愛してない贈り物-8



  

 フリルのエプロンを着込んだまま、少女は俯いた。愁いを帯びた表情は見る者の同情を引く。項垂れた拍子に髪に結ばれた細やかなレースのリボンが揺れた。
「あ、クルトちゃんこの生クリーム良い感じで泡立って来たような気がするんだけ……ど。どうしたの」
「今日も駄目だった」
 溜息を漏らしつつも手は休めない。濡れ、けば立ったブラシが厨房の床を遠慮無くぐわしぐわしと綺麗にしていく。勿論話しかけられたことには気が付かない。
「あああああ。あたしの何がいけないの。石けん? 石けんが足りないのかしら」
 水分で団子状にまとまった埃をかき集め、よく分からないことを喚きつつ天井を仰ぐ。
「あ、足りないかな。はい」
 何か勘違いしたのか、側にいた同僚が親切に石けんを入れてくれた。泡立つ床。
「分量が違うの。いえ、分量は合ってるはず。ひらめき、閃きが足りないのよ」
 ぐわしぐわしぐわし。思考に没頭し、泣きそうな顔になりつつもしっかり手は動いている。更にぶくぶくになる地面。
「あっ、石けん多かった?」
 掛けられた声にようやく気が付き、
「へっ。セッケンってナニ……うわ!?」
 はっと下を向くと、床が生クリームまみれならぬあぶくまみれになっていた。これで良く転ばなかったモノだ。
「あれ。泡立ちが足りないって言ってたんじゃなかったの」
 危うく泡の海になる寸前の厨房を彼は平然と眺め、不思議そうに少女を見る。
 辺りの惨状を全く気にしない親切心がコワイ。
「えっあっ。あは、はは。ありがとー。良く泡立ってるわ」
「そう。役に立てたなら良いけれど」
 礼と一緒に引きつった笑いを漏らすと、彼はボウルの中に入ったクリームをヘラで掬って固さを確かめた。柔らかそうなクリームを見ていると、布団を思い出してとろとろと眠気が襲ってくる。
(いけないいけない。仕事に集中集中)
 ブンブンかぶりを振って泡を拭い始める。連日の夜更かしがたたったか、どうにも寝不足気味でいけない。自分でも気が付かないうちに、ぼーっと上手くいかない実験に思いを馳せてしまう。
(あー。でもなんで上手くいかないんだろう。普通に失敗するならまだしも、アレはナニよ!! アレは!!)
 思い出すだけで腹が立ち、胸の内で地団駄を踏む。材料は揃っていても家庭用品。一度目は普通に失敗。薬品を入れるタイミングを間違えたか、沸騰した鍋から煙が立ち上り、見る間に緑色の液体がどす黒く変色して鍋の底が抜けた。
 そこまでは納得できる。一度や二度でまともな品が出来るとは思っていなかった。
 しかし。二度目から首をかしげ始めるような失敗が目立ち始めた。
 二回目の正直。薬品を入れる時間をずらすと今度は妙な泡が吹き出し、クルクル萎んで氷のように液体が固形に変わり、振っても揺らしても逆さまにしても出てこなくなった。どういう経緯でそうなったか分からない。
 三度目はもっと過激で。業を煮やして配合から変えたら何を間違えたか、鍋が変形し、ぐにゃりと芯が無くなったみたいに平べったくなった。表に出ていたほとんどの鍋はこの時点でほぼ再起不能である。
 そして昨夜の失敗は思い出しても腹が立つ。戸棚の奥から鍋を取り出し、もう一度挑戦。木べらで静かにかき混ぜ煮詰めていく間に、液体が透明になった所までは良かった。
 とうとう成功した、と感じ近くにあったはぎれを鍋に入れ。しばしつけ込んでいた布の切れ端を水洗いし、夜の内に干した。
 弾む気分で今日の朝方見てみると――白い布にびっしり余すところ無く『愛』『好き』等と文字が浮かび上がっていて絶句した。
 反射的に火炎を出したら弾かれたので、魔術の刃でズタズタに切り裂こうとしたが、やっぱり防がれたので偉く手間を掛けて解除し、灰になるまで燃やし尽くしてみた。
 灰の跡すら『愛』といった文字を形作っていたのは何か間違った呪いだとしか思えない。
 まじないの本の中にある『思いを込めて』との記述が変な方に行ってしまったのか。別に愛情とかを込めたつもりはなかったが。
 勿論鍋の中身も廃棄処分にし、ふと見ると、鉄製の鍋の取っ手にも『あいしてる』『すき』『恋』とか書かれていたのには脱力した。
 理論的には完成しているはずなのに。実験と机上の空論は違うとはいえこれは差がありすぎないか。毎晩おちょくられているとしか思えない失敗続き。
(絶対まともなやつ作ってやる)
 燃えたぎる思考で少女は誓った。ココまで来るとプレゼントがどうのと言うより、意地だ。
(普通のやり方じゃ駄目ね。もっと何かしないと)
 泡を取り除く手が止まり掛けたその時。明るい声が響いた。
「めずらしいの来たんで持ってきまし――――」
 少年がよたよたと両手に大きな箱を抱え、一歩踏み出す。
「あっ。駄目今そんなの持って入ってきたら!?」 
 考えに僅かに気を反らせていたクルトの静止は一拍ほど遅れた。
 ドガラガシャーン。景気の良い音を立てて少年が悲鳴も上げられず泡まみれになった床を滑る。荷物が弧を描いて宙を舞う。
「くっ。しまった!!」
 片手に握っていたブラシを放り、少女は悔恨の呻きを漏らす。間にも大きな荷は地面に近づいていく。クルトの行動は素早かった。
 地面に置いてあった雑巾で靴底を手早く拭うと、泡の海から孤立していた椅子や木箱に飛び移り、荷物を空中でキャッチする。そのままでは泡にまみれる。が、目星を付けていた入り口側の椅子で弾みを付け、廊下に着地。
「おい。いまスゲー音」
 しようとした瞬間幼なじみの少年が顔を出した。漆黒の瞳と視線が交錯する。
「スレイ邪魔あっ!」
 声を叩きつけるがもう遅い。側にいたスレイを巻き込み、どすんともの凄い音を立てて地に降りた。ついでに「ごぼ!?」と濁った呻きも聞こえたが仕方ない。
「よっし、荷物確保ー!!」
 荷物を掲げると、『おおー』と辺りから拍手喝采。
 降ろし、抱えた荷物に視線を落とす。見かけの割には軽い箱で助かった。
「げほ、ぐほ。オマエ……いきなり跳び蹴りかますな」
 足下から聞こえた苦悶の声にクッションがわりに敷いていた少年の腹からずれ、
「来るタイミングが悪いわよ」
安堵混じりの息を吐き出す。スレイは渋面になると少女の方を睨み付け、
「オレは被害者だって。つーか、なんだあの床は」
 言い募ろうとした抗議の台詞は厨房を目にしたとたん疑問に変わる。
 クルトは箱を廊下に下ろすと眉を寄せ、頬を掻き、
「い、いやあ。ちょっとボーッとしちゃって」
 気まずそうに視線をずらす。
「どういうぼーっと仕方すりゃああなるんだよ」
「あは、あはは。あっ、エルト。大丈夫? ごめんねちょっとあたしが変なコトしてたから」
 呆れが多分に含まれたスレイの呟きにから笑いし、盛大に滑った同僚に視線を向け済まなそうに一礼する。栗色の髪のおっとりした少年は、可笑しそうに肩を揺らし、頬を掻いた。
「氷も張ってないこの季節、厨房でスケートが楽しめるとは思わなかったです」 
 闇色の制服が泡まみれになっているが、穏やかな笑い声。少女はほっと胸をなで下ろし、相手を確認して口元が引きつった。
 勢いよく打ち付けたのか、頭部に見事なこぶが出来ている。固まるクルトを尻目に擦り剥いた手の甲を眺め、苦笑気味に肩をすくめる。
 柔らかい栗毛に包まれた本来緩やかなはずの円形の輪郭が、いびつに歪んでいて、遠目からでも分かる腫れ方にぎょっとなる。彼の幼い顔立ちが更に痛ましさを増長させていた。
「怪我が!? いやあの。ごめ……ホント申し訳ありません!!」
 ぺこぺこぺこ。と普段の彼女からは考えつかないほどの勢いで謝り倒す。
「あ。本当だ。たんこぶ出来てる〜 でも血は出てないので大丈夫です」
 軽く頭に指を這わせ、のんびり屋で知られるエルトは微笑んだ。かなり痛そうなのだが、冷や汗の一つもない。むしろ痛覚が麻痺して居るんでは無かろうかと危惧したくなる様子と罪悪感にクルトの顔色がますます白くなる。
「ほんっとゴメンナサイ。すぐに片付けちゃうからその辺りの椅子でちょっと待ってて。終わらせたら即行手当てするから。でもお医者様に診て貰ってね!?」
 傷口を眺め、涙目になりつつある少女に彼は小さく手を振ると、「心配性だなぁ」とでも言いたげに気楽に笑った。
「凄い音してたけど大丈夫かアイツ」
 ぽつ、と耳に届いたスレイの声にクルトが過剰反応する前に、
「クルトちゃんー。俺仕上げで動けないからコイツが持ってきた箱からオレンジの袋持ってきて」
「あ、はいっ」
 エルトに負けず劣らず、おっとりと作業をしていた同僚が泡立て器を仕舞い口を開く。少女は大きく頷き、足下の箱を開封しにかかった。
「仕上げって……ラファン。この状況ちったあ気にしろよ」
 スポンジの載せられた円形の皿を回す同僚を見、スレイはウンザリと呻く。エルトは今頃になって痛みが来たのか、少女の指示通り椅子に座り、泣きそうな顔で頭を抱えている。
 後ろから聞こえる同僚の合唱を気にも留めず、回転するスポンジを飾り始めた。
「床が泡だらけになったくらいで大げさだなスレイも。ジャムだらけより数倍マシじゃん」
 口は動かしながら、手は休めない。大雑把な発言とは違って彼の指先は繊細な動きを見せる。柔らかく仕上げた生クリームをヘラで薄く伸ばす様は職人芸。
「そう、だけどさ」
 極端な例をあげられても困ると思いつつ、言葉を濁す。確かにジャムやバターの海に溺れるよりは万倍マシだが。もごもごと唇を動かす間にも、平たいクリームに僅かな動きで波が形作られ、溶けた飴が美しい花と変わる。
「スレイ」
 釘で打ち付けられた木箱に奮闘していた少女が手を止め、目線を送ってきた。
 真摯な表情に、重い腰をゆっくりと上げた。
「ん。なんだ。珍しくオレにも謝罪してくれんの?」
 クルトは首を横に振り、にっこと微笑むと。
「ボサッとしてないで泡拭き取っておいて」
 感情のこもらない口調で言い切る。
「オレがかい。まー…手は空いてるから手伝ってやんのもいいけど」
 顎で命令…いや、頼まれ半眼になる。クルトは釘抜き器のくぼみを釘の頭部に差し込み、
「早く!!」
 ごたん、とテコの要領で体重を掛けて引き抜く。小柄な姿と相反する豪快な抜き方。 
「こわっ」 
 響いた音よりも少女が向ける剣呑な眼差しにスレイの口元が引きつった。大あわてで側にあったバケツを掴み、泡を掻き出す。納得したのか、笑みも浮かべずクルトは作業を続行した。


「ったくー。アレのどっこが可愛いんだよ。人使い荒いしさ」
 ふんわりとしたフリル、純白のエプロンという辺りに花を散らばしてもおかしくない格好で黙々と板を引きはがしていく姿を見つめ、ギャップにがく然とする。
 元からそう言う性格なのは承知の上だが、やはり外見が変わると印象が違いすぎる。
 エルトはぷらぷらと微かに爪先を地面に擦らせ、にこ、と子供のような笑顔を浮かべる。
「ええ。クルトちゃん可愛いよ。優しいし、手当てしてくれるって言ったし」
 無邪気な少年の台詞にスレイは大きく息をつき。
 ――そりゃオマエ、原因自分だからだろ。
 向けられた紫の瞳に、喉元までせり上がった台詞を飲み込んだ。
「こんくらいで良いか。元気で仕事も手を抜かない。可愛いと思うけどな。スレイの方が変じゃね」
 飴細工を完成させ、人心地付いたラファンが焦げ茶色の瞳を瞬かせた。
 ――いや。オレはまとも。学園の姿知ってりゃ考え変わるから。
 ガッコガッコ、と板の剥がされる音に心の呻きを溜息でかき消す。
「はっはあん。焼きもちか」
「あぁ!? 冗談キッツイな。つーか。オレのタイプと違うし。ああもうあんなの駄目駄目。やっぱり女はしとやかなのが、ぐッ」
 同僚の茶々に首を振って強い否定をしかけたところで後頭部に鈍い衝撃。辛うじて噛まなかった舌を出して、出血がないことを確認する。無事だ。
「あっ、ごめんなさーい。板飛んじゃった」
 言う少女の足下にはどこをどうやったものか、釘を抜いただけなのに最後の板がが半ばから折れ、無くなっている。
「やっぱ、かわいくねえって」
 側に落ちていた板のいびつな側面をぞっと眺め、スレイは小さくこぼし、シンクの泡を拭った。







 少々不慮の事故が起こったが、何とか全ての上蓋を取り外し、発掘に掛かる。
 先程からぶつぶつスレイが何事か呟きながら泡をかき集めている。それは気にしないようにして。
「オレンジの袋オレンジの袋」
 膝を折り曲げ薄暗い箱の中身に視線を向けるが、袋の外観は全て似たような色で困惑する。試しに顔を近づけるとふわりと複雑な香りが鼻孔を刺激した。甘く、苦く、辛い。全てが混ざり合った複雑な匂い。
「香辛料……?」  
物珍しさも手伝って赤ん坊の頭ほどもある一袋を取り上げてみる。乾燥されているせいか、思ったよりも軽い。好奇心で覗き、取り落とし掛けた袋を何とか持ち、慌てて顔を背けた。
「げっほけほけほ」
 激しく咳き込みながらも手早く紐を縛る。途中何度か自分の指先を間違えて縛り上げ掛けた。腰を折り曲げ苦し気な咳をする少女を見、エルトが慌てたように痛む頭から手外し。
「あっ。クルトちゃん平気!? 言い忘れてたけれどそれ強い刺激物もあるから。
 なんか世界で一番辛いのもあるとか無いとか――ちょっと遅かった?」
 申し訳なさそうに縮こまる彼の目線の先には、激しく噎せこむクルト。
 どう考えても手遅れだ。
「こほごほっ。目、目に……しびる。げほげほっ。オ、オレンジの袋。全部同じに見える……ですけど。喉がイガつくぅ」
 口内に含んでいないのに、舌がピリピリと悲鳴を上げている。
「あ、ごめーん。印付いてるの言い忘れてたよ。
 一番大きな花の刻印が付いてるやつ持ってきて。水飲む?」
 ラファンが頬に指を当て、気まずそうに笑う。もう少し早く気が付いて欲しかった。
「のみまず。けほっこほっ」
 涙でにじむ視界をこらし、袋の側面を眺める。喉も目も痛むのもあって、もう好奇心は萎んでいた。
 普通であれば粗めの麻袋に入っているが、流石に砂粒ほどの香辛料を入れる袋。内側に何重もの重ね貼りがしてあり、丁寧に編み込まれた袋は、それだけで値打ちモノだ。言われたとおり外側を確認すると、全ての袋に熱で焦がした痕がある。文字通り焼き印されているらしい。
 ほとんどが文字を押されている中、派手な花のデザインは一目で見分けが付いた。
「あ。ありましたぁ……けほっ。さ、さすがは世界一。凄い刺激の……ごほっ」
 先程の辛い袋よりも一回り小さな袋を取り出し、泡に注意しながら歩み寄って、ラファンに手渡す。
 吐き出そうとした軽口は、自分の咳で乱された。肺が何度も前後運動をして、息が苦しい。
「はい。水。平気? クルトちゃん涙出てるよ」
 透明な液体がなみなみと注がれた木のカップを渡し、ラファンは苦笑しつつハンカチで少女の目元を拭う。
「済いませんぅ。んぐ……はあ。何とか大丈夫です。重ね重ねご足労掛けます」
クルトはハンカチの端が瞳に刺さらないように出来る限り身体を動かさずカップ受け取り、一気に飲み干し口を動かす。また噎せ混みそうになって舌で慌てて空気を喉に押し込んだ。
「凄い刺激みたいだね。菓子作りをする身としては毒だから触れないようにして、と」
 幾分落ち着いた少女に視線をそらし、ラファンは肩を震わせる。笑いを堪えている様子だが、揺れる肩が彼の心内を表している。
 ちょっとだけ八つ当たりも含まれるが、この店には整った顔立ちの者が多い。それだけに笑いを堪え、ハンカチを差し出されるという構図は尚更腹が立つ。
「あたしは、実験体ですか」
 ちろ、と少女が視線を向ける。ラファンの外見は十五であるクルトよりも少しだけ年上ほどか。
 マイペースな言動が多いが二十にはまだ届いていないだろう。
 漆黒の制服に、清潔そうな白いエプロン。背丈は標準程あるスレイよりもやや高めだ。
 もう一度睨む。いい加減少女がご立腹に気が付いたのだろう。肩の揺れが止む。
 瞳より薄い、それでも金には届かないブラウンの髪が、根本で無理に一つに束ねられていて。長めの筆先みたいな尻尾髪が、彼が首を傾けた拍子に揺れた。
「あーごめんね。でもこの辛いのどうしようか」
 恨みがましい紫の瞳に見つめられ、気まずそうに苦笑しつつ床に置かれた箱に目をやる。中には色々なモノが詰められていそうだった。性懲りもなくこびり付いていた微かな好奇心と確認する余力は先程のやり取りで微塵に砕かれたが。
「それ全部使うんですか」
 唇をとがらせ、頬を膨らませた拗ね掛けた子供そのまま。ぶうたれつつも丁寧な言葉遣いは崩さずにクルトは尋ねる。椅子にちょこんと座り、影に目を落とし足を暇そうに揺らせていたエルトが顔を上げた。
 それまでエルトの存在を忘れかけていたクルトが口元を微かに歪ませるが、全く気が付いた風もなく唇を動かす。
「らしいよ。でしょラファン」
「風味付けは使うけれどさ。辛いのはどうしろってんだ」
 確認代わり顔を向けられ、ラファンが渋い顔をした。何時もテラスでは穏和な微笑みをまき散らす大人しめの彼ではあるが、現在は彼目的の女性顧客が幾人か離れていきそうな渋面だ。
「……辛味付け?」 
「今その香りを嗅いだクルトが死にかけたけどなー」
 緩和にもならない笑みを向けるエルトに、スレイが冷たく突っ込みを入れた。
 鋭い指摘に、呻きとも付かない溜息を漏らし、ポケットから折りたたまれた紙を取り出し、開く。
「…………使えないかもねぇ。頼まれてはいたんだけど」
 打開策は出なかったのか、困り切ったように大きな瞳が潤む。
 思わず少女は頭をぐりぐり撫で回したい衝動に襲われたが、怪我人と言うことも考慮し何とか抑えた。
 クルトの密かな葛藤を余所に、ラファンは大粒のイチゴを果物の群れから慣れた手つきで取り出し、
「あ、そだそだ。クルトちゃんを襲う悪漢にそれの入った水をぶちまけるってのは」
 穏和そのままの笑顔でもってとんでもないことを言い出した。
「良いかもー」
 可愛らしい外見とは違い、止めるどころか同調して親指を突き出し、ゴーサインをあげるエルト。
「いや。二人とも、それは過激」
 待ったを掛ける少女。
 学園では考えられないあたふたしたクルトの百面相を眺め、
「盛り上がりに水差して悪いけど。その場合、もれなくクルトも噎せこむがな」
 スレイは冷めた面持ちで二人のやり取りを見、近くの泡を拭う。
「虫除けに使うか」
「食材に辛味が移るかも」
 切り替えが早く別の方向を考える二名。付いていけないクルトがつんのめり、近場のテーブルで何とか身体を支えた。
「じゃあ辛くて甘いケーキはどうか」
 後方での転倒には気が付かず、やり取りは続く。
「甘くないケーキなんてケーキじゃないよ。何の罰ゲームなんだよそれぇ」
 半ば考えることを放棄しているのか、ふざけ半分の台詞。頭の具合はもう良いのか、それとも忘れているのか、きゃいきゃいとエルトは机を叩き、笑い声を漏らしている。
「うーん。取り敢えず上司に使用方法を仰ぐとして。念のため誰も手を付けない場所にしまっとくか。ばらけたらオオゴトだ」
「そうだねぇ。うっかり水にでも入ったら地獄だもんねぇ」
「恐ろしいこと相談すんなそこの二人」
 和やかに交換される背後の物騒な会話は流石に聞き流せず、スレイが半眼になる。
 その間、突っ込みすら入れず、少女は顎に手を当てたままだ。
 別に喉が痛いわけでもないらしいのだが、小さく口の中で一人呟き、納得させるよう何度も首を縦に振っていた。
「スパイス……か」
 スレイはいろんな意味で心配になりつつ声を掛けようとして、ふと、漏れた言葉に眉を寄せ、
「どうしたクルト」 
「ん。ちょっと、チーフと話してくる」
 問われた事にしばらくは気が付かなかったのか、半拍ほど置いて曖昧に笑う。
「早めに戻ってきて厨房直せよー」
「分かってる」
 手を挙げ、廊下の奥に進もうとして。弾かれたように振り向いた。
「あ、エルト。大分良いみたいだから、悪いけど今のところはこれでごめん」
 ふ、と影が放物線を描き。
「へっ」
間の抜けた声を上げるエルトの手中に何とかそれが収まった。見事なコントロール……と言いたいところだが、命中力の悪い少女のことだ。偶然だろう。
 呆然と掌を眺めているエルトの側に二人は身を寄せ、ラベルを眺めて溜息を吐き出す。
『消毒液……』
 携帯用の小さな瓶に液体が半分ほど入れてある。
 高価な薬用の消毒液ではなく、きっと濃度のアルコールが入っているはずだ。この辺りは揉め事の多い……いや。いつでも戦闘に備えろという教育方針の賜か。
 包帯ならともかく、年頃の娘的にどうだという用意の良さにスレイ以外の全員が黙している。ヒールが床を打つ音が響き、はっとエルトが気を取り戻す。
「あっ、クルトちゃんやっぱいたい。痛いから手当てしてー」
『ごめんなさいー』
わざとらしい呻きに、ぱん、と両手を合わせたらしき乾いた音と謝罪。同僚の悲しそうな顔をしばらく見つめ。
 ほぼ泡が取り除かれた厨房を再度眺め直して、スレイは肺から大きく溜息を吐き出した。

 



 

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