五章/いつわりのキボウ

 

 

 

 

 
  どれだけの月日、年月放っておかれていたのか。おばさんが私の足下にあった箱に本を置くと、埃が肺を埋め尽くしそうな位舞い上がる。
「じゃあカリン。本は箱の上に置くけどいいね」
「げほ、は、はい」
ベールを付けているのに噎せながら、答える。目にゴミが入って涙がにじんだ。
 ちょっとした辞典位の厚さのそれは、ワインレッドの装丁。指先で撫でる。革の表紙が手に馴染んだ。 
「はあ。じゃあ……あらかた買いましたし。次行きましょうか」
 シャイスさんの沈んだ声とは反対に、私の気合いは十分充填された。よおし、頑張ろう。
 床に腰を据えた小さめの木箱に手を伸ばし、ひょいと持ち上げ。
「ん……?」
持ち上げ。持ち上げ、て。持ち上がら、ない。
 アニスさんのスパルタ授業で訓練されて、十キロ程度軽く持てるはずなのに、ミカン箱より小さいその箱は、床にへばり付いたまま動かない。
 脇を締め、覚悟を決めて腕を持ち上げる。ゆっくりゆっくり地面から箱が離れた。
 鉛みたいな重みが支える腕と、足に掛かる。
「お、おも、ぉっ」
 たまらず呻きを漏らす私に、おばさんが笑った。
「あらら。やっぱり重いかい」
 いや重いかい、じゃなくて、見た目以上に重すぎる。空のバケツに重しがたくさん入っていたような。持てないことはないけれど、詐欺のような重量。
「いつも、こんな重いの。持ってるんですか」 
「そうだよ。意外に重労働だろ」
 ダンベルを何個組み合わせればこんな重さになるんだろうか、という重みだ。とても『ジュウロウドウ』の一言で済ませられない。腰痛になりもするだろう。実は腰痛じゃなくて背骨でも折れて居るんじゃなかろうか。痺れる指先をだましだまし落とさないように荷物を水平に保ち続け、彼女の穏やかな声に思ったりする。
「こんな重いの毎回、受け取れてたんですか!?」
「え。いえ、あー。ははははは」
 ひ弱げな彼に向くと、灰色の髪を軽く指先でつまんで、笑って辺りを見る。
 何か挙動不審だ。
「いんや。シャイスは力仕事に向いてないからね。フレイがいつも持って帰ってたよ。
 そういえば、カリンが持てなかったらアンタどうする気だったんだい」
 確かに。力仕事には向きそうにない。それより驚いたのは、フレイさん。そんな力持ちなんですか。シャイスさんが『フレイからちょっと譲って貰った』とは言ってたけど。
 毎回毎回こんな重たいシロモノを細腕の彼が持って移動していたのか。
 いろんな意味で驚きだ。
 シャイスさんが気使うように私を見ているおばさんに、小さく笑って。
「いえ。持てますよ。馬鹿力ですからかのじいっ!?」
 何か失礼なことを言おうとした彼の言葉尻が跳ね上がった。私はニコニコと微笑む。
 死角になる下の方で踏みつけていた足を除けて、ずり落ちそうになった箱を抱え直した。
「まあ、見た目よりは頑張るけどね。次の店に回る前に荷物は置いてきた方が良いよ。
 どうせそのつもりで馬車でも使ってきてるんだろう」
「うう……ええ。そうですね」
 おばさんの忠告に、彼は半泣きになりながら痛むらしき自分の足を見た。
私は先ほど力一杯何かを踏みつけた気がするけど、彼の恨みがましい視線を、にこやかに迎撃した。


 袋に詰まった沢山の荷物。それらを抱えて坂道を上りながら、耳元で続く声に振り向く。
「ああ、来月はどうやってやりくりすれば」
「まだブツブツ言ってるんですかシャイス様」
「でもですねぇ。元々薄給なのに予定外の出費が」
 半泣きになって、手ぶらの彼が頭を抱えた。気持ちも分かるが、こう買い物する間から帰る道すがらまで延々と呟かれると気がめいる。
 買わせておいて心が狭いとも思うが、「食費が、出費が、経費で落とせないんですよね、やっぱり。でも本ですからちょっと位、ああでも駄目だ」なんて独り言がずっと続くのだ。
 しかもボリュームは少しずつ高まって、私の鼓膜に響くぐらいの声量。
「はあ。もう。いつまでやってるんですか」
 気が滅入る、のもそうだが。周りを通るヒト通るヒトが見ている。何事かと。
 最終的には巨人族の人らしいヒトから、大きな目で心配そうに見つめられて、病院、近クにアル。等とたどたどしく親切極まりない言葉なんか掛けられてしまえば。
 私の唇から溜息が漏れるのは仕方ないだろう。
 大きな声で呟くシャイスさんのおかげで、人通りが多いとは言えない道とはいえ、完全にさらし者になっている。意味はよく分からないが、通り過ぎた道の近くで積まれた樽が浮いていた。
「給料が」
「それは確かに深刻ですけど。ちゃんと荷物持ちしますから機嫌直して下さいよ。
 にしても、何で樽が浮いてるんです」
「動かし易いじゃないですか。浮いてる方が」
「まあ、そう、ですね」
 ひどく簡単な答えに曖昧な声が漏れた。確かに地面にくっついているより運びやすい。
「荷台には寄りかからないで下さいよ。ひっくり返したら商品弁償しないといけませんし」
「あはは。幾ら何でもそこまでドジじゃありません」
「どうですかね。見ているところ見ているところで転んでますから」
 いやそれは否定しないけど。
「足に石でも引っかけて転ばれたら大へ」「きゃ」
 シャイスさんの言葉が途切れて、バランスを崩した私が悲鳴を上げた。
 転んだ拍子に聞こえる盛大な物音。勿論私が彼の心配通りひっくり返ったり転んだワケじゃない。
「いたた」
 頭を振る彼。背中に覆い被さったシャイスさんを睨み付け、私は唸る。
「何してるんですか」
 彼が自分の服の裾を踏んで盛大に転んで、私まで巻き込まれたのだ。
 注意している本人が転んでるんだから世話ない。固い地面に打ち付けた体が痛む。
ごろんごろん。耳に入る不吉な響き。手元を見る。上に乗っていた黄色い果物みたいな品が、見あたらない。
 ごろ、ごろ、ごろ。音は止まらず、錆び付いた首を回して坂の下を見る。
 夜店で間違えて地面にぶちまけられたピンポン球みたいに跳ね、思い思いに転がっていく荷物達。
 ああああ。しばらく声にならない心の呻き。
「大変! 落ちた!?」
 片腕を地に付けて、跳ね起きる。
「荷台のですか」
 勢いで転がり落ちそうになった彼が何とか体制を立て直し、間の抜けた質問を飛ばしてきた。
「違います、あれっ」
「あららぁ」
 指で下の辺りを示す。坂の半分を転げ落ち、丸い果物は緩やかな斜面になった広場に向かう。ああもうあんな所まで!?
「あららぁ、って感心してどうするんですか!?」
「大丈夫です。木の実みたいなものですから、ちょっと位傷ついても中に支障ありません」
 なら、やることは一つ。
「悠長に言ってないで集めに行きますよ。集めに!」
 限りある食材をかき集めるために、私は迷わず坂を駆け下りた。
「ああ、ちょっと待って下さいよー」
 後ろで聞こえる情けない悲鳴。まばらに行き交う人々が、私を不思議そうに見つめるがいまはそれどころではない。裕福なんだろうお城でも毎食ジャガイモ豆スープ、果物や木の実が貴重品だっていう位は異世界から呼ばれた私でも分かる。
 大急ぎで転がる木の実に追いついたときには、もう広場に着いていた。
「ちょ、ちょっ……早いですよ、あし」
「火急です。またどっかにいくかもしれないので拾うの手伝って下さい」
 手元の袋にしぶとく転がる果物を放り込み、ふらふらと座り込むシャイスさんに告げる。
 彼が言った通り表面に傷が付いていても、中まで傷は達していないようだった。
 一瞬シャイスさんの表情が曇り、転んだ責任は感じているのか渋々と果物を拾い始めた。
 そう経たずまき散らされた果物達は、元の場所に収まった。
「これで最後みたい」
 何度か辺りを見回した後、膝をついて足下にある一つに手を伸ばす。
 ついでにゴミも取り除いたので広場は最初の頃より綺麗になっていた。
 指先が触れる間際。黄色い果物は私の視界からはじき飛ばされる。
 腕を伸ばしたまま見上げると、知らない男の人が周りを囲んでいて。
 固まったまま、シャイスさんが口を開く。目前には靴。
 蹴り飛ばされたらしい果物が、民家にぶつかって跳ねるのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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