封印せしモノ-29






「今……」  
 強張った指先を閉じ、固まりかけた声を絞り出す。
「レム・カミエル。それがあなたの名前」
 声にならない言葉に同意するように、カミラは前後に髪を揺らした。
「聞いたことは幾度もある。名前だけは知っていた、名乗る前から」
 とうとうと語っていく瞳からは情報の一片も読み取れない。 
「レム・カミエル……」
 胸を圧迫するように苦しくなり始めた呼吸を飲み込んで、少年は反芻するように自らの名前をぽつりと紡いだ。
「良い名前。やはり、他人から聞くよりも本人の紡ぐ名が一番」
 カミラは耳を澄ませ、入り込む言葉を味わう。
「魂が()もるから。力が(にじ)むから」
 頬に手を当て、吐息混じりに恍惚と呟いた。
 少女の言葉にさしたる感慨も抱かないのか、ぴくりとも眉を寄せず僅かに肩をすくめ、
「そう。そんなに素敵な名前とは思えないけど。それよりも――」
 呟きかけた台詞が鼻先に突きつけられた箒の柄に塞がれる。
 まるで、その先は言うなとばかりに鼻先で揺れる柄を見つめ、指先でそっと横にずらすと、少しだけ不愉快そうな視線をカミラに向けた。
「あなたの名前を聞いた場所。言わなくても良いと思うから。
 分かるはず……いいえ。あなたは既に気が付いている」
 険悪な視線を向けられる理由がよく分からない、とでも言いたげに少女は少しだけ首をかしげ、ゆったりとした動きで腕を引く。柄が離れたことで僅かに緊張を解き、
「そう。直に、聞いたの?」
 疑問を表すように軽く片耳を伏せて尋ねる。
「少しだけ違う。私は呪術師よ。呪術を行うには材料がいる。
 それも、普通の材料ではなく」
 カミラはふるふると首を振り、伏せ目がちに口を開いた。材料に思い当たることがあったのか、少年の眉が僅かにしかめられる。
「コウモリの羽。サソリの毒、尻尾。竜の骨、魔物の血液、死骸、毛髪。
 有毒植物、食虫植物に至るまで。ありとあらゆる品が使われるとは聞いてるけど」
 記憶を手探りで探るようにゆっくりと舌に言葉を載せる。余り耳にしたくはない単語の数々だが、カミラはあっさり頷き、
「そう。呪術に必要な品々は特殊。材料全てをこの大陸で揃える事なんて到底無理。
 他の大陸からの物も使わないと、呪術の行使もままならない」
 当然だとばかりに大きく何度も首を縦に振る。普段余り上下に頭を動かさないせいか、それとも激しく動きすぎたのか。大きく傾いた後その場に留まる。僅かに左右に揺れる身体を正し、
「まあ、五十年ほど前の南の封鎖で何割かの呪術は使用不可能になっているのだけど」
 目眩がまだ収まらないのかこめかみに指を添え、独り言のように呟いた。レムが不審気に顔を曇らせるのを見、
「こちらの話よ。あちら方面の術は少し癖が強いから日常には不向きだから」
 安心させるためか、ピラピラと指先を振って吐息を吐き出す。
「…………」
 まだ指先をふらふら動かしているカミラを凝視したまま、レムの口元が僅かに引きつる。安心どころか絶望的な沈黙を漂わせる少年に疑問を感じたのか、
「どうしたの」
 首を傾け眠たげに落ちかかった瞳を瞬いた。
「…………一つ、聞いて良い?」
「ええ。どうぞ」
 絞り出すような台詞に微かに不思議そうな顔をして了承した。
「日常の、術の……つもり、だったの?」
 彼は今までカミラが呪術を行使する所は見たことはない。
 見たことはない、が。呪術に使う薬の生成なら見たことがある。
 それに妹のピシアの脅えようと、魔物を素手で殴り倒すことすら躊躇わない少女のクルトが見せたあの(おのの)きよう。総合して考えると日常の術を超えた範囲であることは確か。
 更に言うなら生け贄を必要とする術は既に日常的な術ではない。
 呪術の中で日常的なモノがあるかどうかは疑問残るところだが。
 カミラは少年の心中お構いなしに大きく頷き、
「ええ。それ以外の何に見えるの」
これまでになくはっきりと断言した。
「…………ちょっと聞いてみたかっただけだから、気にしなくて良いよ」
思わず目眩を覚えつつも、僅かに慣れが勝ったかふらつかずに済んだ。
 こういう言動に慣れている事自体に悲しいものを覚えるが、多くのことは気にしないことにし、
「君が普通だと言い切るんなら日常的なんだね。勝手に日常にしておいて」
 付き合いきれないと感じたのか、痛みを訴えるこめかみを意思の力で制しつつ呻く。
「よく分からないけれど。当たり前だわ。日常だから」
 非常識の固まりの少女はこっくりと同意する。何処か気怠げに落ちた前髪を掻き上げ、
「日常で良いから僕は巻き込まないでね」
 疲れを混じらせた台詞。
「よく……分からない、けれど。分かったわ……」
 指の隙間から覗く昏い瞳に何かを感じたか、カミラはしっかりと頷いた。


「で、その。僕の事は前から人づてに聞いたって事は分かったけど」
 暗くなりかけた空気と気分を入れ替えるように、少年は自分の手の甲で頬を軽く撫でながら呻いた。
「有り体に言ってしまうと、そうね」
 かなり回りくどく言っておきながら身も蓋もなく相槌を打つ。懐から紙束を取り出し、
「各地で買い物をしているせいか、魔道具屋さんとは顔なじみが多いの。
 でも、転声陣(ウォクトゥーリ)を使用して買い物をしているから……正しくは声なじみかしら」
 見せびらかすように揺らす。少年が下辺りで掌を広げると、意外と簡単に手を放した。
 乾いた音を立てて紙束が手に収まる。レムは受け取った束を片手で持ち、少々黄ばんだ紙の表面を見つめた後、破らないようにそっとめくる。
(これが最近の分か。やけに海沿い……沿岸の辺りに集中してる)
 店の住所を見つけ、指先で確認しながら僅かに眉を寄せた。今の大陸であるカルネ辺りの店の名前が多いのはともかく、少し離れた大陸の沿岸に連絡先である住所が密集している。そのことに疑問を覚えつつ、頭をもたげ始めた別の疑問を問うことにした。
「ウォクトゥーリ? でもアレって体質や相手との同調が上手くいかないと成功しないはずじゃ」
 転声陣。人体を移動させる転移用の陣と似て異なるモノ。膨大な魔力と人手を要する転移用の陣とは違い、声だけの転送は不可能ではない事柄だった。
 問題点は幾つかあるが、たった唯一の欠点があった。すなわち、相性。
 術に対する相性も関係するが、通話する者同士の相性がかなり重要で同調性が全くないと話そうとした瞬間魔力で弾かれる。相性がなかなか合わない。少しは同調するが雑音が入って会話もままならない、更には全く相性がないと弾かれる。という不便さ。強い魔力ではないが脳天を指先で弾かれる程度の痛みはあるので気持ちいいはずもない。
 結果、余り浸透していない術でもあった。レムの当然の疑問にカミラは瞳を軽く瞬いて、
「あら……意外と情報が古いのね。あの術は魔力を込めた宝珠と増幅を駆使すれば近場の大陸程度の相手と話せるようになるわ。雑音も、余計な思念も一切無く。
 勿論、同調も余り必要としないから体質もほぼ関係が無くなる」
 そんなことを告げてくる。
「へぇ。初めて聞いたよ」
 寝耳に水の情報に驚きと感心を織り交ぜ、レムが海色の瞳をキョトンとさせる。
 彼の滅多にない動物的な仕草に何かを感じたか、カミラは少しだけ相好を崩すとよしよしとレムの毛並みの良い耳に触れる。
「この通信手段が使われるようになったのはここ二、三年前位からだもの。あなたはあまり外に出ないようだから仕方ないわ。この通信方法、必要な道具や陣を形成する知識が必要だから一般には余り浸透していないの」
 わざわざ箒に乗ってよしよしと飼い犬にするようになで続けるカミラ。いつまで経っても終わらない撫で撫で攻撃にいい加減業を煮やしたらしく、レムはその手を軽く払って睨む。
「クースまでは余裕で常時繋がることが出来るけど、コルクードは魔力消費が大きすぎて会話がぶつ切りになるわ。ボルドになんてとても無理。
 相性が良くなったとして……なんとかミーラウに繋がる程度。
 ボルドは魔術的結界が多いから相性の強い人を選んでも通話は難しいわ」 
 カミラは払われた手とレムの耳を交互に見つめ、しばらく止まっていたが少しだけ悲しそうに眉をひそめた後、箒に横座りになったまま地面すれすれまで降下した。
「問題は、手間が掛かりすぎることと近場の大陸位にしか通じない事ね。
声に哀愁が漂っているのは通信の不便さを嘆いての事だけではないだろう。それはともかく、紙に書き連ねたあった最近の取引先ほとんどがカルネ近辺の沿岸に集中していた理由に納得がいく。
「魔術都市であるボルドに届けば便利なのだけれど」
 先ほどよりもましになったものの、呟く言葉はまだ少ししおれている。
「コルクードまで……」
 口元に折り曲げた指先を当て、呻きを漏らす。北の大陸でもカルネに一番近い場所。そして、レムの住んでいた場所に一番近いところでもある。
 確かに自分の噂が耳に入ってもおかしくない所だ、と納得しかけ――
「言っておくと」
 カミラが、何処か気まずそうに言葉を落とした。
「え?」
 俯き気味になっていた顔を上げ、見る。
「…………後悔、しない?」
 彼女は少しだけ顔を背けて口を開いた。
「何」
 微かに眉を跳ね上げ、黒の瞳を射抜く。カミラは力を抜き、
「この情報を手に入れたのはクースよ」
 溜息混じりに答えた。
「な……っ。クース!?」
 耳に突き刺さった言葉に、少年の顔が僅かに引きつる。
「そう。カルネに最も近い大陸、観光の名所クース」
 頷きながら空を見上げた。クースは全体陸中一番カルネに隣接している大陸だ。
 少女の呟いた通り、観光の名所でもある。
「……観光はこの際どうでも良いんだけど。そう、クース、か」
 取り敢えず今は関係ないので軽く流し、口の中で言葉を転がした。 
「そうね。箒以外のモノにもたまには乗りたいわ……」
 横座りになった箒から降り、同意しつつも観光のことから頭が離れないらしい。
 クースでは遊覧船が出ており、クースとカルネとの隙間にある内海をゆっくり一周する。景色は元より船の食事やサービスが一品だと耳に入れたことがある。
 主人に飽きられたくないのか、箒は尻尾を振るように身体を震わせカミラにすり寄っていく。表情がないながらも精一杯の愛嬌を振りまく箒を撫で、
「貴方のこと、聞かれた」
 言葉を紡ぐ。空気が一瞬張りつめた。
「貴方と顔を合わせたのは、妹の話を聞きに来た時」
 構わず淡々と口を動かしていく。
「私は、貴方にあったのはアレが最初で。その前のことは知らない。興味もない」
 静かに首を振り、真っ直ぐレムを見据えた。少年は静かに瞳を瞑り、次の言葉を待つ。
「だから、知らないと言っておいた。場所も皆目検討つかないわ。以前の貴方の顔も姿も知らないから」
梢が揺れる。不意にカミラはふっと、視線を落として口を閉ざした。
 想像していた言葉とは違う台詞。目を開いて脱力するように肩の力を軽く抜き、
「悪いね。手間、かけさせたみたいで」
 俯き気味に言葉を絞り出した。カミラはゆったりとした仕草でずれた帽子を直し、
「いいの。どうせ余りたいした時間は取れないから」
 聞こえるか、聞こえないかギリギリの声量で言葉を紡いでいく。
「…………どういう意味」
 レムが顔を曇らせた。意外と大きく聞こえた声に反応したのか、広い帽子の鍔が揺れる。
「私は少し時間を引き延ばした。でも世界は回っていく。流れる水は止まらない。
 広大な大河を凍らせる寒波なんて、部分的に来るはずもない」
「何を――」
質問には答えず、少女は掌を掲げる。口の中で小さく二言三言呟き、箒の柄を軽く地に付けた。土を浅く抉る鈍い音。微かに飛び散る砂。
 それらが地に落ちようとした間際。
 総毛立つような違和感のある風が身体をすり抜け、地を舐めた。風は一旦上空で留まり、軌道を変えてカミラの前方の地面へと身を落とす。
 無色の空気は徐々に魔力を帯び、一筋の線となり、土を削り取って進んでいく。
 燐光を発する魔力の風は土を舞い上げながら一気に陣を描き始めた。
(やはり僕が居なくても陣を完全に……)
 削る音、と言うより何かを熱して炙るような音を立てながら地面が抉れる。
 轟きを聞きながら、レムは刻一刻と完成に近づいていく陣を眺め、瞳を細めた。
「もうすぐ……北の。獣達が猛る」
 雑音に紛れ、耳に滑り込む細い声。振り返ると、少女は掲げていた掌を下げ、
「城塞が動き、大陸が喰われ始める」
 先ほどよりもはっきりとした声音で告げる。動きに合わせ、緩やかな動きで黒髪が揺れた。カミラへ開こうとした唇は開かず、吐息しか漏れない。
 硬直している少年を静かに見つめ、
「あなたには時間がないはず」
 それだけを言うと、瞳を伏せる。ぴく、と彼の白い獣毛に覆われた耳が動く。
「何を……いや、何処まで知って」
 軽く奥歯を噛み、吐き出した言葉は何処か掠れていた。
「レム・カミエル。昔決めた貴方の決断。その幾ばくか」
カミラは柄の先端を少し地面から浮かし、呟いた。
 振り向いた少女の髪が、マントのように大きく広がる。彼女は知っているのはその位、と付け足すように小さく零し、黙祷でもするように瞳を瞑った。
「……私はもう、手を出さない。流れる刻を見つめるだけ」
 本の中の一説を読み上げるように、淡々と言葉を吐き出していく。
「後は自分で考えて。今の話は、妹がした事のお詫びの代わり。
 一つだけ、教えてあげる」
 瞼を開き、静かに胸元まで手を寄せ、広げた。
 広げた掌の中に一枚の木の葉が着地する。
「今は未来を見る前に自分の気持ちを見るの。そしたら面白いことになるから」
 掌を斜めに傾けると、木の葉はなすすべもなく地に落ちていく。それを無関心そうな瞳で見つめたまま、カミラは予言でもするような口調でぽつりと零した。
 遠回りな少女の言葉に苛立ちを感じたか、レムは微かに険しい表情で指先を少女に向け、
「気持ち……訳の分からないことを言わ」
 言い募り掛けた言葉が古びた本の表紙に塞がれる。視界一杯に広がった汚れた表紙。
 あまり前屈みにならず、更に勢いよく前に進み出ていなかったため顔面強打は免れた。
「コレを地面に書き写して」
 悪びれた様子も見せず片手で持った本をふらふらと左右に軽く傾け、レムの胸元に投げた。
「ちょっ……と」
 右手に持っていた紙束を脇に挟み、投げつけられた本を慌てて受け取る。
 分厚いためかずっしりとした重い感触。頭にでも当たれば昏倒は免れないだろう。
「ちゃんと受け取ったのね。偉いわ」  
 母親が子供を褒めるような台詞に、文句を言おうとして振り向くが、本を持っていた片手をしきりに軽く振っているのを見て口を閉ざす。やはり片腕でずっと持つのは厳しかったのか、腕が上手く動かないらしく何度も感覚を確かめるように手首をふらふらさせている。
 怒ることすらバカらしくなり、汚れのせいでくすんだ藍色の表紙を慎重にめくる。
 カミラがゆらゆらと手首を動かしながら、物言いたげに見つめてくるのを横目で見ながら脇に挟んだ紙束を左手に持ち替え、更にページをめくる。
(ふぅん。強い魔術の書というよりも、これは理論に重点が置かれた魔導書か)
 表紙の割には綺麗な紙上に、ビッシリと文字が描かれている。
 幾つもの線と点の組まれた特殊な字。どうやらこの本の理論は数種の文字を交えて綴られているようだった。
 必要な時が多かったとはいえ、レム自身が好んで幾つもの古代文字や魔術文字を解読してきたためか、少々手間取りはしたが苦労せずに中を読み取ることが出来た。
中に書かれてあったのは幾つかの陣と数種の術。それらを上回る理論の数々。
 実用性を重視するクルトが見れば肩すかしを食らう内容だが、レムにしてみれば宝石に等しい知識の固まり。
 とは言っても、クルトが見ても到底分かるはずもない。それどころか、優等生のルフィすら分かるかどうか怪しいところだ。学園の書庫から出たとすれば一番奥辺りに陳列されているはずの、それ程高度な中身だった。
 思わず引き込まれかけたレムの肘に、控えめな振動が加わる。顔を上げ、振り向くと何かまた言いたげにカミラがじっと見つめていた。少年が唇を動かそうとした瞬間。
 少女は黙したまま箒を小脇に挟み、さっと両手を上げた。
 いきなり、ぱん。と両手を打ち合わせ、音に肩を震わせた少年を見つつ、間違ったとでも言うように片手を振る。
 そして、気を取り直すよう最初に右手の指を二本立て、しばしの間を空けて左手の指を五本立てて右手と合わせる。
 計七本。
 なにやら指先を駆使して伝えようとする少女を見、
(ニと七。ああ、二章の七……)
 パラパラとページをめくりながら二章の部分でめくる手を止める。 
「……理論が書いてあるけど、この構成は衝撃緩和? 良くできてる術式(じゅつしき)だね」
構成の出来の良さに感心した声を上げつつ七ページ目の紙面とカミラを見比べる。
 少女が思いきり首を振った。更に片手を動かし、ついでに両腕をクロスしてバッテンマークまで作ってくる。
「ん。違う?」
声なき否定の行動に、僅かに眉を寄せ、ページを進める。
 またカミラが両手を上げた。そのまま停止する。幾ら待っても動かない。
(七と、十。成る程七十ページ目ね。これ、か) 
 両手がヒントだと気付き、七十ページまで流すようにページを捲った。 
(結界に増幅の術……。そう取り立てて複雑な暗号では無いけど)
 口の中で呟いて、少女を見る。正解だと言いたげに少し離れた場所でカミラはぴし、と箒を本に突きつけた。その姿に何故か既視感を感じつつ、
「結界に描き込むための増幅が何通りか」
「一番強力なのを」
 告げると答えが返ってきた。先ほどの行動は喉を急に痛めたわけではないらしい。
「了解」
 不審に思いながらも了承の声を上げ、該当する術を見つけ出す。
 カミラの描いた陣を見ると、あと僅か。完成間際の所で止まっている。
「それにしてもそう難しい暗号って訳でもなかったよ。君でも十分解けるはずなんだけど」
 術の形式と陣の具合を見定めながら増幅の文字を慎重に描き込んでいき、完成間近の陣を見つめた。
 複雑な魔術文字と特殊な文様を挟み込み、円を描くように刻まれた陣。囓られたように一部が欠けている。それを見つめ、少年は海色の瞳を細めた。
(この切れ目が繋がった時点で完成、って訳か) 
 中に魔力を持った何かが入り、途切れた線を結べばそこで――
 一旦瞳を閉じ、ゆっくりと開く。
 雑念を振り払うように黙々と陣の隙間を増幅の文字で埋め始めた。
「色々と無理だから。私には私の、あなたにはあなたの出来る範囲という物がある」
 素早く動くレムの指先に視線を注いだまま唇を動かす。
「通信用の術みたいに同調性でも必要なの? これ。
 構成を見ても、今の簡略化されてる術《モノ》と比べれば複雑な方かもしれないけれど、特にそんな仕掛けは感じられないけど」
 最後の文字を描き終え、掌で消さないように注意して立ち上がり、いつの間にか後ろに立っていたカミラを振り返る。
「まあ。似たような物よ。私は呪術師だから、特にその増幅術とは相性が良くないの」
「ふぅん。ま……そう言うことにしておくよ」
 含んだ調子でそう呟き、疲れたように肩をすくめる。
「そう言うことにしておいて」
 少女の軽い返答に、痛みを覚え始めた首を前に戻す。
「先は、分からないから面白いのよ。
 今書き写した文面も答えの一つ。
 何時か、それが助けになれる事を願うわ」
 梢のざわめきに混じる声に向き直る。
 カミラは口元に小さな笑みを浮かべ、小首をかしげていた。 
 不気味さは微塵もなく、何故か優しくも見える。
 疑問と僅かな動揺を交えた視線を向け、
「なに……」
「せーんーぱーいー。まだですかー」
尋ねようとした言葉が元気な台詞に阻まれた。カミラは眠たげな動きで片手を上げ、
「終わったわ」
 癖のない黒髪を揺らし、こくんと頷く。
「話はまだ」
 睨みざまに噛み付きかけたレムの掌から紙束を奪うと、するりとすり抜けるようにクルト達の方へ歩いていった。
「……何、だったんだろ」
 飄々としたカミラの様子に気疲れだけではないだろう身体に残る疲れを今更感じ、呻く。
 大きな溜息を肺から絞り出そうとし、気が付いたようにゆったり進む後ろ姿を見た。
「そう言えば随分饒舌(じょうぜつ)だった気がしたけど。気のせい、かな」
微かな彼の疑問へ同意するように、梢が小さく身を震わせていた。





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