涙が、止まらなかった。

 夢に見るほどに憧れていた初めてのデートは。最悪な形で幕を下ろす。
 触れられない暗幕が歪んで閉じる光景が脳裏に広がった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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