力をこの手に-3





 地面に座り込んだまま、クルトは呻いた。
「むう、それにしても見事な程の研磨(けんま)っぷりね」
 床に置いた手は引っかかりすら感じずに、滑らかに動く。
 学園の床でさえ此処まで磨き込まれては居ないだろう。
「そうだな」
「鏡のごとく、というのはこういうのを言うのね」
 頷くチェリオを見ながら、考え深げに天井に視線を走らせる。
 ルフィの放った魔力の明かりに照らされ、宙は月のような鈍い銀光を放っている。
 青年の隣に立ったルフィは、少し眉を寄せ、クルトを眺めていた。
 何処か怠そうに栗色の髪を掻き上げ、地面と少女を見比べて、
「だからと言って、尻餅をついた言い訳にはならないが」
 半眼のままチェリオは告げた。
「…………」
 そこで恨みがましく紫の瞳が青年を睨む。
「うう〜、ツルツルして滑りやすいのよここ」
「俺とルフィは無事だがな。不思議な事に」
 片手を付き、立ち上がるクルトに、容赦のない言葉を青年は投げ掛けた。
「……うう」
嫌みな言葉にさっきより二割り増し程の恨みがましそうな目を向け、クルトは睨んだ。
「サッサと立ち上がれ」
 その視線を受け流し、青年は疲れたように床を見つめた。 
 待つのが面倒になったのだろう。
 横にいたルフィが見かねたように片手を差しだす。
「よいしょ、と。はい」 
「ん、ありがとルフィ」
 その手に掴まりどうにか立ち上がって、クルトは少し嘆息した後、微笑んだ。
和やかな光景を見ながら、
「あまり甘やかすと増長するぞ」
 呆れたようにチェリオは少年に視線を移す。
「次に床に付く役になりたい? まあ、足からって訳にはいかないわよ〜?」
満面の笑みのまま、氷よりも冷たく澄んだ声で、クルトは呟いた。
「……今の台詞は気にするな」
 軽く片手を振り、呻くようにチェリオは視線を逸らす。
 何時も通りの光景を見ながら、ルフィは小さな笑みを浮かべ、
(二人とも仲、良いんだよね。きっと)
 辺りに罠がないかどうかチェックし始めた。
 一瞬遅れて、伸ばされた少女の手がローブに届かず虚空を掴む。
「ぁ…」
聞こえるか聞こえないか、ギリギリの境界線にある様な小さな声を上げ、もう一度伸ばそうとした手を、躊躇ったように引っ込める。
 恐らくもう転けないように袖を掴んでおきたかったのだろう。
 だが、彼が作業に没頭し始めたのを見て、諦めたようだった。
軽く辺りを見回して、杖代わりにするつもりなのか、近くにあった柱に手を差し伸べる。
 細長い柱は、床や天井と同じ、鈍い銀光を放ち、天井を貫かんばかりの雄々しさで地に付いていた。
「おい」
 指先が触れる間際――
囁きの様な低い言葉と共に、マントが後方から引っ張られた。
「へ?」
 遅れて疑問の声を上げ、ゆっくりと後ろを振り返る。
「危ないから触るな」
僅かに険しい瞳で、青年がこちらを見据えていた。
「……ん」 
 不思議そうに首をかしげるクルトを見、顎で柱を示す。
振り向くと、そこにあったのは、鈍い光を放つ柱。
 そう、柱……先程から鋭い光をたたえた―――
 そこで、異変に気が付く。
 いや、今まで気が付かなかっただけだ。
 目をこらして見れば、柱は細長いものの、丸みはほぼ無いと言っても良い。
「……何、これ」
 天井と壁の色に惑わされて気が付かなかったが、柱は何処か刃物のように鋭利だった。
 鋭利なのは二カ所。この柱を切断すれば潰れたひし形の様な形状になるだろう。 
 簡単に言うなら、両刃の刃物。それに近い。
辺りを見回すと、他にある柱も刃物のように鋭かった。
 あそこで引っぱられなければ指が落ちていたかもしれない。
「……なによこれ」
「血、出てるぞ」
 静かな青年の指摘に指を見る。
「あれ?」 
人差し指から滲むように赤い滴がゆっくりとあふれ出していた。
 小さな朱の玉は徐々に体積を増し、一瞬ぶれ、崩れ落ちる。
 細い赤の線を描いて地に落ちた。
 よほど鋭かったのだろう。痛みは無い。
 その証拠に、言われるまで気が付かなかった。 
深くもないし致命傷でもないようだ。
 傷を知覚し始めたと同時に、痒みのような微かな痛み。
 自分の体ながら、単純なものだ。
(……痛みも視覚が作用するのね)
 指を見ながら、クルトはそんな事を考える。
「見せてみろ」
「ん」
 手を取るチェリオに、特に抵抗無く頷く。
 こういう治療に関しては、恐らく彼の方が得意だろう。
 まあ、治癒の魔法に自信がないのも理由のうちだ。
 それに、この程度でルフィに治療して貰うのも何処か気が引けた。
「……ハンカチ……は」
 血を拭うのが先決だと思ったのだろう。考えるように少し首をかしげた後、
「めんど」
疲れたように嘆息する。
(治療するの止めるのかな。かすり傷だし)
 そう思い、引っ込めようとした指は、逆に引き寄せられた。
「……へ?」
 感覚で感じるのは、ぬるりとしたなま暖かい感触。
 思わず間抜けな声がクルトの唇から漏れ出る。
 何の躊躇いもなく、青年は血の滲む指先を口に含んでいた。
「…………」
 喉の奥が何か詰まったように声が出ない。
 頬が熱くなっていく。
 赤くなったまま固まっている少女を無視し、青年は強めに血を吸い上げた。
 吸われた指先が軽く痛んだ。
(…………血、か)
 口の中で味を吟味するように青年は瞳を伏せる。
 (さび)のような、舌先を痺れさせる独特の香りが鼻孔で広がる。
「傷はそこまで深くないな」
唇を放し、唾液を飲み込んでチェリオは口元を拭った。
 何処か、吸血鬼のような仕草。
「え……う……」
 指が解放され、漸く一息つく。
「どうかしたか?」
 どぎまぎしている少女とは対照的に、青年は全く気にした様子も見せない。
「……あの、何でハンカチじゃなくて……その……」
 俯き、所々詰まりながら、尋ねる。
「ハンカチ出すのが面倒」
 返ってきた答えは簡潔だった。
「…………そ、そう」 
 予想は出来てはいたが、跳ね上がる鼓動はまだ収まらない。
殴る気も無く、頷くだけで精一杯だ。
 後ろから、ルフィが顔を覗かせ、
「どうしたの?」
 不思議そうに尋ねてきた。
「えっと、んと」
 言葉を濁す少女を訝しげに眺めた後、
「あ、怪我してる。大丈夫……あれ? 血はもう止まってるみたいだね」
 目ざとく傷を見つけ、眉を寄せる。
「う、うん……」
 ぎこちなく頷くクルトに首をかしげながらも、微笑み、
「じゃあ、直ぐに治すからちょっと待っててね」
 詠唱を開始した。
「うん」
 瞳を僅かに伏せ、頷く。
傷口は、流れていた血は跡形もなく、ただ……
 切り傷だけが残っていた。




 空気の流れが、微かに変わった。
「む?」
 何かに気が付いたように、青年が小さく眉を跳ね上げた。
「……え?」
 少女が反応出来ないで居ると、
「来るぞ」
「うん」
目配せをし、二人は頷く。
 辺りから響く、ぎゃり、と言う金属を掻きむしるような嫌な音。
「……遺跡に何も居ない、わけ…無い、か」
 素早く辺りを観察し、クルトは二人に聞こえないような声で呻く。
 煌めく瞳。深紅の牙。赤い獣毛は炎のように逆立っている。
 床に傷を付けている朱の爪は、鎌の様な形状。
 魔物を知らない者が見れば、赤い猫、とでも言ったかもしれない。
まあ、普通の猫の三倍程度はあるが。
 本に寄れば、その体の色は、狩り取った獲物の恨みの念。
 永久(とわ)に落ちぬ―― 一族の烙印(らくいん)
 そう、伝えられている。本当かどうかは眉唾物(まゆつばもの)だが、そんな話がいまだに真剣に言われてしまう程、この魔物の狩猟能力は長けていた。
 猫とは違うのは、体質や、性格だけではない。
紅炎猫(フレイア・キャッツ) まずいわね、数が多いわ」
 狼と同じく……群れを、成すのだ。 
妖しく光る幾つもの双眸。それらを油断無く見回しながら、クルトは紫の瞳を細める。
 後ろ、前、あちこちから、殺気が体に突き刺さる。
 恐らくクルト達の数よりは多いだろう。
「ふん、弱音を吐いた所でこの状況が変わるわけでもあるまい」
「……うう、そうだけど」
 つまらなそうに腕を組むチェリオを見て、ルフィは眉を寄せた。 
「ウゥアァ……」
 獣の唇から、赤子の呻きにも似た甲高い不気味な鳴き声が漏れ出る。
その声に呼応するように、周りの獣たちからも嫌な鳴き声が紡がれる。
「目の前に二匹」
 構えを解かないまま、少女は小さく呟いた。
 言葉に答えるように、ルフィも辺りに視線をやり、
「前方と後方に二匹」
 動揺すらせず、青年は腕を組んだままボソリと告げる。
「右、後ろ、前に三匹」
「計七匹、ね」
 少女の溜め息混じりの言葉と同時に、
『ウアァァウっ』
 紅の獣が、動いた。




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