いつ終わるとも知れない長い廊下を二人で歩く。厚い絨毯のせいで反響はしない。
時間の感覚も麻痺して、部屋から出てどの位経ったのか分からない。
彼が口を開いたのは、ループしていると思えるほど続く廊下に不安を抱き始めた頃だった。
「はぁ。全くついてないですよ。
あの時少し詠唱を間違えなければこんな失敗しなかったのに」
いきなり愚痴をこぼし始める。上司や他の候補者がいなくなったことで安心したんだろう。ツイてない、か。それを言いたいのは私の方だ。突っ込みたいけれどさっき彼の邪険にされっぷりを間近で見た手前、流石に突き放すのも気が引ける。
吐き出し口も必要だろうし、しばらく放っておくことにした。
「フレイは私が気絶してる間にサッサときえちゃうし。案内役やらなにやらさせられたあげくお給金まで減らされて」
やはり色々な面で苦労しているらしい。非常にその意見は同情の余地はあるけれど、元凶という一つの理由が完全な同情へ傾かせない。
とは言え、ここまで不幸な人だと憎む気も起きない。憎めない人、と言うより憎む前に袋だたきにされている人だし。
「あ。す、すみません……カリン様は、もっと大変ですよね。私の間違いで呼び出されたんですし」
ようやく私の存在に気が付いてくれたらしい。気付いてくれたのは良いんだけど、本当に部屋に連れて行ってくれるんだろうか。愚痴に夢中だったので不安。
謝られても特に何も感じない。彼の行動を見ていると本当に私は『失敗』の上『たまたま偶然』呼ばれただけだと分かる。怒りなんて綺麗さっぱりと言えないけど、今は怒るより先に生きることが先決だ。ただ、彼が憎めない人というわけではなくて、私は心がそんなに広い人間でもない。だから、今は許さない。まだこの現実も全て受け入れられないし、みんなを信用なんて出来ない。
「全部帳消し、にはしないですけど」
シャイスさんを小さく睨んで口を開く。
「はい?」
「シャイスさんを見ていたら、怒る気もなくなりました。
物をぶつけたことは謝りませんから、それで今の間は私の気が済んでます」
許さないけど、信用全部はしないけど。ある程度歩み寄れる譲歩はしようと思う。
ぶつけたことは謝らないけど、割ったことも謝らないけど。それで表面上の怒りは帳消しにする。
全部帳消しにしないって言ったのは嘘、本当は全部帳消しにしてあげよう。言わなかったのは怒った素振りで彼を虐めようと決めたからだ。
仮面のことは、まだちょっと根に持っている。
一ヶ月。決して短い時間ではないから、ゆっくり彼らのこと彼女たちのこと。分かっていけばいい。
「ちゃんと。還す準備してくれれば、帳消しも考えますから。
用意、サボらないで下さい」
元凶なんだから、ちょっと困らせる位の意地悪は良いだろう。
唇を尖らせて、拗ねたみたいな素振りをする。
「は、はい。私こんなに怒られなかったのは生まれて初めてです」
彼はうっすら感激したように涙を浮かべて袖で目の端を拭う。
この人。今までよっぽど失敗が多かったんだろうな。
私の精一杯の嫌がらせが通じていない。彼を困らせるにはもう少し鋭さと斬り込みの深さが必要なようだ。
「あ。カリン様のお部屋はこちらです。燭台が今不足してますので、今は暗いですが。明日になれば廊下も明るくなるはずです」
少し早足で進み、両手を合わせると、近くにある扉の前でそう言った。
彼の言うように、ここ一帯だけが妙に暗く、足下さえよく見えない。
「燭台、か」
ふと、零れる小さな言葉の欠片。
記憶が途切れる間際に聞こえたイヤな音を思い出す。重い燭台の感覚。くぐもった咆吼。赤く染まっていく床。
どう言い繕おうとあの獣に致命傷を与えたのは、この手だ。死を見せたのは私だ。
重たい溜息を飲み込む。甘いかな……こんなこといっているようでは、明日生きられるか怪しいところだ。でも、生き物に深手を与えたのは生まれて初めてだった。
それがこの世界で忌み嫌われている魔物でも。
不思議そうにシャイスさんが私を見ている。
「あの、やっぱり燭台お持ちした方が」
「いりません」
おずおずと尋ねてくる言葉を切り捨てる。そっちの心配ですか。
確かに転びそうかも知れない、とは思ったけれど。少しだけ。
「私のお世話をしてくれるんですよね」
変なところで気を使う彼の行動を見て溜息が混じる。
「え、ええ」
「だから、喧嘩ばっかりしたくないんです。あの……それから」
妙にビクビクおどおど怯え気味に身体を震わせているシャイスさんを刺激しないよう、慎重に言葉を探って紡ぎ出す。それから、聞きたかったことが一つあったんだ。
「何ですか?」
ようやく安心したのか落ち着いた笑顔で彼が振り向く。
「私の荷物、置いてくれたの。あなた、ですか?」
限りある私の世界の品物。両手で持ったバッグに目を落とし、口を開く。
「そ、そうです。何だか大事そうにずっと持っていましたから、あ。中は見てませんよ!?
いけませんでした? 駄目ですか。マズかったです?」
別に怒っていないのに、彼は頷いた後、今度は半泣きになってブルブルと頭を振る。可哀想な位脅えていた。何かを恐れるみたいに。
……ああ、そうか。分かった。この人余計なことをして自滅するタイプの人だ。
だからさっきから不審とも思えるほどおどおどしているんだろう。
「いいえ。有り難うございます、それはまずくないです。
私の大切な物だから、ほんとに……有り難う」
感謝の気持ちは言葉でうまく表せなかった。その代わりに、微笑んでみせる。
鏡で沢山練習した笑顔。上手に出来ていればきっと幾らかは伝わるはず。
「いっ、いえいえいえいえ。お礼を言われる事じゃないですよ。
でもちょっと汚れてまして」
次は赤くなってばたばたと両手を動かしシャイスさんが慌てる。忙しい人だ。
「いいんです。必要なのは中身だから。私の世界の物があるから、これで頑張れそうです」
疑っていた訳ではないけれど、少し中を見る。中身は、本当に無事みたいだ。
綺麗だったバッグも、選び抜いた洋服も。全部薄汚れてしまったけど、洗えば綺麗になるんだから大した問題じゃない。汚れていても今の私にとっては、僅かなあちらの持ち物なんだ。
「カリン様。こちらがあなたのお部屋になります」
ノブを回して彼が私に入るように勧める。でも、中は燭台が不足しているという段階ではなかった。
真っ暗だ。掛け値無しに、一面に広がる闇。開いた扉の隙間から漏れた光、それを頼りにしても判別が難しい。アレはツボかな、四角いタンスかも。とあやふやな予想は出来るけど。
困った。
「えっと。暗くて見えないんですけど」
凄く困ったので控えめに言ってみる。
「私はこういうのに目が慣れてまして、気が付きませんでした。そうですよね。
すぐに明かりをおつけします」
ぽん、と手を打って彼が頭を掻いた。ああ、そう言えばこの人地下に居たし、それに召還を任されているって事は暗いところにずっと居るんだろうか。夜目は利くようになりそうだけど、体にも悪そうだ。
『すぐに明かりをおつけします』といっても、火打ち石とかマッチもないのにどうやって? 側にランプがあるのはうっすらと見えてきたけれど、油位しか入っていない。
思うまもなく彼は小さく口の中で耳慣れない言葉を呟いて、弾くみたいに人差し指と親指の爪先を合わせる。ぼうっ、と音を立てて真っ赤な炎が踊るように燃え上がった。
ふわりとシャイスさんの手元で揺れ動く小石ほどの炎。
宙に浮かんだ炎がランプに移され、辺りが明るく浮かぶ。置いてけぼりにされた残りの火の粉は掌に落ちた雪みたいにふっ、とかき消えてしまった。
「わぁ」
幻想的な光景に、思わず溜息が漏れる。
「どうですか。なかなか広いお部屋でしょう」
私の感激が伝わらないのか、彼が普通に部屋の説明を始める。
「何もないところから火が出た」
頷いても良かったんだけれど、感激を表したくてシャイスさんを見た。
間近で見られた不思議な事柄。夢とうつつの狭間みたいで頬が火照ってぼうっとする。
「え」
尋ねた言葉にシャイスさんがぱち、と瞳を瞬いた。
「やっぱりそれ、魔法ですか?」
ちょっと興奮しているせいか、言葉が少し上擦ってしまう。
「マホウ。そんな大げさなぁ。ちょっとした火を出すだけですよ。
ランプの火くらいしか灯せない小さな物です」
はしゃぐ私に、彼は苦笑するみたいに笑う。
そうなんだ。この世界ではこんなのが当たり前なんだ。
「広い、部屋ですね」
少しだけ、寂しくなって声が沈んだ。シャイスさんには気が付かれなかったみたいで、彼は笑顔を向けてきた。
「ええ。他の方と同じ扱いですからね、城での待遇はそんなに酷くないと思いますよ」
本当に、候補者として扱われるらしい。
テーブル、椅子、ベッド。食器も一揃い。家具も簡素とは言えちゃんとある。
多分、この世界では破格の扱い。窓にカーテンは、無くて。
窓……窓? ベッドの側にそれらしきモノはある。
窓のような代物は、鉄格子みたいに鉄の棒がはめ込まれていた。
このオブジェのせいでくつろぎやすそうなこの場所も、部屋と言うより、牢獄の印象が強くなる。あ、でもこれ内側から開けられるようになってる。
大きな格子にかかわらず、内側の作りは意外と簡単で、留め金を外せば抜けそうだ。
外を眺めれば空も、街も、今の時間も、星座の違いも分かるのかな。
「あ、カリン様。窓は開けないで下さい!」
耳に突き刺さる鋭い声。動かそうとした指先が硬直する。
今までで一番、強い台詞だった。
「え……」
「その、アニス様が仰ったように、この城も安全じゃないんです。
開けたとたん窓から弓矢が来る可能性だってあるわけで。
ですから、その窓には厳重な防衛措置が施されているでしょう」
呆けた私の声に取り繕うような彼の言葉。
表情は真剣だけど、何処か寂しそうに目を伏せている。
開けたとたん、死ぬかも知れない、か。外を眺めたい気持ちは残っていたけど、命の危険をおかしてまで確認する気もない。名残惜しそうな指をそっと外す。
「物騒なんですね」
感情を出さないように出した笑顔は、多分曖昧な笑みになった。
「窓から何か見たい物でもありました?」
「星が見たかっただけです。どんな星が出るのか、ちょっと興味がわいただけです」
嘘つき。私のウソつき。
本当は、まだこの世界が信じられなくて、知った星座があるかどうか知りたかった。
この城がハリボテで外は普通の草原が広がっている。幻想を抱いた。
空を見ればこの波立つ気持ちも落ち着くんだろうか。それも、叶わない。
「そう、ですか。危険ですから夜中は外には出ないようにして下さい」
格子を眺め続ける私を心配するように、彼が声を掛けてきた。
外に出ないように、か。そう言われても私は出口も入り口も裏口も分からない。
夜中という台詞と、体を休められる場所を見たせいか、疲れが毒のように回り始めた。
「はい。じゃあ……疲れたので寝ます。このまま……いいの、かな」
欠伸をかみ殺して、思わず出た涙を拭う。私の顔がそんなに変だったのか。くす、とシャイスさんが笑った。
「今日は色々大変でしたでしょう。お疲れなのも当たり前ですよ。
明日には寝間着も用立てます。明かり、消しますね」
「え、あ。は、い」
良く見れば、出入り口近くのランプはベッドから遠い。確かに真っ暗闇の中ベッドに舞い戻るというのも億劫でもある。
靴を脱いで揃える気も起きずそのまま堅めのベッドに入り込み、毛布と掛け布団で二重になった布団を被る。
「お休みなさい、カリン様。良い夢を」
シャイスさんは律儀にもベッドの側まで来てからそう言うと、ドアの方まで歩いていった。耳慣れない、言葉。また、彼が魔法を使ったのかな。
いきなり闇は押し寄せてこなかった。じわり、じわりと辺りが暗くなる。それよりも、私の意識が睡魔に飲まれる方が早かった。
「お休み、なさい……」
切れ切れの返答に、彼が何か言った気もしたけれど。
私には聞こえなかった。意識は紅茶に溶けるミルクみたいに、空気へ混ざっていった。
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