五章/いつわりのキボウ

 

 

 

 

 

 シャイスさんがまだ部屋の隅で呻いている。彼を引きずっていこうとも思ったけど、お客が少ないのか、話し好きなんだろうおばさんが私を引き留めたので、もう少しここに居座ることにした。どちらにしろ私はこの街の地理に疎い。ついでに言うなら街どころか地図を見たのもつい最近だ。
 床は渋い色合いの木目。壁には灰と青が混じりあった薄いマーブル模様の煉瓦が並べられている。ランプに明かりは灯っていないのに、閉じられた扉の隙間から漏れる光より、店内は明るい。カウンターの向こうは倉庫代わりなのか、色々なものが見え隠れする。両手で抱えきれないほどの袋に詰まった何かの調味料が何段にも積み重ねられて。その上には木の実。狭そうには見えないけれど、手狭なのかこちら側にも品の洪水。
 ツボに瓶に詰められた何かの草。お守り代わりか天井にぶら下げられた意味不明の模様の付いた木の飾り。
 いらっしゃいませ、と書かれてある看板も、他の文字は分からない。
 訳の分からない品があふれては居たが、気さくな店主と豊富な品揃え。こじんまりとした良いお店だった。ちら、と視界がぶれる。埃でも落ちてきたのか。
「わ」
 私の唇から小さな悲鳴が漏れた。目の前を掠めた埃。その早さに唖然となる。
 高速飛行で私の周りをくるくると周回運動。それだけではなく妙に光っている。
 蛍かとも思ったが、虫本体が居ない。視覚で感じられるのは、透明な体の周囲を覆う燐光だけ。実体はあるらしく、引っ込めて跳ね上がる胸を押さえる掌に何度も体当たりしてくる。私はこの不思議生物のご不興を買うようなことをしたんだろうか。
 取り敢えず手を空けないといけないらしいので、おそるおそる掌を開いた。
 蛍のように光るそれは、すい、と手の平に着陸する。口があるのかは分からないけど、噛み付く様子もみせない。今更だけど、害はないみたいだ。
「……きれい」
 漏れたのは感嘆。恐怖よりも、幻想の固まりみたいな輝きに溜息が漏れる。
 間近で見たその光はとても明るかった。姿は影も形も見えないが、何かが乗っている感触は微かにあった。けど、綿毛みたいに頼りない。
 手の内は、電球に近寄ったみたいなぬくもりがある。 
「おやま。輝虫が一匹逃げてたんだね」
 私がぼんやりと手元を眺めているのが気になったのか、カウンターの向こうからおばさんが顔を出して驚いたように目を瞬かせた。
「コウチュウ?」
 やっぱり虫なのか。
「知らないのかい。まぁ、扱いづらいからね。知ってる人間も使ってる奴も少ないさね」 
彼女は笑ってそう言うけど、私にとってこの世界自体が知らないことだらけ。
「わたしもね、虫かどうかは知らないけど。そう名前が付いてるんだよ。
 光って飛ぶだろ。けど、あんまり人には寄りつかないんだ」
「何ででしょう」
「さあね。わたしより年寄り連中は生き物のの憎しみや殺したい気持ち、つまり殺意とか怨念を嫌うからだって言ってるよ。それが原因かはわからないけどねぇ、おかげで逃げられっぱなしさ」 
 溜息をつく彼女に、もう一度何でと聞きかけて、愚問だと気が付いた。
「こんな世の中だからね、来る奴来る奴みいんな死んだ目をしてる。
 生気がないよ。それか、殺気だった獣の目だよ」
「…………」
 明るい声に影が落ちた。死んだ人も沢山出て、戦況は絶望的。その状態で楽しい気分で居れる、なんて人は居ない。
 だから、虫は人に寄りつかない。街にも近寄らないだろう。
「通りで明るさが落ちてると思ったんだ。押さえておいてくれ。そいつは素早いから、掴まえてくれて助かったよ」
 彼女は気を取り直すように笑ってランプを確認し、こっちを見る。押さえると言われても、私は手の平を水平にしたまま大人しくしているだけだ。掴まえようとして潰れても困るし。
「珍しいね。そいつからアンタに止まるなんて」
 感心しきりのおばさん。手の甲に移動した、頼りない輝きを見つめる。怨念や殺意。か、人間の影の部分に敏感に反応する生き物なのかも知れない。
「悲しみや苦しみにも過敏に反応して、こんな街や戦場には絶対留まらないって聞いてたけどね」
 というコトは私がお気楽と言うことか。危機感のない人間って事か。
 気分が紛れたと言っても、今朝見た夢の苦しみは、残っている。
 だけど。その感情を嫌う虫は、私から離れようとはしなかった。
 私が脳天気なのか、それとも。
 この、身を裂く不快感が霞に思える位、この世界の人の絶望や悲しみが重く、深いと言うことなのか。
「まあいいか。ちょいと失礼するよ」
 黙考する私の耳に明るい声。ぎし、とカウンターが軋んで私の手の平から光が消えた。
 もう一度鈍い音。見ると、おばさんが両手を閉じてランプの側に小走りで近寄っていくのが見えた。
「よっと。これで良し」
 ランプの蓋を開いて、中に素早く輝虫を放り込む。何故、と考える前に。
 部屋がふわ、と明るさを増した。
「うわぁ」
 先ほどとは段違いの光量。豆電球と蛍光灯みたいに違う。
 暖かい光に肌がざわつく。
「あたた。れれ、輝虫だったんですかそのランプ」
 まだ痛むのか、頭を押さえながらシャイスさん。いまはシャイス様か。
「そうだよ。気が付かなかったのかい。気を抜くとすぐ逃げちまうけどね、蝋燭や油はもう高すぎて値段も馬鹿にならないんだよ」
 呆れたように肩をすくめ、彼に告げた。
 平和に見える街、店。でもここにも、戦争の影響。
「維持も大変でしょ。繊細な生物らしいですし」
「ランプの維持より楽なもんだ。元々不安定な生き物さ。
 動かなくなっても数日は光り続けるけど。死骸、は雪みたいに溶けちまうよ」
 世間話みたいに、二人の話し方は軽やかだ。硝子の向こうの光を眺める。
 セミみたいに儚い命。ランプの中の輝虫達は、身を寄せ合って光を強めていた。
「そう言えば近くの森に光る虫が出るって聞きましたね。これの事だったんでしょうねぇ。
 仕事以外の事はあんまり興味なくて」
 頭を掻いて笑う彼。嘘つくな。突っ込みどころだけど、我慢。我慢。
「そうそう、カリンだっけ?」
「はい」 
 まだ呼び慣れないんだろう。確認するような視線に、軽く頷く。
「アンタ、運が良いよ」
 なんで。いきなり言われても分からない。
「どういう事ですか。それ」
 私の代わりに、興味津々なシャイスさんが口をひらいた。
「輝虫が自ら近寄るのは、さい先が良いってことさ。進む道が照らされるんだ」
「照らすのは、カミ、サマですか?」
 そうだとしたら嬉しくない。絶望を見せた神様、希望を奪う神様、最近は神様拒否反応が出そうだ。
「はは。いまのご時世カミサマなんて神官でもないと信じないよ。
 輝虫は、光るだろ。だから進む道を照らしてくれる。
 だから、道に迷って、道しるべが見えない闇でも。進む道筋が見える」
 おばさんは、私の不安を笑って一蹴してくれた。重い石ころみたいな不安は遠くには転がらない。でも好奇心は別だった。
「……光るから?」
「そうさ。光だ。多分古い言い伝えなんだろうね。昔聞いたことがあるんだ。
 輝虫は照らす。全てを照らす。おてんとうさまでも照らしてしまう。
 よく考えれば変な話だけどね。縁起物、って事で考えときなよ。ただえさえ何時死ぬか分からないんだからさ」
 言ってから寂しそうに微笑む。それも、そうだ。この虫が何時かは死ぬみたいに。
 この世界の人達は、無慈悲な神様から高い割合で死への切符を生まれたときから渡されてるんだ。
「…………はい」
 そんな中で大吉を引いて、こんなものまやかしだ。なんて投げ捨てられるわけ無い。
 幸運の欠片を掛けられた私は、微笑み返して頷くしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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